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哲学いろいろ

#60

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Acropole Israélienne ( Samarie )

Omri acheta la colline de Samarie à Schémer pour deux talents d'argent et en fit sa capitale (1 Rois 16:24-28). Son fils Achab fut marié avec la princesse phénicienne Jézabel, avec laquelle il répandit les idolâtries de Baal en Israël. Achab construisit un temple pour Baal à cet endroit, qui fut plus tard détruit par Jehu avec les prêtres de Baal (1 Rois 16:32; 2 Rois 10:18ff). Des excavations réalisées à Samarie révélèrent l'acropole des rois, avec une collection d'ostraca et d'objets d'ivoire. De grandes destructions furent réalisées avant la construction d'un temple par Hérode le Grand.

第三部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム

第三十三章b 諸概念・諸原則の確認

――アウグスティヌス インタスサノヲイスム(人間的友情)を語る――


〔以下は 価値判断の内容をつけ加えて述べよう。〕――

  1. くにとしてのやしろシステム すなわち広義の《アマテラス‐スサノヲ》なる二階建て連関体制は おそらく逆立しているであろう。アマテラス圏なる頭で立っているらしい。言いかえると それは 《S圏(インタムライスム連合主導)‐中央A圏(従属)》の連関制が ふつうのすがたであるだろう。
  • インタナシオナリスムも S圏段階でのそのような資本連関 つまり インタ・インタムライスムを――中央調整機関としてのA圏をとおして――過程させることが より一層ふさわしい。
  • なお 社会形態としての《A‐S》連関体制は より具体的に《A(アマテラス市民政府およびアマテラシテ元首)‐S》連関形態として捉えることができる。
  • このような中央A圏は インタムライスムS圏の全体的な調整・相互仲介の機関として考えられる。S者市民の代表(または代理)は S圏各ムラの中のA圏ないしA者であり 中央A圏は さらにその代理と捉えられる。(自治態勢(市町村ならびに都道府県)の段階と国家の段階とである)。
  • 〔以下 これらにかんする神学的なヤシロロジの諸原則として。――〕
  • やしろが――少なくとも人間の内なるやしろが―― キリストの肢体である。
  • したがって――キリスト・神は愛であるから―― やしろ資本が愛である。
  • 《この岩(ペテロ)の上にわたしの教会(やしろ)を建てる》(マタイ16:18)。
  • S圏やしろつまりムラが エクレシア( ecclesia = église ;自治態勢の議会)なる教会。(言葉の問題である。そういう表現を それとして 引き継ぐという意味)。
  • やしろ全体(S圏連合‐A圏連関形態つまり くに)が キュリアコン( kuriakon = church; 主の家)なる教会。(宗教から自由なそのような社会形態のこと。ほかの宗教組織などは 表現の自由にのっとって 大きくこのような共同自治の体制のもとに うごく。)
  • ペテロ(岩)は インタスサノヲイスト。
  • 《あなたは私の顔を見て 生きることは出来ないであろう。なぜなら 人間は誰も私の顔を見て 生きることはないからである。また主は言われる。見よ 私の傍らに一つの場所がある。私の威厳がそこを通り過ぎるやいなや あなたは《岩》の上に立つであろう。私はあなたを《岩》の頂上に(霊的な共同主観に)置こう。私が通り過ぎるまで 私は手であなたを蔽うであろう。(≒《かごめ かごめ》)。私が手を除けるとき あなたは私の背面(《うしろの正面》)を見るであろう。私の顔はあなたに現われないであろう》(出エジプト記33:20−23)。――つまり これは アマアガリにかんしてである。
  • たとえば 《主が復活して御父の御許に昇られるその栄光(アマアガリ Ama-agari の共同主観)において主の威厳が移り行くや 直ちに真実に私たちは岩の上に堅固( sanctus )にされるのである。堅固にされる前には恐れから三度否認した(〔イエスを〕裏切った(マタイ26:70−74)〔その〕)お方を確信をもって宣べ伝えた(主観共同化の実践)のである。確かにペテロは 〔前史においても〕予定によって(神は 《恵もうと思う者を恵み あわれもうと思う者をあわれむ》(出エジプト記33:19))すでに岩の頂上に置かれていたが 主はなお御手をもってかれを蔽い 見るのを遮られたのである。ペテロは主の背面を他日 見るはずであったが 主は未だ たしかに死から生へ移り行かれず 未だ 復活によって栄光( Ama-agari )を受けていられなかったからである》(三位一体論3・17)。
  • 《主の霊のあるところに 自由がある》(コリント後書3:17)。
  • 《私たちは顔蔽い(このいまの神学的議論のこと。もしくは 内面エートスの《固有の法則性》のA語理論スーパースサノヲイスム または A語観念共同スーパーアマテラシスム)なくして主の栄光(本史)を鏡(やしろの経験世界としての理論像)に映すように見つつ 栄光から栄光へ(前史から後史へ 共同主観から共同主観へ) あたかも主の霊によってのように 同じ似像に変えられるであろう(《キリストに似る者とされるであろう》(ヨハネ第一処:17) インタスサノヲイストが 同時にヤシロロジストとして立っているであろう)》(コリント後書3:18)
  • 《真理は きみたちを自由にする》(ヨハネ8:32)。
  • インタスサノヲイストが 岩のように堅固にされて 同時にヤシロロジストとなるのは 理論によってではなく またヤシロロジストとして自由になるのは 真理の信仰によってである。(時間的なものが永遠に関係するように 信仰が真理に関係している)。
  • ヤシロロジストが 〔自己あるいは理論を〕知らないことと それを思わないこととは 別である。知らなくても 実質的に思っている・だから実践していることはありうる。
  • 前項の後者(その思うこと)は 理論家も 理論する方法主体としての自己の〔精神・愛の〕滞留をあらわすようになるといったかたちのことである。そういうことが起こりうる。
  • したがって 信仰が 前史から後史へ移行する自己の歴史の動態のことである。
  • 《神は ユダヤ人だけの神でしょうか。・・・ユダヤ人も異邦人も 等しく信仰によってただしい者とされる(アマアガリせしめられる)》(ローマ書3:29−30)。
  • ゆえに ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム。
  • 《あなたを愛し あなたにおいて友人を あなたのために敵を愛する人はさいわいなるかな。まことに 失われることのない御者(おんもの)において万人を愛する人だけが 親しい友人を一人も失わなくてすむのです。その失われることのない御者とは われらの神(S圏やしろの資本推進力=愛)でなくてだれでしょう。・・・あなたの法は真理 真理はあなたなのです。》(告白4・9・14)。(この神を言葉によってこれですと示すことができるとは思われない。信仰にとっては 教会だとかキリストの肢体であるとかはすべて 表現の問題である。)
  • ゆえに ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスムにおける アマテラス予備軍(《顔蔽い》の制作者・仲介者)の解放。
  • 《それゆえ 人間に従ってではなく神に従って生きる人は とうぜん善を愛する人となり したがって悪を憎む者となるのである。さらに だれも本性じょう悪いのではなく 悪い人は本性の欠陥のゆえに悪いのであるから 神に従って生きる人は悪い人に向かって完全な憎しみを持つのでなければならない。というのはかれは 人を欠陥のゆえに憎んではならず むしろ欠陥を憎み 人を愛すべきなのである。もし欠陥がいやされたならば すべては愛すべきものとなり そこには憎むべきものは何も残らないであろう》(神の国について14・6)。本性じょう悪いのならば 憎んでも仕方ない。善という一元のほかに 悪というもう一元があるとするのなら 互いにけんかするのは自由だが しても しなくても どちらも同じこととなる。悪という名の善であるかも知れないし そもそも 悪と善とをわきまえること自体が 不必要であり意味のないこととなる。二元論とは そういう思想である。
  • という神学の蔽いを――蔽いとしては――取り除くべき すなわち かく言う《わたし》を無化すべき。
  • なぜなら 《霊魂(精神・A者)のすべてのわざわいが身体(S者)から来ると考える人は誤謬を犯している。・・・霊魂の重荷となる身体の腐朽は 最初に罪を犯した原因ではなく むしろそれの罰だから。朽ちる肉が霊魂を罪あるものとしたのではなく かえって罪ある霊魂が肉を朽ちるものとした(――または この肉の腐朽性を あせって嘆き 二元論的精神主義のスーパースサノヲイスムを説く――)のである》(神の国について14・3)。
  • この悪しき霊魂から説教するアマテラス予備軍の《欠陥を憎み 徹底的に憎み その人を わたしたちは 愛すべきである》。
  • これは むしろ 身体の運動・生活・井戸端会議 また ヤシロロジとしてのそれらにおいて 信仰が愛をとおしてはたらくことによってである。
  • 罪がなくなるとは思うな。身体の腐朽性も。色と金の世界がなくなるとは。この地上において。(もし なくなったときには わたしは 大嘘つきとなる)。
  • けれども 欠陥がいやされる。
  • そのような 《失われることのない御者》=キリスト の肢体の完成。

(つづく→2007-02-22 - caguirofie070222)