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哲学いろいろ

『緑の資本論』について

緑の資本論

緑の資本論

めちゃくちゃな本だ。思想だ。
誉め言葉ではない。
わたしは神と悪魔とを同時に崇拝すると言っているようなものだ。
あきれてものが言えないを通り越している。

これを きちんと 批判として完成させねばならぬ。荷も重いのだが 気が重い。こんなのを相手にするなどと思うだけで 気が重い。・・・
(未完)

こうして(省略) 資本主義における価値形態論の全領域が 《聖霊》の息吹に貫かれていることを 私たちは確認することができるのである。
(《緑の資本論》 p.110)

聖霊》は 愛であり 愛は 一般に二つのものをつなぐ力である。調和の力でもある。そこから あらゆるものごとが生まれ出てくると考えることが出来る。
そうなると 当然のごとく 資本という二角協働関係から――その協働二角をつなぐ役割を果たして――生産を促し 第三角価値(つまり剰余)を生み出すと見ることも可能ではあろう。
ただ それだけだ。何についても つなぎ合わせるといえば 資本主義の動きについても あてはめようと思えば あてはめることが出来るというだけのことだ。
勤勉と勤勉をつなぎ合わせ その報いをもたらすのも 聖霊の力だと言って言えないものではない。悪と悪とのつながりを それとして もたらし その悪の仕事を それとして 結果にみちびくのも 聖霊だと言えば 類型として 可能なのであろう。それだけだ。
ガリ勉を なんとか その相手を見つけ出して そのガリ勉の仕事の達成に向けてみちびくのが 聖霊だと言おうと思えば 言えばよい。ただ それだけだ。


ことほど左様に 類型思考をしているだけなのである。ばかばかしいと言わないほうが 失礼になる。のではないだろうか。


日本人の学力も落ちたものだ。いや 学力の飛び抜けてよい頭が こういうくだらない考え方をする。どうしたもんだろうか。
(20071219)