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哲学いろいろ

#76

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Le Théâtre ( Césarée )

rode le Grand construit aussi un théâtre pouvant assoir 3500 personnes. Selon Joseph, c'est à cet endroit qu'Hérode Agrippa mourut, comme nous le raconte Actes 12. Le théâtre était recouvert d'un revêtement de peau (velum), quant aux spectateurs, ils amenaient vraisemblablement avec eux des coussins pour ramollir les sièges en pierre.

第三部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム

第四十一章b くにやしろ資本《A‐S連関体制》の構造(しんきろう現実)

――§20――

斯く相談も一決して已(すで)に江戸に赴かんとするの場合に臨みて 又も困難なる事こそ出来(しゅったい)なしたれ。其は如何にと云ふに 予(かね)て高野山の役僧等は 自分が不正の所業をなすものから 自然 心に恐れを抱き 常に探偵などを村々に忍び込ませ 人民の情態を日々に視察なさしめ居りたりしかば 今度 新右衛門が企てあるや否 忽(たちま)ち之を聞き知りて 猶も探偵に力を尽くせしにぞ 遂に十六名が二万千石の総代となりて江戸表へ出府なす事まで残らず露顕にぞ及びける。


怎(か)かりければ役僧の驚きは大方ならず 

若しも此の不正の桝を用ゐて 貢米を取り立つる事の公儀沙汰となることあらば 如何なる重き咎めの有らんも知る可らず 人民どもの事を発せぬ間に恐嚇(おど)して事を中止せしむるに如(し)かず

と 俄(にわか)に捕吏を八方に出し領分界を厳重に守り固めつ 管下の人民の中にて重立ちたる者を呼び出し 

若しも今度新右衛門等の陰謀に荷担なし 江戸上訴等を企てるに於いては 吃度(きっと)厳重なる所刑申し付くべし 尤(もっと)も前非(ぜんぴ)後悔して 連判違約に及び候はば 格別寛大の御慈悲をもて 宥免(ゆうめん)致しつかはすべし いざ何分の御受けをせよ

と 退引(のっぴ)きならぬ厳命に 何が卑屈の根性に生え抜きたりし百姓原 云ひ甲斐なくも恐縮して 前非後悔連判違背致すべしとの請(うけ)書を劣々(おめおめ)さし出し 急ぎ下山なして此のよし村々に触れたりしかば 重立ちたる者さへかくなりし上は小前(こまえ)の者の力(りき)みて詮なしと 言い甲斐なくも 相い率ひて連判に違約しつ。



二万千石の内にて一万石の村々は 脆くも之に靡(なび)かされて 新右衛門の連判に背むきたりしは あさましくも又はかなしかりけり。


されど爰にいと頼母敷き(たのもしき)は残り一万千石と修理(=補給として寺領にあてがわれた)三千石の村々にて 向副(むかそい) 賢堂(けんどう) 横座 島野 丁田 馬場 田宮 河根(かね) 東畑 西畑の数千ヶ村の人民は 毫もかの臆病風に靡かずして 元の如く新右衛門と事を共にせんことを誓ひ居りしにぞ 新右衛門は甚だこれを喜びて 

今度の事は我一人にても 死を以て志を貫かんと思ひ定めしことなれば 仮令(たとえ)二万千石の人民が 一人の同意する者なきに至るとも 我一人は志しを変ぜず事を為し遂げんと 独り心に誓ひ居りしに 斯く一万石余の村々の人々は世にも頼もしくも酷吏の圧制を恐れず 終始心を変え玉はぬ事のうれしさよ いで此の上は酷吏の邪魔の入らぬ間に 片時も早く出立せん

と 同志の村々の人々に 密かに別離の辞(いとま)を告げつ 


予ねて後日の証拠にと 興山寺の役所より取り出しおきたる不正の桝を 布につつみて確かと背負ひ 上には汚れし莚(ござ)うち掩(おお)ひ 破れし菅笠(すげかさ)面(おもて)をかくし 廻国(かいこく)非人の体にやつし 暗夜にまぎれて忍び出でけり。実に享保四年の冬の頃なりし。


(道中を省略)


さても新右衛門は 道中にては艱難辛苦も多かりしかど 追っ手の為めには捕らへられず 志ざしたる江戸の地に着きければ 直ちにかの桝をば携えて奉行役所にぞ訴え出でける(当時徳川の将軍は八代吉宗なり)。


新右衛門はこれに駕訴(かごそ)をなせしとも 又寺社奉行に出訴したりと云へり。此の際には種々の奇談もありたるなるべし。又新右衛門の義気胆力を見るべき事歴の多かりしなるべしと雖も 惜しい哉(かな)口碑記録共に湮滅(いんめつ)して存するものなし。故に当時専ら此の事を裁断せし幕吏の名も伝はらず。故に遺憾ながら其の大綱を記するに止まるのみ。


是れ亦た編者(小室信介)が伝記を実にし敢えて想像付会(ふかい)の文を飾り説をつくりて 世俗の目を喜ばしむることを欲せざるの微意に外ならざるなり。読者請諒焉(しかこころえかし)。


幕府に於いてはこの訴えを聞きて大いに驚き 此は容易ならぬ事どもなりとて 直ちに新右衛門に一応の糾問ありて 猶お取り糾し中 入牢申し付けられけり。


さて斯く新右衛門を獄に繋ぎおきて後は 幕府にては掛りの役人実地吟味の為めに 高野山に出張するもあり。猶お奉行所にては 新右衛門を数々(しばしば) 獄(ひとや)に呼び出して 厳かに糾問ありしに 新右衛門は始終 辞(ことば)を替ふる事なく 高野山役僧等の不正の挙動を 逐一告訴に及びつつ 其の頃の役所の風とて 恐嚇して訴訟を止めしめんとし 或いは又これを叱りて其の誠心を試みなど 種々手をかへてくるしめけれど 新右衛門は少しも屈する色なく 益々奮ふて奸吏の非をば訴え鳴らして止まざりけり。


此くの如くすること三年(みとせ)余り 獄窓の下に無頼の悪漢等と肩を並らべ膝を交じへて 悲風悽月に嘯き吟じつつありたりしが 頓(やが)て幕吏には吟味も全く調(ととの)ひしにや 享保七年壬寅年の春に至りて 新右衛門を白州に呼び出し 

其の方が愁訴の趣きは取り調べに及びし処 全く地頭の役人共が 不正の桝を用ゐたる事 明白に相い分かりたれば 夫々(それぞれ)公儀の法度(はっと)に依り 至当の処分に及びたり 
併しながら其の方(ほう) 事は地頭高野山より受け取り申したきよし申し出でたれば 其の方 身分は地頭に引きわたし其れの処分に任すべし。其の段あい心得よ

との事なりしかば 新右衛門は畏(かしこ)まり 

私事(わたくしこと)本国を出立せしよりは 已(すで)に一命はこれ無き者に思ひあきらめ罷(まか)り在り候う事にて 今度の御裁断にて地頭不正の政(まつりごと)も改まり 管下の人民が疾苦を免かれ候う上は最早思ひおく事御座なく候う。
農民の身にて地頭を相手取り 畏れ多くも将軍家を驚かし奉りし罪科は毛頭逃がるる心これなく 地頭に御引き渡しの上は厳重に御処分願い上げ奉る

と 少しも悪びれず申し立てしかば 並み居る幕吏の面々には さてさて神妙なるものかなと 皆感涙を目に浮かべて 新右衛門を高野山に渡す事を不愍(ふびん)に思ふの模様なりけるが 扨(さて)止むべきに非らざれば 新右衛門をば白金(しろがね)なる高野山の詰め所に引きわたされける。


斯くて新右衛門は志願は遂に貫きて江戸の獄屋は出でたけれども 又もや地頭の手にわたされ 元来(もとより)苛酷の役人等が 今度 直訴の遺恨を以ていとど苛酷に取り扱ふを予ねての覚悟と恐れもせず 役人共に護衛せられ 東海道を西に向かひ本国紀州に帰りしが

故郷島野村へは還へされず 又もや高野山の牢獄に繋がれけり。これやかの祖師弘法が 法力を以て呪縛なす奇しき事にはあらずして 仏法末世の悪僧が 貪欲無慚の所行より瞋恚(しんい)嫉妬の執念を以て 生きながらなる地獄の責めを 仏に恥ぢぬ正人君子に加ふるなるべし。浅猿(あさまし)なんど云ふばかりなし。


斯くて高野の酷吏共は新右衛門が江戸に直訴せしにより 幕府より厳しき取り調べを請け 一・二の役僧は重き咎めをも蒙りし程なりしかば 新右衛門を憎むこと甚だしく 高野山の牢獄に繋ぎて いたくこれを苦しめたりしかど 猶お飽き足らずやありけん 遂に寺法に依りて新右衛門を石籠(いしかご)詰めの刑に処せんとて 高野の奥の玉川の上流にて砂碩(かわら)の中に坑(あな)を掘り 新右衛門を縛りしまま坑の中へと投げ込みつ 上より小石を投げかけ投げかけ 生きながら土中にぞ埋め殺しける。


無慚といふも愚かなり。
むかしより仏の教えを守る者は 
殺生戒を第一に慎み 
瞋恚執着の念を去り 
柔和忍辱(にんにく)の法衣を蒙むり 
慈悲愛染の法心を抱き 
世に悪業をなせし者をも処刑の場所に会する時は 袈裟を脱ぎて之を救へる例(ためし)さへ数多かりし事なるに 
今はかく罪なさんを残酷にも 
大師の霊場の水上にて埋め殺し 
鉄山衆合の地獄の苦を現世に作るは何事ぞ。


仏法末世を申しながら あなあさましき事どもや。

見よ見よ さしもの霊場も 衰ふる期の遠くはあらじ

と 心ある人は眉を顰めて嘆息せぬはなかりしとぞ。


新右衛門は
かねて覚悟の事なれば 
少しも恐怖の色はなく 
坑の側(かたへ)に進みより 
天を仰いで長嘆し 
一身を以て幾千人の命に代わり 
一命を捨て天下の大道を立てたり 


遺恨更(さら)になしとて 従容(しょうよう)として死に就きたり。


実に是れ享保七年壬寅の六月十九日の事なりしとぞ。・・・

東洋民権百家伝 (岩波文庫 青 104-1)

東洋民権百家伝 (岩波文庫 青 104-1)

一名 日本義人伝 1883 初帙(ちつ)之上・戸谷新右衛門伝 ほぼ全部。)

《遺恨更(さら)になし》――これは 《夕鶴つう》とは違うところなり。
わたしは 読んでいると 怒りがこみあげてくるゆえ 批評をなすには 五百年早いだろうか。
ローマ教会は 過去のあやまちを詫びたとのことだが いちど解散しないことには 話にならない。その前に迫害を受けたことに遺恨を引きずっていないというためにも 一介のスサノヲ市民となって出なおさねばならぬ。
権威を保守するために過去のあやまちを犯したのだとすると その前の過去における遺恨を引きずっていることになる。迫害を受ける立ち場に戻りたくないと だだをこねていただけとなる。
(つづく→caguirofie070310)