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哲学いろいろ

『仏教が好き!』

神に性はなく 女神も男神もない。

神に性はなく 女神も男神もない。女神などがあるとすれば それは 絶対者なる神ではなく ただ 神話伝説や文学表現の中に出てくるに過ぎないという命題。

中沢一神教というので イスラム ユダヤ教 キリスト教と三つあって 仏教は 多神教というか 無神論とかそういうところへ位置づけられることが多いのですけれども 仏教を生み出していった力というのは 一連の一神教的宗教成立を生み出していった人類の意識変化と連動していると僕は見てます。要するに《自然教》から飛躍して・・・。
河合:そう そう 飛躍しているんです。
中沢:ある意味では そこにも女性の否定が組みこまれています。仏教の場合は 一神教と違って 女性を否定しつつ自分のなかに取りこむということをしていますね。
・・・
自然のままの女性というものを否定しているんじゃないかしら。自然の女性を否定して それを形而上学化した女性性を取り入れ 自分のなかの原理としているような気がします。
河合隼雄中沢新一『仏教が好き!』2003p.111)

仏教が好き!

仏教が好き!

たとえば 〔わたし自身は属しておらず それに反対するところの〕いわゆるキリスト教が 聖母マリアを崇めるといった習慣を取りいれているので 母性原理を持ち合わせていると言っても それは ただ 信仰の周辺の事態として 母性や女性性に親しむ側面もあるのだなという意味です。神が母性であったり性としての父性であったりするものではありません。

  • 《天にいますわれらが父なる神よ》と言っても すべては 喩えです。《天》を仮りにその場とするのみです。《親》の意味あいで 《父》と言っているだけです。

形而上学化した女性性を 仏教が みづからの原理の中に取り入れるというのは そうではなく 絶対者の次元に この概念なり理念なりを含むという意味です。それは 絶対者という概念に矛盾する話になります。いくら形而上学化したところで 想像力の産物は 経験世界のものです。精神は 神ではないのです。いわしの頭を形而上学化して 神の属性として 付け加えるなら ゆるされるというわけには行きません。神に性はなく かたちも色も臭いもなく また概念や精神から成り立っているのものでもありません。精神を超えているので 絶対者と呼ぶという想定です。


次は ひとりの天女が 釈迦(世尊)の弟子である長老シャーリプトラに説教しているところです。

  ――大徳(シャーリプトラ)が〔神通力で変身して いま〕女とし
  てあらわれているように あらゆる女も女の姿であらわれているの
  であって 本来女でない者が 女の姿であらわれているのです。そ
  の意味で世尊は あらゆる存在は女でもなく男でもない とお説き
  になりました。

そのとき 天女が神通力をやめると 長老シャーリプトラは再びもとの姿にかえった。そこで天女が言う。

  ――大徳よ あなたがなっていた女の姿は どこへいったのですか。
答える。
  ――私は〔女にも〕ならず また変わったわけでもありません。
天女が言う。
  ――それと同じく あらゆる存在も つくられることもなく かえ
  られることもありません。つくられることもなく かわることもな
  い というのが仏陀のおことばです。

(『維摩経』第六章――梶山雄一『般若経―空の世界 (中公文庫BIBLIO)』(1976)より引用。 pp.148f)

般若経―空の世界 (中公文庫BIBLIO)

般若経―空の世界 (中公文庫BIBLIO)


梶山解説には こうもあります。

しかし シャーリプトラは固執する。
  
   愛着と怒りと愚かさという煩悩 それを離れてこそ菩提(さと
  り)はあるのではないか。そうであれば煩悩と菩提は本体として異
  なった二つの世界であるはずだ。
 
と。天女は叱る。

   それこそが声門(しょうもん)の慢心であり 誤った認識であり
  執着である。はからいの心さえなくせば 煩悩はそのまま菩提なの
  だ。煩悩に煩悩の実体はなく 菩提に菩提の実体はないのである

と。
(梶山 同上 p.151)

神に女も男もありません。悪は存在しません。わづかに 善(=存在)の損傷として――すなわち 人間が自由意志によってその意志を誤用・悪用するとき もたらされた損傷として―― 悪が生じています。つまりはそのような善の欠如状態を 悪とよぶのであって 悪という実体があるのではありません。
神としての悪魔が存在していたり この悪魔によって 人間が 悪を行なっているわけではありません。この神ないし原理が 女性だから 善につながったり 男性だから 悪に結びつくというものではありません。
女性原理・母性原理などと言えば わかったような気になるのですかねぇ。

  • 意志の誤用とは 存在〔=善〕の否定・抹殺です。悪用とは 二重意志として 表では 善に見せかける場合です。

それでも われわれは 欺かれます。至るところで欺かれます。しかも 欺かれるなら 我れ有りです。善=存在に戻るからです。

宗教学者中沢新一くんについては その学識の不十分を笑ってあげればよいでしょう。奮起するでしょう。しなきゃ おしまいです。

死(死後の世界)は 絶対か

誕生や死は 神秘であり その誕生の前や死の後を想うときにも この経験世界を超えた領域について想像力を掻き立てるものがある あるのだが いかんせん このような生命体の時系列の経過は なお 実は 経験世界に属していると言うべきであるという命題。

生と死(死後)との対比をもって 絶対者の問題を考えるには まだ 次元はちがうのではないか。

中沢新一:最大のエクソティシズムは 《死》です。ところが 本当は 死にはそういう線引きができない。なぜなら 《死》こそが 絶対的エクソティシズムだからです。
子供がどこから生まれてくるかという謎と 死はどこにあるのかという謎は 同じもので これが エクソティシズムの根源ですよ。
〔細野・蓮実との座談会:《日系人》になりたい!『ユリイカ』1997・8〕

生命体の誕生とそれ以前 あるいは死とそれ以後 これらは 謎である。しかも 経験世界の出来事だと言おう。相対性の次元を超えていない。
DNAは受け継がれており からだを作る素材(質料)は 解放されつつ これも 続いている。自分の誕生や死の瞬間を見る事は出来ないが 他人のそれについては 経験的な出来事である。

もし生命ということにかんして謎があるとすれば それは おそらく このような経験世界とだけではなく これを超えた世界とも かかわっているのかも知れないからだ。その超経験の領域へと われわれの精神=身体が開かれているからではないだろうか。それは 死を超えていると言わなければなるまい。