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哲学いろいろ

#75

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Césarée Maritime
Aussi connue sous le nom de “Césarée près de Sébastia,” Césarée de Straton, Caesarea Palaestinae, Colonia Prima Flavia Augusta Caesariensis, Herodian Caesarea, Horvat Qesari, Kaisariyeh, “Metropole de la province de Syria Palaestina,” Migdal Shorshon, Turris Stratonis.

Port d'Hérode

Ce site fut insignifiant jusqu'à ce qu'Hérode commence à la développer en un magnifique port convenant à son royaume. Le port fut construit en utilisant des matériaux permettant au béton de ce solidifier sous l'eau. Le port de trois acres pouvait accommoder 300 navires, étant bien plus grand que celui existant de nos jours.

第三部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム

第四十一章a くにやしろ資本《A‐S連関体制》の構造(しんきろう現実)

――§20――


戸谷新右衛門は 紀伊の国 伊都郡 島野村の人なり 


家は世々農業を営み 門地(いえがら)も古く 田園も裕(ゆた)かに有りて 此の近傍(あたり)には 屈指(ゆびおらるる)人の数に入り 父祖の代よりして 村長庄屋など 官(おおやけ)の撰(えら)みにあづかり 里人の推薦(おしすす)めにもよりて 代々これを勤めざるはなく 自ら人望も有りて 島野の新右衛門とし云(い)へば 誰も知らぬものさへあらぬ門閥(いえがら)なりけり。


然れども この新右衛門も父の跡を襲ひてより 村長庄屋 年久しく勤めつづき 最(いと)忠直(まめやか)に村人の勧奨(せわ)なしつ 又なきものと敬われて徳川幕府の世を御(おさ)むる 武断政治の太平に馴れつつ 無事に光陰(つきひ)を送り居りしが 爰(ここ)に一条(ひとつ)の異変事(できごと)ありて此の太平の良民が 不測(ふしぎ)の惨苦を備(つぶ)さに甞(な)め 民権節義の芳しき名を 後の世に伝ふることとはなりたりけり。其の顛末を左に物語らん。


乍麼(そも)此の島野村を始めとして此の近傍の村落は 当時(そのころ)如何なる治者の下にありて 誰人の支配を受けし者なるやと云ふに 此は是れ普天之下(ふてんのした)としも称(とな)ふ 王土の実況(ありさま)も無く 卒土之浜(そつどのひん)とも云ふなる 王臣の部類にも入らず 猛きに誇る 武門武士の管領(しはい)をさへ免かれて 一種異種の特権もて 地頭領主と唱へつつ 似而非(えせ)法師等が末世の悪業 己が自恣(じし)振る舞ひて慈悲なく政(まつりごと)を行なへる 高野山の寺領にぞありける。


然るに当時世の習慣(ならはし)とて 幕府の中央政府を始めとして 諸侯列藩は云ふも更なり 代官奉行所の官吏(やくにん)に至るまで 其の施政の方向は 一体に皆 圧制束縛ならぬは無く 況(まし)て当時は徳川政府の弊風も稍や甚だしからんとするの秋(とき)なりしかば 賄賂ほうじょ*1の行なはるる事も少なからず。年貢運上は 役人等が思ふがままに取り立て 人民には絶えて権利も自由も無き世なりければ 何処の里の人民も 皆其の虐(あしき)政(まつりごと)に苦しまぬはなき世のさまとなりたりしが 別(わき)て不正無法の甚だかりしは 此の高野山の如き 僧侶が支配なせる寺領の政事にぞありける。


僧侶と云へるものは固(もと)より政事の学をなせしものとてはなく 君臣の情義をもて相い互いに撫育(ぶいく)報酬するの道さへ弁(わきま)へ知らぬものどもにて 只管(ひたすら)他人の懐をのみ当てにして 巧みに方便もて己れが貪欲心を飽かしめん事のみ 務むるものなれば 其れが支配の下になりたる人民の不幸は謂(い)ふべくもあらず 現世(このよ)からなる餓鬼道に迷ふ亡者の心地して幸なく身をば嘆(かこ)ちけり。


されば此の新右衛門の世に出でたる頃は享保の年中にて幕府全盛の世の中なれば 四海の波は平らかに 枝も鳴らさぬ春風に緑いやます松平津々浦々の賎(しず)が夫(お)迄(まで) 腹づつみ打つ世なりしが 爰に哀しむべきは新右衛門の身につき いとも堪えがたき痛楚(つうそ)を受け 一身をもて万民の生命にかはり 後の世にまで義人の名をば伝ふべき事の出で来たりぬ。


其は如何なる事と原(たず)ぬるに 当時徳川政府の別度とかや 租税の貢米を納むるには 京判と云へる桝(ます)を用うるをもて 天下一般の定則となし 其の余は讃岐判など唱へて 商人(あきんど)社会(なかま)の私(わたくし)に用うる桝のありたれど 其は公の事には用うることを禁じありたりし故に この高野山の事務所興山寺の租税局にても 天下一般の定則に依り 京桝を用ゐて貢米を量るべき筈(はず)なりしを 彼の貪欲なる法師原(ばら)の作略もて 讃岐桝を用うることにぞ改めける。其は何故と云ふに 讃岐桝は京桝に較ぶれば 一升に付きて二勺(しゃく)づつ多量なれば 二万石の高にては四百二十石を余計に取り立つる事を得ればなり。


かくして年々巧みに税を増加する時は十年百年の間には非常の高となるの勘定にて かの桑弘羊(そうこうよう)が不加而足(くわえずしてたる)術ならねど 昔も今も押しなべて 聚斂汚吏(しゅうれんおり)の姦策は悪(にく)みても 猶ほあまりある事なりかし。かく京桝を讃岐桝に改むるのみならず 甚だしきは此の讃岐桝の口縁(べり)に松膠(やに)を夥(おびただ)しく粘り付け 上を糠(ぬか)もて塗りかくし 桝の縁りをば高くしつ 一桝に付き幾千粒の米をば 過当に貪り取るなど云はん方なき振る舞ひありしかば 管下人民の嘆きは大方ならず。


斯(か)く種々の手術(てだて)をもて年々余計の貢米を増加せらるに至りなば 一年二年の其の間は左迄(さまで)困苦を覚えぬも 拾数年を経たる後は如何なる困苦に陥らんも知る可(べか)らず 況(ま)いて 子孫の行く末を考へ見れば覚束なく又あぢきなき世の中となりゆくめりと老いたるも若きも眉を皺めつ両手を組みて 深く憂へ憤りけるが 卑屈人民のならひとて かく迄に不正の事をなし 不当の税を取り立てらるるも 只(ただ)陰弁慶のみかしましく 彼方(かなた)此方(こなた)に寄り合ひて 地頭を怨みののしれども 我れ一人表立ちてこれを争ひ訴えんと抽(ぬき)んで出ずるものもなかりしが 


爰にかの島野村の新右衛門は 天性朴直剛毅にして 義を見ては死を顧みず人の憂ひに先き立ちて憂ふるの風ある人にてありければ 此の事の起こりしより 憂ひ憤る事深くして 直ちに高野山に馳せ登り 興山寺の役僧等に面会して 大いに桝の不正なる事を弁論し 従前(これまで)の如く 正当なる京桝に改めん事を請願なしけるに あくまでねじけし役僧原は少しもこれを聞き入れず 地頭の権もて為す事を 螻蟻(ろうぎ:ケラとアリ)にひとしき土百姓のかれこれ吻(くちばし)容(い)るることかはと 却(かえ)ってこれを罵り辱しめ 寺門の外に追い出しければ 新右衛門は詮方なく無念の涙にくれつつも 其の日は高野を下山なし 家に帰りてつくづくと将来(ゆくさま)の方向を考へたりしが 


兎(と)ても今日地頭の役僧が我れに侍(いた)せしありさまには 此の後如何なる訴をなすとも 聞き届けてくれん事はおもひもよらず さればとて此のまま打ち捨ておきては 人民の嘆き如何ばかりかは知るべからず。


元(も)と彼の桝の制度と云ふは 天下一般の定則(おきて)ありて 高野山にて私しすべきものならねば 若しも此の事 江戸政府へ公沙汰となりたる時は 公の裁許もて改正せらるるには違ひあらず。

よしよし此の上は貪欲無慚の役僧等を相手となし 無用の争ひを為す事を止めて 江戸に赴きて徳川将軍に直訴なし この曲直を決してくれん

と 大丈夫にも志を立てたりしが 


一人の願より幾千人の嘆きを申し出るこそ上の心に貫徹のなし易からんとて 己れが志すところの主意の檄文に 連判状さへ添へたるを 二万千石の村々へ 密かに回達なしたりしに 各村の人民は之を見るより 兼ねて不平に堪えかねて かかる企てあれかしと 待ちに待ちたる折柄なれば 其の喜びは一方ならず 我も我もと連判状に加名するもの数しれず 瞬く間に二万千石の人民 十に八九は連判して 其の連判の人数の協議にて総人数の中より 重立ちたる百姓十六名を選挙して江戸表に出府なし 公儀沙汰をは仰がんと 詮議一決をぞなしたりける。


斯く相談も一決して已(すで)に江戸に赴かんとするの場合に臨みて 又も困難なる事こそ出来(しゅったい)なしたれ。其は如何にと云ふに・・・

(つづく→caguirofie070309)

*1:ほうじょ:ほうは 草冠に包 じょは 草冠に且。贈り物から転じて まいないの意という。