caguirofie

哲学いろいろ

#34

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第十二章b 愛の問題

いったい性交とは何なのか。そこにはたらくとされる本能とは何か。いや 欲求の過剰 欲求の錯乱 欲望とは何か。人間の感性とは何か。だから愛とは何か。
わたしは 禁制と同じような道徳を説こうというのか。あるいは ありもしない愛を執拗に語って その誤謬へ人をみちびこうとするのか。
問題は じつにセックスの問題なのである。人間だから女だからという甘え あるいは 甘えを強き理性で克服し これを軽蔑する催眠術 これらは――最初からは――ゆるされない。人間だから女だからの《から》が 井戸端会議されなければらない。この《から》が 縄文生活から弥生時代を経て 現代市民の社会関係へ至り これが動いてゆくものであると言わなければなるまい。われわれは この動態の中にいる。
そしてむしろ 誤謬とは何なのか。愛の誤謬とは何なのか。じつに性交しないことではないだろうか。余剰として性交することではないだろうか。じっさい 禁制は何もない。
じつに柄谷行人が 《形式体系(たとえば生活原理)は 自己の言及性(自己の同一性)をとおって 神へ飛躍する》といったとき 生活原理は初めにいと高き感性の愛へ飛躍しているのであって 時にその理論的な知解に及ぶと言うべきだと言ったように 女性解放は すでに初めに解放されている(自己還帰している)のであって 逆にいま縄文人的知性は 解放 解放と ありもしない状態を叫ぶことへ飛躍して行ってしまう。と言うべきではないだろうか。
この誤謬(あるいは転倒)が回転させられたとき 現実の具体的な誤謬(たしかに女性差別のいくつかの矛盾)にあらためて目を向け あの《から》が議論しあわれてゆくのだ。周りくどい 机上の空論のようであるが わたしたちは このように解釈する。これが 水田珠枝の言う《女性論の視点》であると――つまりそれはそのようにまだ視点であるのだが――考える。机の上から職場や街なかへ出かけていることは わけないであろう。と考える。


   ***


愛の問題を さらに別の角度から よろしかったら 次のように議論を補いたい。


わたしは 三位一体なる神をつぎのように説明したことがあった。

  • ちなみに 説明したというのであるから わたしがそう信じている あるいはそのように人間に信じられると つまり言いかえると 神はそのように実体として在ると信じられると 言おうとしたのではなく そのように信じ得べきものを信じ得べきように表現することが出来ると――人間の言葉によってそう表現して人びとを信じさせることが出来ると――して説明している。
  • また 長い一連の議論である。


父なる神は 子なる神を生みたまうた。また父なる神は 人間を生みたまうことが出来る。父は この権能を 子なる神を生むとき 子なる神が 量的・質的な差なくして 持ちたまうように 授けた。父が子を生んだというのであるから 経験的な概念で言っても 父は子を愛したまうた。子を愛したまうたと同じように 人間を愛したまうた。そして父は子に 人間を愛する権能をも 十全に 欠けることなく 授けたまうた。
父が子を生みたまうことと 愛したまうこととには 量的・質的な差異がないと考えられる。言いかえると 生みたまい得る存在ということは 愛したまう存在であることに等しく 父である権能は愛である能力と同じであり この愛は 子である権能にも等しい。
父が子を生みたまうたとき 何らの時間的なへだたりなくして そこに 言いかえると 父から及び子から あるいは父と子との交わりから 愛が 父や子と同じ存在・同じ力として 発出したまう。
子の父は 父の子を および 両者のまじわりである愛を 人間の世界に 派遣されたと考えられる。子は 人間となって派遣された。つまり みづからを空しくされ 肉となって現われたまうた。それは かれの神性を欠如させてではなく そのまま 父なる神の独り子なる神として現われたまうたと察せられる。言いかえると 第三の愛なる神を発出したまう神として この地上にやって来たまうた。
第二の子なる神が 人間となってやって来る前にも 父と子は 愛つまり言いかえるとこの第三の聖霊なる神を 同じくこの地上に派遣したまうたと考えられる。子なる神がやって来て 人間の言葉でこれらの神のみ心を 告知したのであると。つまり 聖霊は 人間に派遣され 人間の肉に宿りたまうのであると。子なる神は人間となられたが 聖霊なる神は そうはならなかった。聖霊も子も 互いに等しい神であられるが 聖霊が 固有の意味で神の愛として 人間に与えられ人間の内に宿りたまうのであると。
この父と子と聖霊の三位格(ペルソナ)の一体性は 光にたとえられ 光の 光源(父)と発耀(子)と明るさ・暖かさ(聖霊)の一体性にたとえられると。三位一体とは 各個が各個に等しく 各個が全体に 全体が各個に等しい存在であると。つまり 真実の光なる神は 一つなる本質(存在)でいましたまうが 三つのペルソナを持ちたまう。父とか子とかその交わりである聖霊とか これらの表現は 関係として言われるのである。言いかえると 子の父も 父の子も 本質として 聖であり霊であり愛であるということ。
人間は この三位一体なる神に似せて造られた存在であると考えられた。
神は 光であり そのうちに関係として三つのペルソナを持ちたまう一つなる真実の神であると 人間は記憶する。この記憶は 記憶が記憶に帰るとき つまりあるいは 人間がその記憶に尋ねるとき そのようにその内容を知解する。つまり 記憶がこの知解を生む。そして なぜなら 記憶し知解するとき そこに これら言わば父のような記憶と言わば子のような知解とを結び合わせる第三の行為能力である意志を持っており この意志は 人間が神の愛を分有させられてのように 記憶と知解の行為の初めに はたらいたと 記憶され知解される。この人間の 記憶と知解と意志の一体性は 神の三位一体の似像(にすがた)なのであると考えられた。
人間の 記憶は いわば精神の秩序であり 知解(知識)の宝庫である。記憶の宝庫から精神が知解するとき 意志が発出されていると考えられ この意志は人間の持つことが出来る愛である。自己の記憶と知解と意志とは 他者のこれら三一性に 同じものであると考えられる。このとき 自己の意志 自己の愛は 他者の愛――他者への自己の愛 および 他者じしんの自己の愛――と同じであると考えられる。
人間は 三位一体の似像なる存在として 人格(ペルソナ)として 一つの本質(存在) 一つの実体(ペルソナ) 一つの生命である。
人間という一個のペルソナが 記憶と知解と意志の三一性を持つと考えられる。人間における言わば父なる記憶と 言わば子なる知解と また部分的・可変的なものにしろ愛なる意志とは 人間のそれぞれ行為能力であり 人間の有(もの)である。人間の有である三一性は 一個のペルソナなるわたしが 持つものである。また 人間にあっては 記憶が記憶し 知解が知解し 意志が意志するのではなく わたしが 記憶し知解し意志するのである。
ところが 一個のペルソナにおける三行為能力の一体性よりも 三つのペルソナの一つの本質なる一体性のほうが はるかに不可分離としてあると考える。神の三位一体は 記憶なる父が 知恵なる子によって知解するのではなく また愛なる聖霊によって愛するのではなく 父が 子や聖霊と同じように 知恵であり愛であり 聖であり霊でありたまう。知恵であること愛であることと 存在することとは 神にあっては 同じ一つの本質である。人間は 人間として存在するわたしが 記憶したり知解したり意志したりする。三つのペルソナの一体性のほうが 一つのペルソナにおける三行為能力の一体性よりも はるかに不可分離的であることは 不思議である。
しかしながら 人間は 或る三人の人が 一人は記憶し父であるようであり 一人が知解し子であるようであり もう一人が意志し愛であるようであったりするように 三位格の一体性にかたどられて これを になうのではない。一個のペルソナであるそれぞれわたしが ひとりで 三位一体の似像である。
神は 愛するように存在し 存在するように愛する存在であるが つまり言いかえると 人間となった子なる神は 父なる神の為すことを見たまわなければ 何ごとも出来ない それを能力によって為し得ないのであるが 人間は 存在がそのまま 記憶であったり知解であったり意志であったりするのではない。言いかえるとかれは わたしは きみは 三一性を持つ存在であるが 三一性そのものではない。人間は 何を為しても その三行為能力は それなりに 一体であるが 神の全知(記憶)・知恵(全能)・愛(遍在)のようにあるのではない。じつに人間は 神の三位一体を離れることが出来た。
つまり 三位一体なる神の説明を このように 為したことが起こった。
したがって 人間また人間の三一性は 神の三位一体なる光に対して いわば薄暮の光であると。
これが信じられるなら つまり これを信じさせられ得たなた 人間にどういうことが起こるか。
人間は 神の三位一体を離れることが起こった というように表現するなら 表現にかんする限りで かれは もとは 三位一体のもとにあったのかどうか。あるいは そうではなく 人間はもともと 有限で移ろい行くべき存在としての三一性を持っていた人間なるものであって ただ 時に 誰かが この人間の三一性から類推してそれを純化して 神の三位一体なるイデアをかたちづくり これを 信仰としたのであるか。あるいは この場合にも 第一の意見は 三位一体のもとにあったということが 三位一体そのものであるということを意味せず 意味しないなら 言わばもともと三一性の主体でしかなかったという場合でも かれは 神の三位一体に関係づけられると言えるのかどうか。証明できないが そう言いたいという意見に対して どう対処しうるか。
人間の有ではない三位一体なる神 そして 人間そのものではない三位一体なる神 このようなイデアは どこまでが 幻想で どこまでが 現実であるのか。人間が 三位一体なる神を 信じ得べきものとして主張するその人間の言葉には 真実があるのか。
(説明のおわり)


以上の議論は こう言いかえることが出来る。
人間の真実とは はたして何か。
人間が人間するとき それはどんな現実か。
うえに述べた議論のように 神はあるかではなく むしろ人間はあるのか。真理はあるかではなく むしろ真実はあるのか。
光(真理)に対して 闇(虚偽)がある。薄暮の光(人間の理性なる真実)とはなにか。
したがって じつに 愛とはいったい何かが それです。神は愛であり 人間も愛するといわれるのだから。でも この《から》こそが 問題の焦点になっているのかも知れない。議論で《から》という言葉を使うということ そのような人間の人間との関係とは いったい何か 

  • このとき フォイエルバッハの《神学の秘密は人間学である》という見方を採らないこととします。わたしたちは あまり神学になじまないから。上に述べたところが 神学であるとすると この神学は人間の言葉で述べたものであるから。そして 逆に人間の言葉で述べた文章が 時として 神的権威を持ったもののように――つまり表現じょう そのようであると――思われたりする場合もあるから。神学と人間学とに分けるのではなく ここでは 一般にヨーロッパでつちかわれた神学の成果も おおきく人間学として しかもその神であるとか三位一体であるとかの議論を おおきく人間学の中にむしろそのまま包み込むようにして 表現じょう用いることとします。
  • もっとも このような行き方は 便宜上の手段であるとは言っておかなければならないかも知れません。つまり いわゆる神学の行き方と別様に 議論をすすめるというわけでもないということになります。微妙ですが ここでの重心は 次のこと すなわち 《人間が人間する》もしくは」《わたしが人間する》または《わたしがわたしする》という主題にあるということを言って 断り書きをしたためておきます。

要するに そこで 愛とはなにか。
(つづく→2007-05-20 - caguirofie070520)