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哲学いろいろ

#105

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第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成

第六十章a 同じことを 聖徳太子への批判として

――§17――


聖徳太子(574−622)が キリスト教と深いつながりがあると言われることがある。それは 

唐の長案にある《大秦景教流行中国碑》によると 唐の貞観九年(635)のころには 唐都長安に大秦景教と称されるキリスト教ネストリウス派が入っていたことがわかる。
上田正昭聖徳太子 1・2 日本を創った人びと 1 聖徳太子

ゆえ 《厩戸(うまやど)誕生説話にキリスト馬小屋誕生譚の影響》が指摘される〔可能性がある〕といった点とは 微妙にちがって そうではなく 前章にのべたシントウ(神道)の中の《神の子オホタタネコ》に かれが 重ね合わせて見られるという点に注目してのことである。
このような内容としては一般に言われるわけではないが わたしは ナシオナりスト・シントイスムの共同観念では あたかもそのような観念の資本(くにやしろ資本 また うた)の構図が 暗に持たれるのではないかと うたがっている。
ここでは うたがいを論証するのではなく そのような観念共同の構図が――聖徳太子に限らず キリストその人についてのキリスト教としても(とにかく 共同観念となった宗教としては)―― 聖徳太子伝承のかたちで 持たれ得る点に注目して見ることができる。単純に言って 《聖》や《徳》といった精神の問題でたたえるべき観念が登場すれば スーパーアマテラシスムだとして捉えられるという見通しである。
太子とキリスト教との関連については 二・三の類似点を指摘することができる。言いかえると 結論にかかわる問題としては あたかも《ヒトコトヌシ‐オホタタネコ‐オホモノヌシ》の三位一体〔と表現しても大きくまちがわない〕信仰=共同主観が 明らかにアマテラス者たるひとりの人に 共同観念ナシオナリスティックに 仮託され アマアガリさせたかたちで語られるという問題。
オホタタネコの場合は いまだナシオンあるいはつまりそのような意味でのアマテラス語概念=観念の交換価値とは 無縁であり 聖徳太子のばあい すでにそのものとして 観念的・宗教的なアマアガリにかかわり 人びとにその模範にならってアマアガリを果たさせようとする事例として考えられる。
つまり 観念の交換価値アマテラシスムの代表例ということであり もし論証の用意なく言っていいとすれば たとえばローマ法王の教会の中で 時にいく人かの法王その人びとが このアマテラシスムの類型をになったと考えられるならば 日本というやしろの中では この聖徳太子という一人のアマテラス者が 一代表としてではなく ただ一人のキリスト・イエスに比されてのように 共同観念のうちに栄光が与えられたのではないか このように考えられる。(現象として見れば いけにえとなったという点に 共通点が持たれているかも知れない)。
この主題をかかげて 以下の数章において あらためて意志の科学を考察してゆきたいとおもう。
まづ前提としてイエス・キリスト聖徳太子との類似点を整理しつつ 論議してゆこう。
第一の類似点。聖徳太子は 《厩戸の豊聡耳の命(うまやどのとよとみみのみこと)》(古事記)と呼ばれるように 母が 

懐妊開胎(みこと生(あ)れま)さむとする日に 禁中(みやのうち)に巡行(おはしま)して 諸司(つかさつかさ)を監察(み)たまふ。馬官(うまのつかさ)に至りたまひて 乃(すなは)ち厩の戸に当たりて 労(なや)みたまはずして忽(たちま)ちに産(あ)れませり。
日本書紀〈5〉 (岩波文庫)巻第二十二 推古天皇元年四月)

と伝えられた記事の内容。もしネストリウス派キリスト教が伝えられていたとしたなら むしろオホタタネコとは関係なしに キリスト・イエスその人に 仮託されたかも知れない。
この第一点だけでは 判断の下しようがないので 次の点に移る。
なお ちなみにネストリウス派キリスト教は 神の第二のペルソナである御子が 人間キリスト・イエスとして現われたという意味での三位一体に立っていなかったと考えられている。(山下育夫:景教と三位一体説 朝日新聞1981年12月1日夕刊)。そうなれば 人間オホタタネコが 神の子であるという・その限りでの三位一体のうわさが――スサノヲ圏からアマテラス圏へ吸い上げられてかどうかを別としてともあれ―― 一人のアマテラス者であるこのウマヤトノトヨトミミのミコトに やはり仮託されたのかも知れない。
しかしこの第一の類似点からだけでは なんとも言えない。

  • なぜ《仮託された》と言って 伝承そのままの人物であったのではないかという可能性を はじめから捨てているかと言えば 以下に詳述するように ウマヤトのミコは 伝承のつたえるところからは キリスト者であったとは考えられないから。
  • また ネストリウス派の教義が 上の意味で三位一体を観想していないなら 仮託の可能性が出てくるというのは 次のように考えたときにおいてである。はじめのオホタタネコにかんするS者らの井戸端会議が 《一人の人間が神の子である》という三位一体のことをうわさするという土壌を持っていたゆえ ネストリウス派のつたえるイエスなる人物の信仰では 不十分だと考えられたという推測を残すからである。いいかえると ネストリウス派の《イエスは神の子なるキリストではない》説を外せば キリスト・イエスに ウマヤトのミコを仮託するという可能性が 考えられる。かれが どういう人物であったかをも超えて 神話伝承は作られうる。

類似点の第二は 《片岡山に飢えて臥(こや)せる者との遭遇の説話》である。日本書紀のこの箇所を全文 引用するが その最後に 《聖(ひじり)の聖(ひじり)を知ること 其れ実(まこと)なるかな》の評があるように この場合は あたかもあのヤコブのように ただし格闘したのではなく 聖徳太子が この飢えたる人と出遭って 神を見たというかたちで伝えられている。

推古天皇二十一年〕十二月(しはす)の庚午(かのえうま)の朔(ついたち)に 皇太子(ひつぎのみこ=聖徳太子) 片岡山に遊行(い)でます。
時に飢ゑたる者(ひと) 道の垂(ほとり)に臥(こや)せり。仍(よ)りて姓名(かばねな)を問ひたまふ 而(しか)るに言(まう)さず 皇太子 視(みそなは)して飲食(をしもの)与へたまふ。
即(すなは)ち衣裳(みけし)を脱ぎたまひて 飢ゑたる者に覆ひて言(のたま)はく
 ――安らに臥(ふ)せれ。
とのたまふ。則(すなは)ち歌ひて曰(のたま)はく

しなてる 片岡山に
飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こや)せる
その旅人(たびと)あはれ
親無し 汝(なれ)生(な)りけめや
さす竹の 君はや無き
飯に飢て 臥せる
その旅人あはれ

とのたまふ。辛未(かのとひつじ=二日)に 皇太子 使ひを遣(つか)はして飢ゑたる者を視しめたまふ。使者(つかひ) 還り来(まうき)て曰(まう)さく
 ――飢ゑたる者 既に死(みまかり)ぬ。
とまうす。爰(ここ)に皇太子 大きに悲しびたまふ。則ち因(よ)りて当(そ)の処(ところ)に葬(をさ)め埋ましむ。墓(つか)固封(つきかた)む。数日之後(ひへて) 皇太子 近く習(つか)へまつる者(ひと)を召して 謂(かた)りて曰く
 ――先の日に道に臥して飢ゑたる者 其れ凡人(ただひと)に非(あら)じ。必ず真人(ひじり)ならむ。
とのたまひて 使ひを遣はして視しむ。是(ここ)に 使者 還り来て曰さく
 ――墓所(つかどころ)に到りて視れば 封(かた)め埋みしところ動かず。乃(すなは)ち開きて見れば 屍骨(かばね)既に空しくなりたり。唯だ衣裳をのみ畳みて棺(ひつぎ)の上に置けり。
とまうす。是に 皇太子 復(また)使者を返して 其の衣(みそ)を取らしめたまふ。常の如く且(また)服(たて)まつる。時の人 大きに異(あや)しびて曰はく
 ――聖(ひじり)の聖(ひじり)を知ること 其れ実なるかな。
といひて 愈(いよい)よ惶(かしこ)まる。
日本書紀〈5〉 (岩波文庫)巻第二十二 推古天皇二十一年十二月

墓の土はそのままであるのに 土中には屍体はなかったというのである。ここにも キリスト・イエスの復活(マタイ28:1−10〔墓に屍はなくなっていた〕)との類似点が存する。また ヤコブは 《わたしは顔と顔をあわせて神を見たが なお生きている》(創世記)と言ったが つまり 自分でそう言ったのであるが ここでは ちょうど同じような内容のことを 《聖の聖を知ること それまことなるかな》ということばで 周囲の人びとが うたが(歌交)ったと伝えられている。この異同は 同のほうに焦点をあわせて捉えられてよいであろう。
問題はこのとき 《時の人 大きにあやしびて いよいよ惶(かしこ)まる》と言われるように あのオホタタネコがやしろに受け容れられ 《神主とせよ》と言われそうされたのとは違って 《恐れ》をとおして 聖徳太子が見られたという点にある。
《惶(かしこ)まる》が 《恐れ》ではないとしたなら アマテラス語普遍概念によって 《観念の資本》の象徴アマテラシテ もしくは そのような資本連関(つまり やしろ)のいと高き所にいます・人びとの歌交(うたが)いの観念的な象徴=交換価値と見られたであろう点にひそむ。

  • オホタタネコが アマテラシテ・観念の交換価値にならなかったとは言えないが――抽象普遍概念というのは 中立のものであるから つねにそのかたむきはありうる―― かれは・あるいはその当時では そのアマテラシテは スサノヲ語として・つまりスサノヲ圏の人びとのあいだに 溶け込んでいた。

キリスト・イエスの場合は 人びとが 羊となってのように かれ羊飼いの声を聞き分けて ついて行った。またユダヤ人祭司たちアマテラス者は かれ小さな者を大きな者と思いなして恐れたのである。(そうでなければ ローマ帝国ユダヤ総督が イエスに何の罪も見出さなかったのに かれを なおも迫害しようとはしなかった)。また 繰り返せば オホタタネコの場合も 人びとに やしろ資本連関の全体から――つまりアマテラス者のミマキイリヒコイニヱのミコト(崇神天皇)を含めた全体から―― 迎え入れられた。
これらの場合 そこには アマテラシテ象徴 人びとの交換価値としての象徴アマテラシテは 存在しない。言いかえると 見えざる《アマテラシテ(光)》としての神 もしくは ヒトコトヌシ・オホモノヌシは 人びとの共同主観(常識)そのものの中にあった。(すでに インタスサノヲイスムの内面化と ヤシロロジにおける拡大とは 成立していたとも言いうる)。

  • のちに崇神天皇とよばれることになったミマキイリヒコイニヱのミコトは スサノヲ圏しかなかった世界で アマテラス者として市長であった。

しかし 以上の二つの類似点にかんして これらもまだ 単なる類似であって もともと聖徳太子というひとりの人物は 伝えられるとおりの人がらであり かれに歴史じょう見られた固有の物語であったとしなければならないかも知れない。つまり わたしたちのうわさは まだ根拠のないものとしなければならないかも知れない。
そこで 類似点の第三は かれの死にまつわる伝承である。太子の人となりから言って 死後のかれは 《天寿国》にいるはづだと遺された人びとが 歌交ったということ。この場合は 文字どおりの言い伝えとしては 明らかに ブッディスムの思想にのっとっているのであるが キリスト宗教との――必ずしも信仰とではなく 宗教観念としてのそれとの――つながりを無しとはしない。
いつもは 例によって結論をはじめに提出するのであるが ここでは 推理小説の手法を採ることにしよう。
(つづく→2007-04-08 - caguirofie070408)