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哲学いろいろ

#83

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Résidence Égyptienne( Beth-Shean )

Beth-Shean fut le centre de domination égyptien du nord de Canaan durant le Bronze Avancé. Des stèles de taille monumentale comprenant des inscriptions concernant les règnes de Seti I et de Ramsès II furent trouvées, étant maintenant à Jérusalem dans le musée de Rockefeller. De plus, une statue taille-réelle de Ramsès III ainsi que de nombreuses autres inscriptions furent trouvées. Ensemble, celles-ci constituent le plus important assemblage d'objets égyptiens de Canaan. La photo de droite reflète de récentes reconstructions de murs de briques.

第三部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム

第四十五章b 《異言( unbekannte Sprache )》によって母斑を用いる場合(水田洋:《現代とマルクス主義》)

――§39――


おろかついでに わたしたちは 次のおとぎ話を聞こう。

真理とは何か と問い求めてはならない。というのは そのとき直ちに物体的な似像の雲霧と虚妄の雲が君を遮るからである。
それらは 私が 神は真理にましますと言った その最初の瞬間 君を照らした清澄の光を曇らしてしまう。真理 と語られるとき 君がいわば電光によって捉えられるその最初の瞬間に 出来るなら留まれ。しかし君は留まり得ない。そして君は再びあの習慣的な地的な表象の中へ滑り落ちるであろう。
私はたづねる。君が再び滑り落ちるのは 情欲の黐(とりもち)や異郷への巡礼の誤謬によって感染された汚辱でないなら いかなる重さによるのであろうか。
(三位一体論 8・2・3)

そうなのだ。いや 少なくとも 《知能( mind )》と《霊魂( spirit )》も 言いかえると 精神(殊にその意志=愛)も 《肉体( body )》と同じように 或る《重さ》なのだ(三位一体論11・11・18)。わたしたちは 実にヤシロロジとしてのインタスサノヲイスムにおいて これらにかんして 《物さしで長さを計ったり 衡で目方を量ったりする》ことをしているのだ。《これらの三つのものの自然的発達をば 維持して行くがため》。なぜなら この真理が 《内なる人の秘蹟 外なる人の模範となられた》のは 《肉において》(三位一体論4・3・6)だからだ。
なぜなら 

〔このように〕 信仰は心において見られるのではなく――信は心の中にあり 心によって存在している―― 極めて確実な知識がそれを保持し良心がそれを喚び求めるのである。
それゆえ 私たちは信じるように命じられているそのものを見ることが出来ないゆえに 信じるように命じられるのであるが しかも信そのものを それが私たちの中にあるとき 私たちにおいて見るのである。それは 信とは不在なものの現在であり 外にあるものの内在であるから。
また 見られないものの信は見られ しかも信は時間的に人間の心のうちに生起するのである。
(三位一体論 13・1・3)

から このように現われる信が 共同主観であり それが《知能》や《霊魂》に生起したとするのなら 或る《重さ》をもってそれが現われていると言わない法はどこにもない。

したがって 信じる人から信じない人になるなら 信はその人から去る。しかし時には 信は誤った事柄に適用されることもある。なぜなら 私たちは 私は彼を信頼したが 彼は私を欺いた と言うように語るからである。このような信は たとい信と言われるべきであっても 見いだされた真理がそれを追い出すとき とがめられずにそれぞれの心から消え去るのである。
(同上 承前)

という誤った信のばあいでも それが わたしたちの《知能と霊魂(および身体の運動)》とに 或る重さをもって現われないという法も存在しないことは わたしたちの経験律に属しているのだ。
だから この信仰=共同主観=コミュニスムが ヤシロロジストにあっても 方法の始まる地点なのである。それぞれの役割に徹する(むろんこの役割は可変的)ことが ヤシロロジとしては 方法なのであって この役割における――学者なら学者としてそのさらに分化した一つの学問分野における――便宜上のあたかも方法を さらに弁明することはない。
ところが 《恒産なくして恒心なし》と見る精神 あるいは同じことで 《人はパンのみにて生くるものにあらず》の中に 《されどまたパンなくして人は生くるものにあらず》というその一つの部分前提を むしろ余分に二重に打ち出す精神は 

彼が避けるもの(=恒産のない境遇)が襲って来たばあいには 自分が欲していたもの(=恒心ある肉体と知能と霊魂)が起こり得なかったので それをすすんで耐え忍ぶのである。だから 彼は打ち倒されないように耐えるのであって抑圧されるのを欲するのではない。
(三位一体論 13・7・10)

にもかかわらず そうであるにかかわらず 恒産のない境遇(貧乏)が襲って来て 肉体と知能と霊魂の三つのものの恒心がなくなったと思うときには――拙劣な長い文章になってはいるが――
そのときには かれ(この精神)は もし放僻邪侈に陥らないとすれば 

このような報酬なくして苦しめられている人は いかに耐え忍び得ても 真実に幸福(ヤシロロジスト)なのではなく 勇敢に悲惨なのである。
(同上 同所)

勇敢に悲惨な人 悲惨であることに勇敢にも耐えている人の方法 あるいは その方法の弁明 これは その悲惨なる境遇に《道》を問い求めているかのように見えてしまう。

それでは どのようにして彼は欲するままに(――《わが好むところに従わんとして》――)生きるのであろうか。
自分の上に襲い来るのを欲しないものをすすんで耐えるほど強いからであろうか。

  • この章(§45)で取り上げようとした水田洋は次のように言っている。

ほくは幸か不幸か 信仰(このばあい マルクス主義の真理性への信仰を言う)によるささえをほとんどもとめなかった。いいかえれば 〔戦前において〕信仰を形成しえた世代より 一歩おくれてあるいていたのである。
(水田洋:現代とマルクス主義 増補版 (1969年) あとがき)

したがって 彼は欲することをなし得ないゆえに 可能なことを欲するのである。
(三位一体論 前掲箇所〔13・7・10〕)

水田洋がそうなのではなく そこでこの精神の著者である河上肇は 《経済学者》としての便宜上の方法を 弁明する。この弁明のもとに 経済学の研究がかれに出来る《可能なこと》なのであり 《余はできうるだけ多数の人が道を聞くに至る事をもってのみ 真実の意味における文明の進歩と信》じて この《勇敢な悲惨》のやり方を 自己の方法(道)とするのである。
水田洋は ここから離れている。けれども

なぜなら 精神は自己の上にはただ真理のみがいますように場所の秩序によってではなく本性の秩序によって秩序づけられているからである。
(三位一体論 14・14・20)

というこのインタスサノヲイスムの方法を 

異言( a tongue / unnbekannte Sprache / charabia )を語る者は人に向かって語るのではなく 真理に向かって語るのである。それはだれにもわからない。彼はただ 霊によって奥義を語っているのである。
(コリント前書14:2)

と言われるような仕方で 語るのである。

異言を語る者は自分を向上させるのに対して 預言する者は教会( ecclesia ・やしろ資本関係)を向上させます。わたしは あなたたち皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが それ以上に 預言できればと思います。
異言を語る者がそれを解釈するのでなければ 教会を向上させるためには 預言する者のほうがまさっている。・・・
もしわたしが異言をもって祈るなら わたしの霊は祈るが 知性は実を結びません。すると どうしたらよいのか。わたしは霊で祈るとともに 知性でも祈ろう。

  • 試行錯誤するヤシロロジにおいても 祈ろう。つまりあの或る《重さ》において進もう。

このように異言は 信じる者のためではなく 信じない者のためのしるしですが 預言は 信じない者のためではなく 信じる者のためのしるしです。
(コリント前書14:5 / :14−15 / :22)

マルクス主義の真理性への信仰がないから――と水田洋は話をつづけます―― それを諸思想のなかのひとつとしてならべてみて いわば自由競争のなかで優劣を決めようと ぼくはかんがえた。マルクス主義を前提としないで 研究の領域にはいっていき そこで無前提の研究のけっかとしてふたたびマルクス主義があらわれたら そのときそれをとりいれるというのが かえってマルクス主義をぼくのなかに強固に定着させる方法になるだろう。
ぼくは この方法でマルクス主義の真理性を 自分でテストしようとした。テストの場としてえらんだのが 思想史と社会科学方法論であって おおざっぱにいえば 前者は 人類の文化的遺産の正統な継承者としての マルクス主義の資格を決定するためであるだけではなく 後者とともに 社会的認識の真理性・歴史性・階級性などを追究するためであった。
あるいは 日本資本主義分析というのが もっと直接的なテストの場であったかともおもうが これもぼくはいちばんおくれたランナーであったために すでに不可能だったといってもいいであろう。
(水田洋:現代とマルクス主義 増補版 (1969年) あとがき)

というのが 《霊(共同主観)でも祈るとともに 知性でも すなわち ヤシロロジでも あの或る〈重さ〉つまり信仰つまり共同主観によって 進もう》ということの内容なのです。《〔マルクシスムへの真理性への〕信仰による支えをほとんど求めなかった》ゆえに 《そのものを見ることが出来ないそのやしろ資本推進力》への信仰によって しかも この信仰をみづからの内において見つつ 進もうとしたということになるでしょう。
或る《重さ》がなかったなら 言いかえると 意志・愛がなかったなら――やしろ資本の推進力がすなわち 人間と人間との関係として愛であるが この信仰がこの愛をとおしてはたらく(ガラテア書5:6)ことがなかったなら―― そしてこの《衡によって目方を量って》いなかったなら その《知能は実を結びません》。だから 《方法・道》にあっては 《研究などその標準を大いに下げる・上げる》などということは 無意味であり(意味が別のことであり) そのような学問の便宜上の方法と われわれの方法とを混同するべきではない。逆に言って 混同してはいないのだから――河上のばあい―― 便宜上の方法を 弁明することはない。


河上肇(1879‐1946)から 現代の水田洋に一気にとんだかたちとなりましたが ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム これにかんして 内容としてもいくらか結論的な命題もここで提出しえたかと思います。

  • 最後に到達した結論は まったくあたりまえの事項であり その行論としての井戸端会議でいくらか重要な点を述べ得たかと思います。

しかし ヤシロロジとしては まちがわないことはない また 多種の対立的なインタスサノヲイスト諸政党が存在するであろうと付言しておくことができるでしょう。
(つづく→2007-03-17 - caguirofie070317)