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哲学いろいろ

#104

もくじ→はてな061223

第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成

第五十九章b 同じことを やしろ資本推進力が 三位一体であることとして

――§14――


わたしたちも キリスト・イエスによって神と和解せしめられる前には 神に敵対する(つまり ねたみ 恐れ 格闘する)罪人であった。それが 栄光から栄光へ 暗いかたちから明るいかたちへ変えられつつある。
やしろ資本推進力を――やしろシステムに対して現実において 計画性をもって はたらきかけうるというほどに―― わたしたちが分有するという。言いかえると 共同主観者インタスサノヲイストが アブラハムヤコブモーセの時代とはちがって 一人ひとりヤシロロジストとして立つという時代に 時代が変わったのである。この方法を証言するためには 神の信仰と観想とは 必要ないというよりは必要あるのであり 死んだというよりは生きているのであり また もはやそれが宗教になりえないという時点で あらためて証言する必要はないというよりは いちど確認されるべきなのであった。


なぜなら 神は 日本においても あのヒトコトヌシの神としてばかりではなく 三位一体の神として インタスサノヲイストによって捉えられた系譜が存在するようだからである。
子なる神は 古事記において――ちなみに その編集・成立は 国家・A‐S連関体制の確立後のことであったが むろん その思想は それ以前からのものである―― オホタタネコなる神の子として また 聖霊なる神は オホモノヌシの神として それぞれ 共同主観された歴史的系譜を持っているし わたしたちは知っている。

このオホタタネコ(意富多多泥古)と謂(い)ふ人を 神の子と知れる所以は 〔上(かみ)に云へる〕イクタマヨリヒメ その容貌(かたち)端正(うるは)しくありき。ここに壮夫(をとこ)ありて その形姿(すがた)威儀(よそほひ) 時に比(たぐ)ひ無きが 夜半(よなか)の時にたちまち来つ。故 相ひ感(め)でて 共婚(まぐはひ)して共住(すめ)る間に 未だ幾時もあらねば その美人(をとめ)妊身(はら)みぬ。
ここに父母その妊身みし事を恠(あやし)みて その女(むすめ)に問ひて曰(い)ひけらく。
 ――汝(な)は自(おのづ)から妊(はら)みぬ。夫(を)無きに何由(いか)にか妊身(はら)める?
といへば 答へて曰ひけらく
 ――麗美(うるは)しき壮夫ありて その姓名(かばねな)も知らぬが 夕(よひ)毎に到来(き)て共住(す)める間に 自然(おのづから)懐妊(はら)みぬ。
といひき。
ここをもちてその父母 その人を知らむと欲(おも)ひて その女に誨(おし)へて曰ひけらく
 ――赤土(はに)を床の前に散らし 巻子(へそ)紡麻(を)を針に貫(ぬ)きて その衣(きぬ)の襴(すそ)に刺せ。
といひき。故 教への如くして旦時(あした)に見れば 針著(つ)けし麻(を)は 戸の鉤穴(かぎあな)より控(ひ)き通り出でて ただ遺(のこ)れる麻は三勾(みわ:三巻き)のみなりき。ここにすなはち鉤穴より出でし状(さま)を知りて 糸の従(まま)に尋ね行けば 美和山に至りて神の社に留まりき。故 その神の子とは知りぬ。
故 その麻の三勾遺りしによりて 其地(そこ)を名づけて美和と謂ふなり。
古事記 (ワイド版 岩波文庫) 中つ巻 崇神天皇の条り)

オホタタネコは イクタマヨリヒメが 三輪(美和)山の神なる聖霊によって生んだ子であると言うのである。
この聖霊が オホモノヌシ(大物主)であるという点について。

この〔ミマキイリヒコイニヱ崇神天皇(すめらみこと)の御世に 役病(えやみ)多(さは)に起こりて 人民(たみ)死に尽きむとしき。ここに天皇 愁ひ歎きたまひて 神床(かむどこ)に坐(ま)しし夜 オホモノヌシの大神 御夢(みいめ)に顕はれて曰(の)りたまひしく
 ――こ(この疫病の現状)は 我が御心ぞ。故 オホタタネコをもちて 我が御前(みまへ)を祭らしめたまはば 神の気(け:祟り)起こらず。国 安らかに平らぎなむ。
とのりたまひき。ここをもちて駅使(はゆまづかひ)を四方(よも)に斑(あか)ちて オホタタネコと謂ふ人を求めたまひし時 河内(かふち)の美努(みの)の村にその人を見得て貢進(たてまつ)りき。
ここに天皇 《汝(な)は誰(た)が子ぞ?》と問ひたまへば 答へて曰(まを)ししく
 ――僕(あ)は オホモノヌシの大神 スヱツミミのミコトの女(むすめ) イクタマヨリヒメを娶(めと)して生める子 名は クシミカタのミコト〔であり そ〕の子〔は〕 イヒカタスミのミコト〔であり そ〕の子〔は〕 タケミカヅチのミコト〔であり そ〕の子〔が〕 僕(あれ)オホタタネコぞ。
と曰(まを)しき。ここに天皇 大(いた)く歓(よろこ)びて詔(の)りたまひしく
 ――天の下 平(たひ)らぎ 人民(たみ) 栄えなむ。
とのりたまひて すなはちオホタタネコのミコトをもちて 神主(かむぬし)として 御諸(みもろやま)に大美和の大神の前に拝(いつ)き祭りたまひき。
また イカガシコヲのミコトに仰(おほ)せて 天(あめ)の八十平瓮(やそびらか)を作り 天神地祇(あまつかみ・くにつかみ)の社(やしろ)を定め奉りたまひき。また宇陀(うだ)の墨坂(すみさか)の神に赤色の楯矛(たてほこ)を祭り また大坂の神に墨色(くろ)の楯矛を祭り また坂の御尾の神また河の瀬の神に 悉(ことごと)に遺(のこ)し忘るること無く 幣帛(みてぐら)を奉りたまひき。これによりて役(えやみ:疫病)の気(け) 悉に息(や)みて 国家(あめのした)安らかに平らぎき。
古事記 同所)

わたしたちの考えでは 先のヒトコトヌシも このオホタタネコとオホモノヌシも 一つのやしろ資本推進力をあらわしたと考えられ 神の子オホタタネコなるペルソナは 中でも 人間となったと捉えられ 推進力を 人間が分有するというインタスサノヲイスムが――これらの神が ユダヤアブラハムの神と同じであったかどうかを別として(しかし そのような宗教的神学は 不必要であろう。また このような 三位一体の規定といったことは 表現じょう 類型的にしか出来ない)―― 表現され すでに信仰=共同主観は 後史としても 生起し始められていたと言ってよいと考えられる。なぜなら 生活の問題であり A圏をも容れて(古事記が編集されたのは A者らによるものであった) やしろ経験的である以外にないかたちの共同主観であるから。
ともあれ 時代の制約条件を別として 現実のやしろ資本連関は やしろ資本推進力をもとにして その共同主観過程として いとなまれたと言っていい。

  • このインタスサノヲイスムが A‐S連関体制・ナシオナリスムのもとに すなわちA圏・A者からするシントイスムおよび近代市民キャピタリストによる商品世界としてのアマテラシスムとなったその形態については 別のものである。そのことは すでに語った。
  • またわたしたちは ここに 初めからのインタスサノヲイスムによって(おおまかに言って これの歴史的系譜のもとに) 寄留していると言いうるであろう。山路愛山が《日本の歴史は 明白に人権発達の歴史なることを示せり》と言うのも A‐S連関体制の発生と定着のもとに見え隠れしつつ そのようなインタスサノヲイスムなる自己をあらわしていると言ってよいであろう。むろん この史観を 現実のやしろ連関とは別個に 一個の精神として大事にしまっておくということではない。

けれども そうであるならば わたしたちの方法は まさに 次のように述べられる共同主観を その初めの宣教・護教の時代から あたかも宗教改革やマルクシスム改革を経てのように 新しい時代として 保ちつつ進むというのが それであったのではないだろうか。


イエス・キリストへの信仰の時代が訪れる前は わたしたちは〔モーセの〕律法の下で監視され

  • あるいは インタスサノヲイスムが律令制化された国家体制のもとに監視され。
  • もしくは 律令等の法律など 建て前として押し戴きつつ 実際に世の中を泳ぐためにはまったく問題ではないと言ってのように オホタタネコらの初めの共同主観を 時に停滞するスーパーアマテラシスムとしての共同観念としてしまい(つまり 単なる観念としてしまい) さらにこの観念が 傾向として閉鎖的なムライスム・ナシオナリスムへとあたかも自然に転化してしまってのように われわれS者を覆うその蔽いの下で 監視され(――または 監視という必要のないほど 人びとつまりわれわれは 上からのミコトノリを頭に押し戴き なにごともすべて右へならえして生活しなければならなくなっており)

この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は わたしたちをキリスト(やしろ資本推進力)のもとへ導く養育係りとなったのです。わたしたちが信仰によって正しい者(自由人また自由都市連邦)とされるためです。しかし 信仰の時代が訪れたので もはや わたしたちはこのような養育係りの下にはいません。
あなたたちは皆 信仰により キリスト・イエスとの一致によって神の子なのです。

  • 一人ひとりが オホタタネコなのです。

洗礼への道を受けて

  • やしろ資本推進力を 仮象として権力のもとに反映させこれによって統治するという国家A圏なる《養育係り》による たとえば戦争に際しての 死の要請をわれわれが引き受けるというそのバプテスマ(洗礼)つまり ――それは一例として言ったのであるが――そういうかたちでの十字架(なる洗礼)への道を受けて

キリストと一致したあなたたちは皆 《キリストを着ている》からです。そこではもはや ユダヤ人もギリシャ人も(ナシオナリテの別)なく 奴隷も自由な身分の者もなく 男も女もありません。あなたたちは皆 キリスト・イエスにおいて一つだからです。

  • 一つの共同主観(常識)のもとにあり そこで多様対立性というあり方にある。

あなたたちは もしキリストのものだとするなら とりもなおさず アブラハムの子孫であり 約束によって神の恵みを相続する者です。
パウロ:ガラテア書3:23:29)

この共同主観において わたしたちは 自由にヤシロロジストとなって その理論と行為を実践することができる。マルクスもそうしたし みなそうしようとしている。つまり 初発の近代市民スサノヲ・キャピタリストらも 知解において(合理的な また合理主義的な 共同主観つまりその政治経済学において) そう欲したし 意志した。この人間の知解また意志が その記憶行為とともに 三一性たる自然本性をになっている。けれども この三行為能力の一体性は 行為過程であり また 有限であるゆえ 人間そのものではなく 人間の有(もの)であり そのうわべだけを見ることは ゆるされていない。というのが はじめの常識であった。
近代市民の三一性の像(たとえば ホモ・エコノミクスというような合理的経済人たる具体的な一つの像)が 現代・未来市民の時代に向けて変化してゆくのは 近代市民スサノヲ者の像が 封建市民や古代市民(国民の原形式)また前古代市民(国家以前の人びと)のそれらと違うのと 同じ考え方であるだろう。これらのことは すでに言われてきたことばかりであるが このようなかたちでまづ解釈してきたのだった。
わたしが死なしめられて 内へ向き変えられるのである。おそらく つねにそのような前史と後史との過程が 生涯において大きく一度起こり ちいさくは 繰り返しのごとく あるだろう。人間が 《記憶‐知解‐意志》の三一性主体であること 自然本性を有する存在であることじたいは 変わりないであろうから。

(つづく→2007-04-07 - caguirofie070407)