caguirofie

哲学いろいろ

#67

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Mont Thabor

Depuis l'arête de Nazareth, le Mont Thabor s'élève à l'horizon oriental. Alors que certaines traditions attribuent la transfiguration de Jésus à cet endroit, elle arriva plus vraisemblablement dans les environs de Césarée de Philippe. Débora et Barak campèrent sur le Mont Thabor avec l'armée israélite avant d'attaquer et de vaincre les forces cananéennes de Sisera.

第三部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム

第三十七章a 諸原則の再確認

――アウグスティヌス 資本形成の推進力を語る――


・・・その方はかくれたところから出て私たちのもとへ はじめて処女の胎に来たり そこで死すべき肉なる被造の人間性と結合されたが それは肉がいつまでも死すべきものでないためだった。
ついで処女の胎から あたかも閨(ねや)から出てきた花婿のように 道をかける巨人のようにおどり出た。遅疑せず ことばと行ないと 死と生と 下降と上昇とによってさけび 駆けたまうた。私たちにむかって その方のもとにたちかえるようにとさけびながら。
(告白4・12・19 前章の冒頭の引用文からつづく)

ここで――ここからは―― このような内なる秘蹟を ウェーバー流に《内面の〔エートスのとは言わないが〕固有の法則性》であると言おう。わたしたちは 臆面もなくそう言おう。

  • 秘蹟 sacramentum という言葉を使うと 現代人にわらわれるかも知れないから。けれども 日本語で《さくら(桜)》と言って或る種の仕方で この秘蹟を意味表示させており それは エートス(人間類型)というより もっと確実なものを示していた。ただ ここでも やっかいだと思われることには この《さくら》というとき そこにエートスも付随して来ないとは言い切れないことだ。だが エートスの王国を説くやり方に対しては もはや批判済みということにしたから 内面の固有な法則性ということばも 使おうと思う。スサノヲ者の《個体の歴史の方程式》というような表現も可能かと思う。

ともあれ 《やみくもに走ったり 空を打つような拳闘》(コリント前書9:26)は もう止めにしたのだから。

わたしたちが正気でなかったのなら それは神のためであったし 正気であるなら それはあなたたち(つまり わたしたち)のためなのです。
(コリント後書5:13)

から。
つまり こういうことです。
《かれ》が 《わたしたちの死(譲歩)をしのび そののち死を あふれる生命でもって 殺した》(告白4・12・19)と言うのなら たしかにかれは 《かくれたところから出て 私たちのもとへ 来た》のである。かれを見るためには心が 清められなければならなかったと言われるように わたしたちの身体――それは 自然本性として《処女》――に来たまうた。《とれ よめ》という唄を聞いて 《かごめ かごめ》という唄を聞いて 落涙したなら これは 身体の運動でしかない。この自然本性に 来たりたまうた。
または――あまりにも愚かだとのそしりを発せしめて それらの人に躓きを与えないようにしようと思えば―― わたしたち自身が このような自然本性の身体に(《神は 自分のかたちに人を創造された》(創世記1:27)から)に到来したのである。これを 精神としても発見したのである。いや そのまま精神としてもの到来なのである。
《そこで死すべき肉なる被造の人間性と結合された》。《それは肉がいつまでも死すべきものでないためだった》というのは 霊(共同主観)および身体の――第一の死(譲歩)からの永遠の生命への――復活を 言っている。これは――かく言うアウグスティヌス自身 そのとき そうであったように―― わたしたちにとって 将来すべき生の動態に属している。将来すべきこととして臨むのがただしい。
《ついで この処女の胎から あたかも閨から出てきた花婿のように 道をかける巨人のようにおどり出た》のだ。わたしたちが。そして イエスにおいてキリストが。
《遅疑せず》――滞留をおこなうも 停滞せず 《ただちに活動しようと緊張(滞留)して》(マルクス)―― 《ことばと行ないと 死と生と 下降と上昇とによってさけび》――観念の共同性の情況の中で 愛の力=人格を 交換しなければならないとき なおこれにも譲歩しつつ 《死と生とをもって》である。天使たち =精神〔以上〕の現象 =思想 の《下降と上昇とによって》(なぜなら 上なる神に聴従するから) 心の中で叫び―― 《駆けたまう〔た〕》。
人間キリスト・イエスが 駆けたまうたゆえ 人間であるわたしたちも このキリスト(資本(愛)形成の推進力)がわたしたちをとおして駆けたまうことを欲し また 実際 駆けたまうたと知る。《私たちに向かって かれは その方のもとにたちかえるようにと 声にならない声で さけびつつ》 不在のものの現在として いましたまうたし いましたまう。弟子たちが これを証言して明らかなかたちで表現し アウグスティヌスマルクスやらが この愛を受け取った。
これが ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスムの原点だと思う。むろん 人間のことばで表現しているからには すべては そのもの自体ではなく 代理表現である。
《神は自分のかたちに人を創造された。すなわち 神のかたちに創造し 男と女とに創造された》(創世記1:17)ゆえ 《処女性》が論議されなければならなかったのである。また《神》の語はこれを用いないのであるが 処女性なる自然本性(神の似像であること)が 認識されるために わかりやすく 創造者・神などの語が 用いられた。
そうでなければ 諸言語で 神――それを 神々と言おうとも――をあらわす語は これを人びとは持つに至らなかったであろう。だから 《神は死んだ》とも言えるし また そう言うことじたい 生活の内的な方程式として神は生きている(――誰もこれを強要され得ない――)ことを 内容させていることは おおいにありうる。
このような意味で この第三部のはじめの章に掲げた《諸概念》は 《諸原則》のほうの観点から 内的な固有の方程式として見ることができるであろう。価値判断を交えて 捉え返すことができるであろう。こうして それらが ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスムの発端となる――構造的・過程的な個体の内なる発端( 'αρχη: arche )となる――と思う。(《知の考古学 archéologie 》は この霊的な共同主観の前史である)。
このインタスサノイスムが 歴史的な社会事情に即して ヤシロロジ(社会諸科学)を包むまでに達する。達するというのは ある程度の原則的な理論を除けば 社会事情に応じて そのさまざまな各やしろの領域・分野での 〔緩やかな意味での経験的な〕諸法則性が明らかになるということを意味するであろう。言いかえると この外的な諸法則性が 体系化されその理論(科学)が絶対的なものとなったり あるいは 一個の精神の王国を築きあげるということではなく そうではなく 時代に応じて変わりゆくものとして 明らかになるであろうし また明らかにしてゆくことができるということを意味している。
ここでは さらに《諸原則》を取り上げて見てみることが 基本である。
(つづく→2007-03-01 - caguirofie070301)