caguirofie

哲学いろいろ

#12

もくじ→2007-04-16 - caguirofie070416

第四章a 歴史の明け方――やはりスサノヲ物語――

さて本論に入るわけですが われわれはただちに具体的な歴史の議論に及ぶのではなく スサノヲとアマテラスの神話〔とそこに窺われる歴史〕をさらに吟味し これまでの議論の前提を点検しつつ進もうという心づもりです。この昔の書物も現代のわれわれも 逃げていくわけではないから あせる必要はない。
そしておそらく 具体的な論議に入るとわたしたちは あやまちを侵すかも知れない。言いかえると いま課題としている理論行為はすでに 現実のいまの歴史と一体である。少なくとも並行していて 具体的な論議については 理論の正解よりも まづ初めの問い求めの場の確認を――そしてそれを見失わないことを――心がけ この《場》の問題の常識化をこそむしろ正解とし その方向において あとは 試行錯誤の――自由な研究と討議の――過程として見すえていればよい。
また 自由な論争というとき それは 文字どおり自由な活動を意味するわけであって それはおそらく同じことで言うと はじめの前提としての問い求めの場の 一方で放棄 他方で強制 これらのいづれからも自由であるということでなくてはならないでしょう。
じつに 《わたしは書物を書くことによりもそれを読むことに専念したいということをどうか信じてください》(アウグスティヌス:三位一体論 3・序・1)と言わしめるような またそう欲しつつ進むような 新しい生活をわれわれは考え出してゆくことが出来る。つまりここで 書物というのは じっさい 人間という・つまりわれわれという生きたおのおの一巻の書物なのであって 通例の読書とかを意味せず――とも読むことが出来―― したがって一方で やたらなる高度経済成長という意味での書物の拡大再生産のことでも また他方で 書斎に閉じこもる読書への専念のことでもない。――
新しい生活は 抽象的に言って こうであるとわたしたちは考えています。
この《考え》はすでに 何を為すべきか知らないとは言わせないみなもとの推進力をもはや見ている。これは オホクニヌシと同じようにスサノヲの歴史を継ぐ しかも現代におけるいわば第二のスサノヲとなっての日本人の新しい歴史。あるいは スサノヲ〔とクシナダヒメ〕が 第二のイザナキ〔とイザナミ〕としての日本人の新しい歴史。このようにわれわれは あたかもペテン師のごとく言ってはばからない。
それには これまでの日本人の歴史を総点検して見せなければならない。これに新しい解釈をあたえなければならず しかも ここでの任務として 世界を解釈するだけで十分である。(文章を書くだけで世界を変革しようというのは いささか高慢であり 世界の変革のために文章をものするというのは いささか幼稚である)。
さて ト書きはこれくらいにして。――


第一のわれわれのセリフは やはりアマテラスとスサノヲの物語に見られたところの《うたがい とこの疑いの克服》にかんしてです。
まづ 次の文章を読んでこれを検討します。つまり《疑い》の問題の代表例として
挙げます。

絶望の唄を歌うのはまだ早い と人は言うかも知れない。しかも 私はもう三年も五年も前から何の明るい前途の曙光さえ認めることができないでいる。だれのために仕事をしているのか 何に希望をつなぐべきなのか それがさっぱりわからなくなってしまっているのだ。
この自分の眼にしっかりと何かの光明をつかむために 何かの見透しをもちたいために 調査室の書棚の前にも立ったし 研究会のテーブルの周りにも腰かけてみた。私には納得の行かぬ 目先の暗くなることだらけである。
いや 実はわかりすぎるほどよくわかっているのだ。受けつけられないのだ。無理に呑み込むと嘔吐の発作が起きるのだ。私のペシミズムは聡明さから来るものではなくして この脾弱い体質から来る。先見の明を誇ろうなどという気は毛頭ない。そんなものがあればあるで 自分の無力さに又しても悩みを重ねなければならないであろう。
林達夫:《歴史の暮方――時代と文学・哲学》 昭和十五年六月)

歴史の暮方 共産主義的人間 (中公クラシックス)

歴史の暮方 共産主義的人間 (中公クラシックス)

執筆の時点を考え合わせて読まなければならないのでしょうが わたしは 《時代の流れ・世相》とは別個のところで だから 時代と深くかかわっていることにもなるでしょうが 要するに ここに 疑う精神が存在することを見ます。もしくは この疑い つまり あの疑いを 想像においてつまり書斎の中で解消して歴史する つまり歴史しないひとりの人間を見ます。
それはたしかに 《脾弱い体質から来る》のです。スサノヲやオホクニヌシは 《先見の明》などどうでもよかった。《前途の曙光》などという甘い考えで 歴史したのではなかった。あるいは スサノヲの歴史が 復活という光明であって これを後のオホクニヌシが見ていたのであれば そうして これに照らして或る種の《先見の明》がすでにかれに育まれていたのであれば たしかにそれでもオホクニヌシは この先見の明を《誇ろうなどという気は毛頭ない》のであって 八十神(やそがみ)たち兄弟による迫害に耐えた。
迫害を愛するわけではなく――愛するなら 《受けつけられないものを無理に呑み込む嘔吐の発作が起きる》か または じっさい嘔吐などもしていられないであろうし―― 迫害に耐えることを愛するのでもなく――これを愛すると 今度は 《絶望の唄を歌うのはまだ早い と人は言うかも知れない。うんぬん》とうたって見せなければならない―― 要するに 迫害する(或る意味で疑う)八十神たちの欠陥を憎み 徹底的に憎み かれらの人間(その存在)を愛し 迫害に耐えた。
スサノヲであったなら その心の清きをかけて勝負したり この勝負がつかないでなおアマテラスが疑いを解かなかったときには 非行に走ってまで 疑いをうたがい返し 自己の同一性を保とうとした。この歴史の終えられたところから始めて オホクニヌシは迫害という疑いに耐えた。兄弟たちに仕えきった。
ここに先見の明が生まれて来るのであって それは むしろ初めに《自分の無力さに悩みを重ねなければならない》ところから出発しているのであって 《もし先見の明があればあるで 自分の無力さに悩む》などという《脾弱い聡明さ》からは自由であったのです。《歴史の暮方》であろうが《明け方》であろうが 同じ愛の王国の市民の歴史。
もっとも わたしは この文章の著者である林達夫が 《疑い》を持ちつづけ これを克服できなかったのかと言うと そうは言っていない。そうは見ていない。かれは これを書斎・書物の中で解消した。いや このような不毛な言い方はよそう。かれは 現実に 疑いを克服した人であった。と言おう。しかし ここで林は その自己を誇っている。先見の明を誇らず 聡明さを誇らず 疑い(コミュニケーションの不毛)を克服したそのもう一方で 克服した張本人である自己を誇っている。わたしが愛の王であると。学識がこれを証するであろうと。
時代(いわゆる戦時中)のアマテラス政治家が かの古えのアマテラスの疑い これを執念深く持ち続けていたかどうかは知らない。仮りに持っていたとしよう。しかしこの場合にも 疑いを克服したスサノヲらの愛の王国は この地上のアマテラス者らの国と 入り組み混同しているのであって そこに寄留しているのであって ほんとうには 両者のあいだに非武装中立地帯もなければ インテリであろうと何であろうと どこか書斎とか学問の世界とか かれらのみの治外法権の区域が存在するというわけの世界なのでもない。
ところがこれを 林は 図らずながら 書物の中に求めている。あるいは先見の明よろしく後世の――自分が関与しない――歴史に求めている。あたかもそのような――想像力と学問による――精神の王国は わが祖国であって 無傷で存続するであろうと。
精神の王国でも人は もはや自分でない自分が そこに生きていると思うかも知れない。事実 思うであろう。ちょうど わたしでないわたしが わたしする・歴史するという愛の王国の歴史と同じ表現で捉えられるというように。ところが アマテラスの疑い つまりこの世の必然の王国の統治術 これも 或る種の仕方で 精神の王国なのである。そしてこのアマテラスの精神の王国に ひとりの《ペシミスト》もいないと言うのは つまりやや表現を換えて言えば《納得の行かぬ 目先の暗くなることだらけである》のではないと言い合い表明してゆくのは うそであり愚かである。スサノヲやオホクニヌシはこれを 直観しなければならなかったし 事実そうして 疑いを――自分にかけられた容疑を――晴らそうとすることの無力を感じなければならなかったし 疑いを 行動によって(非行によって あるいは 仕えきることによって)疑い返し 自己の同一にとどまることを愛した。
この手を止めなかったのである。必然の王国たる前史〔に寄留することによってそ〕の中から 愛の王国が生まれ 後史に立ったと神話は記すのであって この前史から後史への回転の秘密そのもの これを ちょうど想像力によって精神において捉え この精神の王国の住民たろうとすることによってではない。また アマテラスの疑惑・思わくにかんして 心理学・精神分析学することによってでもない。非行・叛乱 あるいはまた侵略に対する服属ないし闘争 これらによって――これらも 人びとはおこなったが これらそのものによって―― 疑いを克服するのではなく(人は これらを用いて疑いを克服する または それだけでは有限である だから そうではないが)疑いの克服の歴史を 書物に表現しそこに精神の王国を認めることによってでもない。
それは この精神の王国を――あるいは すでに非行そのもの・服属そのものといった行為を―― ただしく人間の前史(その母斑)であると認めることによってである。つまりそう認める人に 愛の王国が生起すると古事記は伝えたのである。この謎において 鏡(《歴史の暮方》ないし《明け方》の つまり《時代と文学・哲学》なる鏡)をとおして 前史が後史へ回転した自己に 自己が到来すると考えられた。アマテラスもスサノヲも 同じ存在(社会的動物)であって 先見の明ある人にも 他の場所つまりひとり治外法権を享受しうるような世界などないとして 歴史がすでに始まっていたのである。スサノヲやオホクニヌシは――かれらは理論としては著わさなかったが―― かれらも同じく 精神をとおして直観し 生きたのであって この精神を精神において理論することは また別の仕事である。
(つづく→2007-04-28 - caguirofie070428)