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哲学いろいろ

#50

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Nazareth
Très peu d'informations ont été trouvées concernant Nazareth dans les anciens temps. En dehors du Nouveau Testament, Nazareth n'est jamais mentionné jusqu'à l'époque Byzantine (IVe siècle). Des excavations archéologiques ont confirmé le fait que la ville n'était qu'un petit village agricole durant les époques grecques et romaines.

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第二十八章a ヤシロロジは 具体的な行為としてのインタスサノヲイスムに始まる

――この点にかんするアウグスティヌス――


長い引用から始めます。内村鑑三の《不敬事件》についてです。

一月九日(1891=明治24年)に私の教鞭をとる高等中学校で教育勅語の奉戴式が挙行され 教頭の式辞と上述(=省略)の勅語奉読の後 教授と生徒とはひとりひとり壇上に昇って 勅語の宸署(明治天皇の署名)に敬礼することになりました。
その敬礼はわれわれが日常仏教や神道の儀式で 祖先の霊宝の前にささげている敬礼です。この奇妙な儀式は教頭の新案になるもので 従って私はこれに対処すべき心構えを全く欠いていました。しかも私は第三番目に壇上に昇って敬礼せねばならなかったため ほとんど考慮をめぐらす暇もなく 内心ためらいながらも 自分のキリスト教的良心のために無難な途をとり 列席の六〇人の教授(すべて未信者 私以外の二人のクリスチャンの教授は欠席)及び一千人以上の生徒の注視をあびつつ 自分の立場に立って 敬礼しませんでした!おそろしい瞬間でした。
その瞬間 自分の行動が何をもたらしたかがわかったのです。元来この学校における反キリスト教的感情は 昔も今もすこぶるはげしく われわれの側の柔和や懇切ぐらいのことでは到底 緩和すべくも無いほど面倒なものですが それが 今こそ 国家と元首に対する非礼のそしりをば 私に また私を通じて一般のクリスチャンに かぶせ得る正当の理由(と彼らは考えます)を見つけたのです。
まず数人の乱暴な生徒が ついで教授たちが 私に向かって石をふり上げました。・・・事件は校外に波及し 新聞紙はこれを取り上げました。
内村鑑三:D.C.ベル(アメリカの友人)あて第四信)

なお詳しく事態の経過を述べているが 省略する。・・・
ところで右(上)の《不敬事件》については 簡単ながら二・三の点を指摘するだけにしておきたい。

  • と内田芳明は 《解説》を述べています。

(1)内村鑑三教育勅語に《敬礼》しなかった(少し会釈しただけだった)ということは 《内心ためらいながらも》《キリスト教的良心》の問題としては鋭く感じとられ 《自分の立場》に忠実であったことの結果であった。
・・・
(内田芳明:前掲《内村鑑三集》1975の〈解説〉4)

この《指摘》は つづいて第三点まであるが まずこの第一点にかんして わたしたちの《立ち場》を 明確にして表明しなければならない。
ここでは 内村・内田両氏に異を唱えたいと思う。次の理由からである。
)《キリスト教的良心》などというものは《ない》。あるのは 《人間の良心》のみ。――したがって 内村は 《自分の良心》と《自分の立ち場に立って 敬礼しなかった》とのみ述べる(また認識する)べきであった。その信仰が愛をとおしてはたらくのは 《神の恩恵に由りて》のみだから。
)《元来この学校(第一高等学校。つまり《官立》だということも言っておく必要はあるかも知れない)における反キリスト教的感情は 昔も今もすこぶるはげしく》かどうかを別としても 《われわれの側の柔和や懇切ぐらいのことでは到底 緩和すべくも無いほど面倒なもの》という認識は 成り立たない。――なぜなら (a)《柔和や懇切》は 《教》のいかんを問わず 《必然の王国》の中でも れっきとした精神の徳である。(b)《反キリスト教的感情》は それぞれの《良心の自由》によって――むろんキリスト史観においても―― 原則として・あるいは逆説として 十全に成り立つ。これをあげつらうべきではない。あげつらっても なんら意味がない。
)《敬礼しなかったこと》は 《国家と元首に対する非礼》ではなく ただ《教頭》その人とかれの良心に対する非礼である。――もしこの《教頭の新案》に従いたくない 従うべきではないと考えたのなら この《教頭》に申し出たがよかった。まず これであった。
)ここには 《〈キリスト教的良心〉の問題としては鋭く感じとられ》るべき要因は なにも 《無い》。――あるならば 立証責任は これを指摘する内田芳明のほうにある。


そこで 第二点に移ろう。

(2)このばあい 《敬礼》が《良心》の問題として鋭く自覚されたということは 内村鑑三の内面的側面から理解するかぎり〔――と始めて内田芳明は 上のわれわれの(に)の立証にとりかかっている――〕 彼が札幌(クラークのいた農学校)いらいキリスト教信仰を 一方で唯一神教として受容したこと 他方でピューリタン的独立自由の反権威主義エートスを身につけていたということと この二つの内的特質からして導き出された決断として理解されねばならないであろう。(――この第二点は さらにつづく――)
(内田芳明:前掲解説)

)《理解される》ことと 《教頭に非礼をはたらいてよい》こととは 別問題である。――教頭じしんの《内的特質から導き出された決断》についても これを《理解する》ことと それに対してどう《意志(愛)する》かということとは 別問題である。
逆に言うと われわれの()の論点 すなわち 《キリスト教的良心の問題としては鋭く感じとられ》るべき 教頭と内村とのあいだの対立的要因は ずっと以前から はじめから あった。言いかえると この初めからの対立にかんして ここで 以前とは別の対処の仕方が 問われるべきなのである。つづけて――

〔(2)のつづき〕すなわち 天皇主義的日本主義の全体的傾向と内村のキリスト教信仰とそのエートスとの矛盾は 鋭い対決の形をとっていつかは必ず現われざるを得なかったのであり それがこの不敬事件となって現実となったのである。〔――と内田芳明は 証明する。第二点は 以上。〕
(内田芳明:前掲解説)

)まだ ちっとも《現実となっ》てはいないのではないだろうか。逆に 《不敬事件》となって現われるか否かを問わず 《矛盾は 前々から 鋭い対決の形をとって》いたのであり 教頭がたといこれを意識していなかったとしても(それは ないであろうが たといそうだとしても) この不敬事件を契機として 内村は この《教頭との矛盾と対決》に ただ自分からけりをつけたがったのではないだろうか。(つけたったというより つけたった)。
かれは この時点で――ただ前々からのいきさつにおけるこの一時点で―― 《内心ためらいながらも》 教頭に対して《無関心》の態度をとってしまったのではないのか。(つうと同じように 《教頭よ きみたちの住んでいる世俗の世界のことばが 我れには わからない》と言ってのように)。キリスト史観者は――マルクス者とて同じであろう―― この態度をとることをゆるされない。《教頭の新案》は 《誘惑》でも《告訴》でも《責苦》でも ない。次の内田芳明の証言の第三点では 《挑発》であったと指摘されているが ここではまだ ちっとも《現実となっ》てはいないのではないだろうか。
あるいは むしろ逆の事態でもあるかも知れない。むしろ前々から現実であった対立が ここで 内村がこのようにして身を引くということによって 現実でなくなったのではなかろうか。(無関心の法則。関与不可能の世界にアマガケル場合)。
現実における教頭への非礼によって それまでの矛盾と対決の主体でなくなることのほうを えらんだのではないだろうか。もしこれでも 《矛盾と対決》とが現実であると言うなら それは 内村のあたまの中だけでそうであったのであり 《反権威主義エートス》にその限りで《忠実であったことの結果であ》るということは出来るが その《権威》なる《国家と元首》は 内村のあたまの中だけに存在しており またちっとも 現実となってはいない。教頭がもしこの《権威》をあらわしていたと言うなら その場で反抗すべきであった。敬礼しなかったことは 教頭なる権威への抵抗ではなく 教頭の新案(またかれの良心・表現の自由)に対する無視とそれまでのかれとの間の矛盾への無関心を――まとめて 卑近なかたちでの非礼を――あらわすものでしかない。
反抗・抵抗とは 矛盾と対立の関係の中にあって初めで おこなわれるべきものである。もし この事件のあとも 内村はこの反権威主義エートスを守りこれに忠実であったというなら このときには 《教頭》その人は 国家と元首なる権威を帯びた者ではなかったと内村が 見なしたことになる。内田芳明の証明しようとする内村のエートスの現実性は あたま(観念)の中にしかない。
(つづく→2007-02-12 - caguirofie070212)