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哲学いろいろ

#63

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Temple Hérodien ( Samarie )

Sur l'acropole de Samarie et sur le sommet de l'emplacement d'anciens bâtiments administratifs Israéliens, Hérode le Grand construisit un temple de taille colossale dédicacé à Sébaste. Au cours de la construction il détruisit la plus grande partie des vestiges de l'époque israélienne. Hérode construisit aussi des temples à Césarée (aussi dédicacé à l'empereur) et à Jérusalem (dédicacé au Seigneur Dieu d'Israël). Ces marches de taille monumentale (à gauche) datent du temps de la reconstruction du temple durant le règne de Septimes Sévères (193-211).

第三部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム

第三十五章a 山路愛山のばあい

――§9――


現在までの政府の力は 主に昔風な方法の堅持と恭順(甘え)という古来の遺風にたよってきたということは 多分 真実であろう。やがては きっと 大変化を見なければなるまい。そうなるまでは 多くのことを勇敢に忍び耐えなければならないだろう。
恐らく 日本の近代文化の今後の歴史にも この何千万という日本人愛国者が 法の上では解放自由でありながら 封建時代そのままの官僚的な奉公を甘受し ――いまだに封建的精神であらゆる犠牲を平気で受け取っている政府の意のままへの奉公を素朴にも特権と心得 そのために その才能 その力 その極度の努力 その生命をも―― 当然のこととして――《国民》の義務として――甘んじて投げ出している あの我がまま無類の英雄主義(スーパーアマテラシスム)以上の悲壮な傷心の記録はもうあらわれることもなかろう。
ラフカディオ・ハーン:日本 1904 §19)

という必要は もはや現代ではなくなった。少なくともその流れは 変わったと言うと 言い過ぎであるだろうか。

現代の管理社会強化の一般的趨勢は 組織に無思想に適合してくれるエリート官僚を求めてきた・・・大学が工業化社会の要請にこたえてエリート官僚を養成してきた・・・時代の一般的官僚制化
(内田芳明:大学入試小論文やはり意義  朝日新聞1982・12・2夕刊) 

という一つの価値自由な認識は うそである。さらに引用ばかりを続けるけれども――

日本の学徒の評価をば 彼らの民族の経験とは無縁であったところの西欧の感情や思想を理解するに当たっての誤謬や失敗や無能力

  • その科学技術の応用の驚嘆すべき的確な実現については 前章冒頭で指摘されていた。

などにたよるのは 軽薄浅慮の人の犯す誤謬といえよう。これらの学徒を正しく判断するためには 彼らの示している無言の道徳的な英雄主義

  • ここでは このスーパーアマテラシスムへの迎合ではなく それへの譲歩としての・時に行きすぎである或る種の英雄主義

を知ることをまづ学んでおかなければならないのである。
(ハーン:前掲書 §19)

かれらつまりわれらは インタスサノヲイスムに立って 一たんスーパーアマテラシスム(ウェーバーの予言するところの現代社会の官僚制化)に譲歩して 仕えるのである。
《大学が 工業化社会の要請にこたえ》たのではない。《エリート官僚は 少なくともそのはじめの出発点において 組織に無思想に適合してくれる》のではない。かれらつまりわれらは スーパーアマテラシスムに対抗して スーパースサノヲイスムを説くつもりはないから そのように《時代の一般的官僚制化》に寄留し まづ死を死ぬのである。
けれども 流れが変わったとしたなら この死が死ぬのである。スサノヲ者は 死にっぱなしでは ないであろう。《浮動する社会通念の欺瞞性を見破って 研究と教育の目標をたえず人間性の回復の方向に定めていかねばならない》(内田芳明)のではない。このように説くスパースサノヲイスムの亡霊の《欺瞞性を見破って》すすむのである。なぜなら 《浮動する社会通念の欺瞞性(共同観念アマテラシスムの幻想性〔とその魅惑〕)》については 親子の代から いや神代の昔から わかっていることであるから。
かれらいやわれらは 《人間性》を保持するために まづ《時代の一般的官僚制化》につきしたがった。これを いまさら わざわざ指摘し批判している悠長さとつきあっているひまはない。《マニケイスムの罠が砕かれ棄てられる》ことになる。

現代の官僚層が 長年の予備教育によってスペシャリストとして専門的訓練を受けた高度の熟練精神労働者へと発展しているという事態・・・これらの労働者は 清廉を守るという高い身分的名誉感を持っているのであって もしこれがなければ われわれは恐るべき腐敗と卑しい俗物根性の危険に直面する運命にあったであろうし また国家という装置の純粋に技術的な能率も脅かされたことであろう。
ウェーバー:職業としての政治 1919 山口和男訳)

というのは それが現実を言い当てていようと いまいと 上品に言っても あさってからの議論だということになる。

○×式の勉強に順応しきれない若者の層の中にも より創造力豊かな可能性を秘めた面白い人間がたくさんいるのであって そういう人間を発見し受容し教育していくことの方が 大学の学問研究それじしんに情熱と刺激を与えることになるし 若者たちを勇気づけ 結局は文化社会に利益をもたらすことにもなる。そのように視座を少しでも移動させてみることが必要と思う。
(内田芳明 前掲稿)

というのは しあさってからの議論である。かれらは 情況に応じてそのように視座を移動させつつ A者予備軍として アマテラス圏の保守をはかり 自己を楽しませている。

然らば則ち日本の基督教会(インタスサノヲイストのS圏やしろと読める)は全く将来なきものなる乎(か)。何ぞ其れ然らん。余は基督教会の将来をしかく悲観すること能(あた)はず。見よ 最近数年の日本精神界は更に宗教的要求の復活を示しつつあるに非(あら)ずや。

  • これは むしろ逆説である。そう読むべし。

余は此の著しき事実を看過すること能はず。請(こ)ふ 余をして時代の徴候を語らしめよ。
(一) 所謂る国家教育主義の破産。井上〔哲次郎〕氏等の唱導し 大学出身者を以って殆(ほとん)ど其の全部を占めたる文部省の官吏に依りて強行せられたる所謂る国家教育主義はたとひ善良なる国民を作らんとする目的に於いては敢へて議すべき所なきにもせよ 其の手段の余りに機械的にして学生の本能を抑圧するものなりしかば 固(もと)より少数にして微弱なる基督教徒を迫害するに於いては稍(やや)成功したるが如くなりしかども 遂に其の学校の圏内に入り来たれる学生を満足せしむるには足らざりき。
彼らは同一の主義を以って全国の学校に及ぼし斯(か)くてめでたき彼らの理想としたる忠君愛国の士(――これに代えるに 《人間性の回復 / 個性の尊重 / 知識への自立的関心》(内田芳明)――)を作らんと欲せり。されど是れ遂に空想に過ぎざりき。
日本の青年は忠君愛国主義を鼻声にて説教する坊主(学校教師――原文註)より有り難き法談を聴きたり。最初は謹厳なる態度を以って之を迎へたり。されど其の数(しばし)ば繰り返さるるに及んで彼らは遂に大欠伸(おほあくび)を催せり。彼らはたとひ如何ほど道理ある主義にても 外部より強ひて注入せらるるに堪へず。其の気概あるものは遂に起ちて之に抗せり。帝国大学の秀才たりし高山林次郎が其の学校を出づると共に美的生活論なるものを唱へ 登張竹風がニッチェを担ぎ出し しきりに仁義道徳の縄墨(じょうぼく)主義なるを攻撃したるが如きは是れ学生の遂に所謂る国家教育主義に謀反するに至りしものなり。
而して此の放縦自恣なる傾向は日に長じ 月に進み 遂に日露戦争の最中に於いて国民新聞記者をして左の如く曰(い)はしむるに至れり。

現代青年は個人的自覚を得たると共に国家的自覚若(も)しくは其の一部を失墜したるが如し。

個人的自覚の物質的に偏したるものは所謂る拝金者となり 其の比較的健全なるものは当今の所謂る失望 苦悶 落胆 厭世の従となり 其の比較的健全なるものは所謂る人生問題の研究者 若しくは空想迂僻(うへき)の大天狗となる。

青年の或る者は遼陽の大激戦よりも寧(むし)ろ壮士芝居の評判に多く心を動かしつつあり。

小児の伽(とぎ)物語に曰く

雌鳥あり。数個の卵を其の羽翼の下に温めて鶏たらんことを期せしに 其の孵化したるものを見れば何ぞ図らん 尽(ことごと)く家鴨(あひる)の子にして 競うて水に赴(おもむ)かんとは。慈悲ある雌鳥(――《意味喪失の時代》を言う大塚さんら――)は之を見て 悲嘆に堪へざりきと。

所謂る国家教育主義の唱導者 維持者たりしものは亦 何ぞ此の可憐なる雌鳥に異ならんや。
山路愛山:基督教の将来は悲観すべきものにあらず 〈現代日本教会史論〉《 

わたしたちは ヤシロロジ〔としてのインタスサノヲイスム〕を 論議しています。ヤシロロジの理論作成にただちに赴かず このように繰り返し人間論をつづけているのは 次の理由からです。これからは 個性が重んじられなければならないとか 人間性の回復をめざして 学問し生活や政治をいとなむのだとか そのようには わたしたちが言わないことを基本とするからです。そのようにすることは わかりきっていることだからです。

この文書(《コミュニスト党宣言》1848を指して言っている――引用者)は いかにわれわれがその重要なテーゼを拒否しようと(少なくとも私は拒否する――原註) その本質においては 第一級の学問的業績である。
このことは否定されないし してはならないのである。というのも だれもこの文書を信用しないが しかも良心があればこれを否認することはできないからである。
ウェーバー社会主義 (講談社学術文庫) 1918)

ウェーバーによって言われたマルクスのように またはそうではないように 《空想迂僻の大天狗とな》ってのように この前提領域で 物言いをつけることが必要だとしたら それは アマテラス予備軍らにつけ入らせないためである。なぜなら 《此の可憐なる雌鳥たち》は 先取りして《空想迂僻のスーパー天狗となって》 この《意味喪失の時代にあって 人間性を回復しなさい》と あのアマテラス語の権威あるメロディにのせて 説教する ところが この《意味を喪失した説教》が なんとも憐れむべき哀愁を帯びた調べとなって わたしたちの耳に聞えてくるから 不思議ではありませんか。
旧時代のそれには 大欠伸をしても 技術革新したA者予備軍のうたには 幻想とその魅惑があるから不思議ではありませんか。わたしたちが《いやおうにも食べさせられ じつは食べさせられていなかった》幻想のいちじく。内容があり じつは内容がないというスーパースサノヲイスムのいちじく。
(つづく→2007-02-25 - caguirofie0702245)