caguirofie

哲学いろいろ

#164

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第四部 聖霊なる神の時代

第九章 三一性主体なる人間はそれら三行為能力を 三位一体なる神に関係させることができる

〔第二十三章 43〕
したがって ものそのものである三一性と他のものにおける三一性の似像とは別である。この似像のために あの三つの能力を持つものも似像とよばれるのである。それはちょうど 書板とそれに描かれてあるものとが共に似像とよばれるようにである。しかし書板はその上に描かれてあるものによって似像という名称を持つ。ところが 万物の上に比類なく卓越しているあの至高の三位一体のばあいには 人間が持つ三一性は一つの人間であるとは言われ得ないのに 神の三位一体は一つの神であると言われるし また一つの神であり しかも この三位一体は一つの神の中にあるのではなく 一つの神ご自身であるというほどに三つのペルソナは不可分離である。
(三位一体論15・23)

したがって 人間の経験的な三一性(欲する目的の数だけ つまり無数に その行為過程として 断片的にしろ一連のものとしてにしろ 存在する。のだが まとめて 記憶の視像とそれを知解した視像と 両者をつなぐ愛 これら三つの行為能力の一体性として とりあえず 一般的に言っているその三一性)は 史観(人間)の上に描かれた主観の文章(行為)であり 人間の有である。しかもこの三一性の似像は これによって史観の存在(人間)じしんが 似像と呼ばれるほどに 三位一体なる神の似像である。しかし 神の三位一体が 三つのペルソナであるのに 人間の三一性の似像は 三つの行為能力の過程的な三一性である(つまり その知解された像)であるというほどに またそれは そのまま 一つの人間とは言われ得ないというように 一個のペルソナたる人間一人ひとりの有である。
人間は ものそのものである三一性が 行為する(あるいは 人間を行為させる)のではなく 人間(三一性主体)が 行為し この三一性を所有する。[だから 立法(知解)‐司法‐(記憶)‐行政(愛)の三権を 市民〔社会圏〕が所有すると言われるのは 正しい]。
この三一性の似像は 行為が時間的になされることより 過程的〔なもののそれぞれの局面〕であるが またその主体は神の似像であるということによってのように はじめの記憶という行為能力に 知解も愛も含まれるというほどに 瞬間的なもの(そのように了解されるもの)でもある。神の似像たる人間は この三一性を所有している。つまりそれによって行為する。また 行為の結果をそれとして持つ。
人間のやしろが 原理として 内的にそしてあたかも鏡として外的にも キュリアコン(主の家)とよばれるのは この謂いによってである。その基盤は 外的にさえというほどに 第一次やしろ すなわち エクレシアなる自治態勢( mura )〔の共同自治現実〕に見出されるべきであろう。(つまりここでは A圏スーパーヤシロのように 単独分立アマテラス者はいないと考えられる限りで)。第二次やしろ すなわちA圏・スーパーヤシロの《法律・司法‐経済・立法‐政治・行政》の三行為領域は 人間の内なるやしろの三一性を映したものである。《司法(記憶)‐立法(知解)‐行政(愛)》の三権は ヤシロすなわちS圏・自治態勢の水準に 基本的に移されるべきである。このエクレシアを基盤として A圏は 一定の地平(くに)を総合的に調整するという意味で しかしより基本的には むしろ 各エクレシア( muras )が 第一義的な主体となって それらの属する一定のまとまりとしての地平(社会形態)をすでに超えてのように その内外を問わず インタナシオナルなインタムライスムを形成して その上で一定地平のまとめ役というほどに このS圏・諸ムラの上にあって 存続すると思われる。
なぜなら アマテラス語なる客観的なとさえ見られるほどの思惟の記憶(みんぞく性)や愛(愛国心)が 想起したり愛したりするのではなく 人間が――個々の人間が――想起したり知解したり愛したりするのであるから。(民族性やあるいは愛国心さえも なくなるとは思われない。ただ 主導的な地位から去り その顔蔽い性は剥ぎ取られて かすかな記憶として S圏の上に あるいはS者の周縁的な一事実として のっかっている。ないし 残るのである)。一つの客観的な次元・領域が求められるとするなら それは各ムラにおける記憶(司法 / デモクラシなる社会形態) 知解(立法 / インタイエ(家)キャピタリスムなる経済制度) 愛(行政 / インタムライスムなる自治連合形式)であると考えられるから。
なぜなら この場合は A圏がそうであるのとは違って 内なるやしろの三一性の写しではなく また逆に言って A圏が二重の(二段階の)写しであるのとは違って 内なるやしろの三一性の直接的な反映であると言うべきであるから。三一性の似像なる八重垣が もはや 上下さかさまに倒錯したり またそれを裏返して着たりすることはなくなるから。やしろの虚偽を内的に棄てるというとき この外なるやしろの書き替えも必要であると思われる。

〔43 つづき〕
さらにまた 三つの能力を持ちながら一つのペルソナである人間としての似像のように この神の三位一体は一つのペルソナではなく 三つのペルソナ つまり子の父 父の子 父と子との聖霊である。
人間の記憶 そしてすぐれて 動物が持たない記憶 言いかえると その中に叡智的なものが身体の感覚によっては到達できないように包含されている記憶は この神の三位一体の似像において それ相応に 当然 比較にならぬほど等しからずとは言え 御父との或る種の類似を持っているのである。
同じく 私たちが知っているものを語るとき そこから思惟の志向によって形成される人間の知解力は いかなる国語にも属さない心の言葉( verbum cordis )であり 勿論 遥かに隔たってはいるが 御子との或る種の類似を持つのである。
知識から発出し そして記憶と知解を結合し いわば親と子に共通な しかし親でも子でもない人間の愛も はなはだしく等しからずとは言え この似像において聖霊の或る種の類似を持っている。
しかも この三位一体の似像において この三つの能力は一人の人間そのものではなく 一人の人間の有である。そのように あの至高の三位一体ご自身――その似像が人間なのである――においては あの三つの能力は一つの神の有ではなく 一つの神であり また それは一つのペルソナではなく 三つのペルソナである。三位一体のこの似像が一つのペルソナであるのに 至高の三位一体ご自身が三つのペルソナであるということは たしかに不可思議にして言い難く あるいは言い難くして不可思議なことである。三つのペルソナの三位一体は一つのペルソナの三一性よりも一層 不可分離なのである。神性―― divinitas あるいはもっと正確に言うなら  deitas ――の本性において三位一体は真実に存在するものである。この神性は各ペルソナの間で変化なく 常に等しい。それは存在しなかったことなく また別様にあった時もなかったのである。また 存在しなくなるであろう あるいは別様に存在するであろう時は存在しないであろう。しかしながら 三位一体の不完全な似像の中にある三つの能力は物体ではないから 場所的に分かれているのではないとしても この現在の生において相互に大きさによって分離している。なぜなら そこには いかなる集塊も存在しないが それでも私たちは或る人においては知解力よりも記憶力のほうが大きく 他の人においてはその逆であり また或る人においては この二つの能力が大きさにおいて愛に凌駕される――この二つが等しくあろうが等しくなかろうが――のを見る。そのように 二つは各個により 各個は二つにより 各個は各個により 小さいものは大きいものに凌駕される。すべての疾患が癒されて 互いに等しくなるとき 恩恵によって もはやいかなる変化も蒙らないものも本性的に変化しないものに等しくされないであろう。それは 被造物は創造主に等しくなく そして被造物はすべての疾患から癒されるときも変えられるであろうからである。


〔44〕
しかし非物体的であるだけではなく 最高に不可分離的であり 真に変化しないこの神の三位一体を 《顔と顔を合わせて》と私たちに約束されている神直視( visio )が訪れたとき 私たちの現在の状態を示すこの似像よりもずっと明らかに確実に見まつるであろう。しかも 《この鏡をとおして》《この謎において》 この生において見ることが許されているかぎり 見ている人びとは私たちが詳論し提示したあの三つの能力を その精神において認める人びとではなく その精神を いわば似像として見る人びとであり そのようにしてかれらが見るものを精神がその似像でありお方に或る仕方で関係させ得るのである。そしてかれらが認めることによって見る似像をとおして予感することによってではあるが 神を見得るのである。まだ 《顔と顔を合わせて》神を見ることは出来ないからである。実に使徒は 《今 私たちは鏡を見ている》と語るのではなく 

今 私たちは鏡をとおして見ている。
(コリント前書13:12)

と語るのである。
(承前)

以上の文章は すでにわたしたちが論議してきたとおりであり その原理的な内容である。
つづく文章は 《だから 見られ得るだけ自分の精神を見 また その精神において私たちに出来るかぎり 多くの仕方で論じたあの三一性を見るが しかも その三一性が神の似像であるとは信ぜず また知解しない人びとは なるほど鏡を見ている》である。
かれらは A圏における三権分立の形態を 最終的なA者の・ないし人間社会のかたちであると思いこむというまでに 鏡を見ている。鏡そのものを見ている。言いかえると 鏡は鏡 似像であるということを 見ないのである。したがって 実に この鏡・その《似像をとおして予感することによってではあるが 神を見得るのである》と 他方では 知られる。《真の現実・真の自由を見得るのである》と経験的な語に置きかえると分かり易い。しかし 《神》という語も 人間の言葉であり 人間がかつてこの語を持ったとき ばかみたいに空想して作り上げたのではなく 経験的なものごとをつうじて かつそれらを超えて 《神》とよびうる現実(そのはたらき)がそこにあると確かに共同主観したのである。
この超自然的な力である神を排して 科学こそが人間の共同主観であると思っている人びとも たしかに鏡を見ている。ないし 鏡の中で経験的に実験しあるいは論理実証するにすぎない。科学・人間の理論は だから やしろなる鏡の第一の幕屋であり 人はこれを超えて その奥なる至聖所に臨むべきであり そのとき《予感することによってではあるが 現実を見得るのである》。これは 史観である。見えないものが 現実である。
この後者の人びとは 《あの三つの能力を その精神において認める人びとではなく その精神をいわば似像として見る人びとである》(=史観の第三原則――第二部第一章 第四節その他)。自己意識(無意識を含む)の限界ないし上限を超えて 時間的な〔意識された〕ものごとをとおして 無時間的な神の言葉すなわち真理を見得るのであり この神の力・知恵なるキリストが あたかも人間〔の歴史〕に介入していることを知るのである。かれに属(つ)き かれにみちびかれるとき 人は 自由であると言われた。
(つづく→2007-10-28 - caguirofie071028)