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もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223
Meguiddo
Aussi connue sous les noms d'Armageddon, el-Lejjun, Tel el-Mutesellium,Vue Aérienne de Meguiddo
Habitée depuis l'âge chalcolithique, Meguiddo possède environ 26 niveaux d'occupation. Des excavateurs américains de l'Institut Oriental ont travaillé depuis 1925 dans le but ambition d'excaver chaque niveau dans son intégralité. Ils firent ainsi pour les trois premiers niveaux avant de concentrer le travail sur certaines portions du site.
第三部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム
第四十七章a ふたたび 共同主観ということ
――アウグスティヌスと《愉快な乞食》――
私は 名誉と利得と結婚とを渇望していましたが あなたはそういう私を嘲笑なさいました。
- その渇望は やしろ資本の推進力による(あるいは 従う)やしろ資本の形成過程ではないというのである。
私はこれらの欲望のために さんたんたる苦難をなめていましたが ご自分以外のものに甘さを感ずることをお許しにならなかったあなたは それだけ恵み深かったのです。
- ここに やしろ資本の推進力を見る人びとは 《勇敢な悲惨 つまり 勇敢にも悲惨に耐えている》ではなく だから《わが好むところ 欲するところ 可能なことを為そうと欲する》のではなく だから必ずしも《神の認識(信仰)と人間の悲惨の認識を ヤシロロジの研究の動機とする》(ウェーバーイスム)のではなく こういったかたちのいづれでもなく あの弱い自然本性において歩み やしろ資本社会を待望している。
- そのような人びとが 為すべきことを知らないと思ってはならない。《人を愛させよ》 この一点において インタスサノヲイストとして またヤシロロジストとして 生活を送っている。悲惨は浄福へ 前史から後史へ 知能も霊魂もそして肉体も変わりうると知ったゆえ 不正に弱さにおいて耐える力を与えられてのように 忍耐して待望している。
主よ わが心をみそなわしたまえ。あなたは これを心に想い起こして御前(みまえ)に告白することをおのぞみになりました。いまはもう 私の魂はあなたによりすがって そこからはなれることがあってはならない。その魂をあなたは あんなに粘り強い死のとりもちから ひきはなしてくださったのですから。
私の魂は何とみじめだったことか。しかもあなたは その傷の痛いところをつかれました。それは 私の魂が 万物をこえながらしかも万物がそれなしには無であるあなたを目ざして 万物を投げすててむかい むかうことによって傷をいやされるためでした。
- だから わたしは 勇敢にも悲惨に耐えることをせず あなたが 《わたしの力は 弱さの中でこそ十分に発揮される》(コリント後書2:9)と言われたように 《その傷の痛いところをつかれました》。
- もういちど繰り返します。傷の痛いところをつかれて わたしは おろかにもなって その悲惨に勇敢にも耐え ただわたしの好むところに従い 可能なことを為そうとは欲しませんでした。
じっさい 私は何とみじめであったことか。ある日 そのみじめさを痛感するために あなたはどのようにとりはからいたまうたことか。
- あなたは 前史においてにしろ やしろ資本家の一人である《愉快な乞食》のすがたを わたしに見せたまうたのです。
その日 私は皇帝にむかって讃辞を朗読する準備をしていましたが
- あの戦争のとき その《聖戦》に対する讃辞を書くことを余儀なくされていましたが
それは 讃辞の中でたくさんのうそをつき うそつきの私が それをうそと百も承知の人びとのお気にめすようになるためでした。私の心は心配であえいでおり 身もほそる熱い思いに燃えていましたが ミラノのある街路をとおりながら 一人のみすぼらしい乞食をみとめました。
もう満腹していたのでしょう。冗談を言いながらはしゃいでいました。私はためいきをつき 自分たちのばかげた仕事から何という多くの苦痛が生じてくるかということについて つれの友人たちと語りあいました。
じっさい 当時 骨折っていたそういう努力のかぎりを尽くして 欲望の突き棒につつかれながら おのが不幸の重荷をひきずり ひきずりながら重荷をつみかさねつつ そういう努力によって得たいと願っていたものは ほかでもない 安全確実なよろこびでした。ところが そのよろこびにあの乞食は すでに先に到着しているのに ひょっとすると私たちは けっして達することができないかもしれないのです。
彼が乞食をして得たごくわづかな金ですでに手に入れてしまったものを 私はこのように辛苦にみちた紆余曲折をへてさがしまわっていますが もとめているのはすなわち 現世の幸福のもたらす快楽にすぎません。たしかに乞食とても 真のよろこびを得ていたわけではありません。しかし私とても そのように奔走しながらさがしもとめていたものは かの乞食のそれよりも もっと虚偽のよろこびだったのです。
たしかなことは 彼はよろこんでいるのに私は苦しんでおり 彼が安心しているのに私は動揺しているということでした。もしだれかが 《君はよろこびたいか それとも心配したいか》とたずねたとしたら 私は《よろこびたい》と答えたことでしょう。さらに あの乞食のようになりたいか それともこのままでいたいかと問われたならば 心配と不安とで疲れはてていたにしても やはりこのままでいるほうをのぞんだことでしょう。けれども この判断はまちがっていました。どうして真でありましょうか。
じっさい私は かの乞食よりも学問があるからとて 自分のほうがすぐれていると思うべきではありませんでした。なぜなら 私はその学問から よろこびを得ていたのではなく ただ人びとの気にいることをもとめていたにすぎないのですから。しかもそれは 彼らを教えるためではなくて ただ彼らの気にいるためにすぎなかった。だからこそ あなたは こらしめの杖でもって 私の骨を打ち砕かれたのです。
- この議論は 次の段へつづく。
それゆえ 私の魂にむかってこういう者は 遠ざかってもらいたい。何によってよろこぶか そこにちがいがある。あの乞食は 酩酊によってよろこんでいたが 君は栄光によってよろこぼうとしていたのだ。
主よ それはどのような栄光でしたろう。あなたにおける栄光ではありませんでした。じっさい あの乞食のよろこびが真のよろこびではなかったように 私ののぞんでいた栄光も真の栄光ではなく かえってそれは私の精神をますます逆転させてゆくばかりでした。乞食の酔いはその晩さめたことでしょうが 私は酔いながら眠り 酔いながら起きました。将来も同じように眠っては起きたことでしょう。その状態は まあ 何日つづくことであったか。
もちろん どこからよろこびを得るか そこにちがいがあることは 知っています。信仰にもとづく希望から生ずるよろこびは あの虚妄とは比較にならぬほどへだたっているのです。しかし当時においても 私と乞食とのあいだにはへだたりがありました。疑いもなく 彼は私より幸福でした。その理由は 一つには 私が心配でふぬけになっていたのに 彼はまったくの上機嫌だったということにありますが それだけではありません。彼は道行く人の祝福を祈って酒に ありついたのに 私のほうは うそをつきながらからいばりの地位を追いもとめていたのですから。
当時 私はこういった意味のことを 何回となく親しい友人たちに話し そのような場合 自分がどういう状態にあるかをしばしば考えてみました。そして状態がかんばしくないことに気づいてかなしみましたが 悪い状態をいやがうえにも悪くするばかりでした。そして何か幸運じみたものがほほえみかけることがあっても 手を出す気になれませんでした。なぜならそれは とらえようとすると飛びさっていったからです。
(告白6・6・9−10)
第六巻第六章の全部は ここで議論が切れています。
これは 肯定的なではなく 批判的な自己了解であるかに見える。中途半端に終わり アウグスティヌスは 説得力に欠けたかにみえる。
結論的に言って わたしは この論議を 積極的に(肯定的に) ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスムの前提理論であるとしてよいように思う。
論議する視角が 消極的で 言葉の調子が 終始 弱いものであるゆえに かれはここで 悲惨に 勇敢にも耐え 可能なことを欲し為しているのではなく 弱いものであるがゆえに 悲惨を前史としているのだと思う。ヤシロロジにおいては 試行錯誤であるゆえ 虚偽が生じる。悲惨は 虚偽から生じる。そして 虚偽とさえなるように 欺かれるならば わたしは存在すると。
乞食になるべきだろうか。
弱さの自然本性において歩む者が 何を為すべきか知らないと思ってはならないのである。人びとを愛させよ。この主観共同化という一事に すべて〔の強さ〕があると知るべきである。
なぜなら
わたしが求めているのは あなたたちの持っている物ではなく
- また 何も持っていないという乞食の状態ではなく(――自然本性において歩むとき かれは すべてを投げうって 乞食になるべきというのも一つの道理だが――) だから あなたたちの持っている物ではなく
あなたたち自身だからです。
(コリント後書12:14)
これは やしろ資本の積極的な 共同主観としての形成であると知らなければいけない。
愛は 精神の徳を掲げて これを精神において 共有せよ・規準とせよ ということではあるまい。或る美なるものへのあこがれではない。勇敢にも悲惨に耐えて――皆がそうしているのだから と言って―― あの義務の観念・忠義の宗教心よりする互いの思いやり・なぐさめでは ない。
知能と霊魂との貧乏を防ぐ標準を維持するべく 肉体の再生産のための物の生産行為が 《されど》 必要であると 問題をすり替えてはならぬ。そのことの必要性は 大前提なのである。むろん この大前提じたいの領域で〔も〕 愛がはたらく。けれども 《わたしたちの求めているのは わたしたちの持っている物ではなく わたしたち自身》なのだと言う。あの《乞食》が――わたしたちが乞食せよというのではなく―― この共同主観の類型的なあり方を示したとアウグスティヌスは言ったのである。
これを エートスであると言う人は 言うことができる。また 内面の固有な法則性であるとも言うことができる。そう言うことが ゆるされていないのではない。だから そう言う人びとは この共同主観の資本推進力に たとい小部分であっても 触れ得たのである。
しかしパウロが 資本の推進力を語るのは 次のようにである。
わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが 主の見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。
わたしは キリストと一致していた一人の人を知っていますが その人は十四年前――体のままか 体を離れてかは知りません。神がご存じです――第三の天にまで引き上げられたのです。そして その人は――体のままか 体を離れてかは知りません。神がご存じです――楽園にまで引き上げられ 人間が口にするのを許されない 言い表わし得ない言葉を耳にしたのです。
わたしはこのような人のことを誇りましょう。しかし 自分自身についてのことは 弱さ以外には誇るつもりはありません。
(パウロ:コリントの共同主観者への第二の手紙 12:1−5)
資本の推進力 もしくは やしろ資本家〔の霊的な共同主観〕を言っており 最後の一文で 個別的な《われ》としてのパウロ自身のことを言っております。勇敢にも悲惨に耐える必要のないやしろの奥なる愛の力を語っているのであり また――この場合 見えざるやしろの資本推進力を 《謎=アマテラシテ》において確かに表現しておるがその――神秘的にでもこの推進力によってアマアガリせしめられた《自己》として語っているのであり かれ自身の主観以外のものではないとも考えなければならないのであり
さらに 個別的な《自分自身についてのことは 弱さ以外には誇るつもりはない》と言って ヤシロロジストとしての試行錯誤性・多種対立性を示している だからと言って乞食にまでなるほど そうとすれば自己をおとしめなければならないのではなく(そのような場合場合については 神がおしえたまうであろう) この共同主観のあまねわりの中に 共同自治・協働関係が 形成されてゆくと語っている。
これは 前史から後史へ――たしかに《十四年前》と後とでは ちがうのであり―― というほどに 前史から本史への《内的な固有の史観の方程式》そしてその原理的な力なのであり これが 肉体の目方とあたかもちょうど同じように 知能・霊魂においても 各自の意志として 或る重さを持たないとは言えない。
精神の重さとは 意志のことである。魂の重さとは 愛のことである。たいていの場合 その場ではわからないから 重いと言って重圧になるとは限らない。
これは ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスムであり 動態である。わたしたちは この共同主観を 自由に 強いるのです。けれども わたしたちには 《ためにする》強いる仕事は 与えられていないから それぞれ《弱さ以外に誇るつもりはない自分自身》において 多様な中の自分の主観としてのヤシロロジ行動を 生活している。
だったら この地点から 将来のやしろシステムを いま展望せよという議論には みちびかれていかないであろう。あの《乞食》に この〔展望せよという〕不安はなかった。《欲望の突き棒につき動かされながら》 精神の力をふるい起こしてのように 悲惨に勇敢にも耐えるのでも ない。ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスムなのである。ヤシロロジストとしてのインタスサノヲイストなのである。これは 理論と学問が――これを認識しようとして 指し示すことは出来るが それは アマテラス語理論共有であっては大したことにはならず(そしてむしろ この理論の共有ということが A語観念共同的な何らかの行動様式やエートスの《強要》なのであり――かれらが 悲惨に勇敢にも耐えよと言う――)―― ついに到達することのできない《人生の真相》なのである。
わたしたちは これを 理性的に共有せよとは言わない。もっと大胆に これを受け取りなさいと言う。やしろ資本推進力を飲みまつれと言っている。なぜなら これが《わたしたち自身》なのであり わたしたちがこれを求めていたのだから。
ヤシロロジにおいては 錯誤をまぬかれないのだから この一つの立ち場を語る以外にないと考えられた。その余のヤシロロジは 母斑の世界の中の 精緻な(論理においても情感としても精緻な)そして格調高いA語理論であるか もしくは この一つの立ち場に立っての基礎研究(学問に徹した基礎研究)であるかであろう。
すでに この真理についての原理(つまり このような共同主観者の歴史的な系譜)が明かされているなら 人は《終えられたところから 始め》なければならない。これが もし直線的な進展でないとすると その理由は 各世代・人それぞれの一生涯という期間の交代も含まれているからであろうか。
(つづく→2007-03-19 - caguirofie070319)