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哲学いろいろ

#48

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Crique du Semeur

Située à mi-chemin entre Capernaüm et Tabgha, centres majeurs du ministère de Jésus, cette crique fut remarquée pour ses propriétés acoustiques.

Marc 4 décrit un moment où Jésus, en train d'enseigner une grande foule, fut poussé dans un bateau pour pouvoir continuer. Certains pensent que cette crique est l'emplacement idéal pour enseigner les foules.

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第二十七章a つづき(A者予備軍としての内村鑑三批判)

――アウグスティヌス いよいよ強くなる――


ヤシロロジの視点をいくらか捨象して 矢内原忠雄における共同主観をもう少し見ていこうと思います。それは ウェーバー流のヤシロロジの日本における系譜(内村鑑三大塚久雄・内田芳明)を見るためであり 矢内原は この同じ流れを汲みつつ インタスサノヲイストとして立ったと見られるように思われるからです。

詩や歌や《空飛ぶメディア》のようなもののほうが たしかに 五つの闇の洞窟におうじてさまざまに色彩を変える五つの元素といったものよりは有益です。

  • (註)

《かごめかごめ》の唄や《アマガケるつう(その戯曲作品)》のようなもののほうが 唯物論キリスト教民族主義や資本主義やそして社会主義やに応じてさまざまに色彩を変える《精神の想像した〈無限に大きなもの〉》といったものよりは有益です。

  • といった意味です。
  • 空飛ぶメディアの《メディア》とは 《コルキス王アイエデスの娘。魔法をよくする。イアソンを助けて金羊毛を得させ その子を二人もうけたが コリントスクレオンがかれを娘婿としようとしているのを知って怒り 王と王女を殺し 二人の子をも刺殺し 翼のついた戦車に乗ってのがれた》(山田晶)。このような物語(ここでは ギリシャ神話)のようなもののほうが 次のマニケイスムの教義よりは有益だという。

マニ教徒は闇の王国を 暗黒 煙 悪しき風 悪しき火 悪しき水という五つの洞窟に分ける。光りの王国からつかわされた《最初の人間》は 光り 空気 風 火 水の五つの善き元素で武装して 闇の王国と戦い 相手におうじてこの五元素をさまざまに変容させる。(アウグスティヌスマニ教ファウストゥスを駁す 2・3−4)
山田晶

  • 要するに 空気のような身体をもってアマガケリした地点から 対象に応じて それらの対象を自己の無限に大きなものなる精神世界に渡そうとする。そのように あらゆるものごとの《認識欲動》に満ちていて そのA語客観抽象理論で おおいをかける。

これらは 全然 根も葉もないものでありながら それを信ずる者を殺すからです。じっさい 詩や歌ならば これを真実の食物に変えることもできますし

  • 一作品としての《夕鶴》は かごめなるつうのアマアガリの道を 物語りの筋とは異なるかたちで用意した。

《空飛ぶメディア》の詩はいつも朗誦していましたが ほんとうのことだなどと夢にも考えたことがありませんし 人が朗誦するのを聞いても 信じていませんでした。ところがあのマニ教の作り話のほうは 何という阿呆なことか 私は信じたのです。
何という階段を踏みながら 私は一歩一歩 地獄の底へひきずりこまれていったことでしょう。しかも私は真理の欠乏のために労苦し 熱気にほてりながら あなたをさがし求めていたのです。もっとも私は それによって人間が動物にまさる者となることをあなたが欲したまうた精神の知力によってではなく 肉の感覚によって さがし求めていたのですが。しかしあなたは 私のもっとも内なるところよりもっと内にましまし 私のもっとも高きところよりもっと高きにいられました。
(告白3・6・11)

依然として マニケイスムの批判 すなわちA者予備軍の解放が 問題の焦点であります。
引用文の中の第一文の註と対照されるべき点は 後半の段落であり これが 《精神における神の内在と超越をあらわすことばとして有名》(山田晶)として 同じくアマテラス予備軍の精神主義的な学への内在的な吟味のために 取り上げられるべきでしょう。
かんたんに言って 《精神における神(本史)の内在と超越》とは 信仰(共同主観)の観想に属すことがらである。ウェーバー学は 言うまでもなく これに触れている。けれども わたしたちは 観想はなるほどこれを 《告白》として為してもよいが これを表現することは出来るが この観想(テオーリア→理論)と行為との或る種の理性的な結婚を尋究(三位一体論12・12・19)して進む(生活する)ことになっても この観想そのものを――第二次的に―― 理論化することは為さないのである。
いまわたしたちが行なっているように このような観想を つまり先人の観想( contemplatio )を 自己の方法の滞留において取り上げ 行為( actio )の指針とすることはありうるが 観想そのものにかんする理論を 学として 用意することはありえない。また 観想じたいに すでに行為が含まれていないとは見ない。なぜなら そのように観想を得ている信が存在する(不在なものの現在 外なるものの内在)なら この信なる動態そのものが――なぜなら信仰は あの直視の時には もはや存在しなくなるであろうその信そのものが―― 人間の行為であるから。
わたしたちは この信(その思念)はこれを見るが 信じたものは これをまだ――部分的にしか あるいは 予感によってしか――見ていない。(もし物質が 存在の根源なる存在であるという人びとは これを――そう知っているだけだと言い張ろうとも――信じているのであり この信じているもの自体は まだ見ていない。わたしたちは 質料じたいは見ているが またこの質料にかんする思惟や想像 これらも内的に見ることはできるが 形相なき第一質料である物質を見てはいないであろう。この唯物質論がいかに科学的・理論的であると言い張ろうとも その世界観は これを信じることから始まっている)。
ところが この信もしくはその観想を 価値自由に――ということは 信と観想の主体である自己からさらに一歩引いたところで――捉え理論しようという動きがある。これは 《精神(A者性)における神(本史)の内在と超越》を盾にとって 《神の超越》という《無限に大きなもの》の地点から――そこへはじめにアマガケリしたのである―― 《神の内在》を 理論的に明らかにしたいと かれらが 欲した事を意味する。
ところが わたしたちは 《精神および身体における 言いかえると 〈S者‐A者連関主体〉としての本性における 神(霊)の内在と超越》を ただ――第一次的に――観想するのみである。観想も そのものとして(《告白》のように)あらわすことは必要でないかも知れない。ただ――つまり 必要でないとして嫌ったのが マルクスであったと思うが―― そうなると・つまり表面上でもまったく無視してしまうとなると この《観想》が その第二次的な思惟=行為の形式たる《エートス》として 経済行為関係ないしその理論のほかに 両者を合わせて《二元》としてのように 存在するのだと説く学があらわれたことになる。
《精神(つまり 身体を伴なっての人間)における神の内在と超越》 これが 史観の核であり方法であり 人間的な論法で言うところの《やしろ資本(その愛・その推進力)》であると見なければなるまい。この推進力の内在と超越 つまり個々の人間のそれぞれの主体性と そしてそれを超えた自然史過程のことであると見なければなるまい。また 後者の中に 超越する神が内在しないとは言われて来なかった。後者つまり《やしろ資本》の形成過程に《エートスと経済的な利害関係》とが存在すると 分析していようといまいと 変わりはない。
エートスと利害関係とが むしろ《社会事情》なのであり この《外的な条件たる社会事情は 変遷する〔が イエスの人格あるいは共同主観者の歴史的な系譜は 変わらない〕》(矢内原忠雄マルクス主義キリスト教)と言われているかたちである。
理論表現としての《資本〔論〕》は 必要だし 一般に 唯物史観することは 人間の資本形成行為の一環であるが これを 唯物史観と言うのは その理論の性格を言っており 社会主義というのは 生産の方法・やしろシステムにかんして言っており ところが コミュニスム(共同主観)というのは 主体の運動過程についての視点を言っており インタスサノヲイスムというのは――それのプロレタリア概念との関係をむしろ明確にして来ていないのだが―― 主体・存在そのものについて言っており さらに マルクシスムというときには マルクスを共同主観者のヤシロロジストとして先駆的な一人と捉えて これを名づけており キリスト史観(キリスト者)というときには さらにヤシロロジ以前のインタスサノヲイスムの面から捉えた名称であり かつ キリスト・イエスは 共同主観者の一人であるとともに 霊的な共同主観(愛)(その存在)それ自体であったと わたしたちは見ている。
たとえば

ところが神なるあの生命は すべてを知覚し知解する。神は精神によって知覚するのであって 身体によってではない。神は霊である(ヨハネ4:24)。しかし神は身体を持つ生物体のように身体によって知覚するのでもない。神は魂と身体から成り立つのではないから。このゆえに この単一な本性は知解(理論)するように知覚し 知覚するように知解するのである。この本性にとっては感覚と知解とは同一である。
アウグスティヌス:三位一体論15・5・7)

および

それゆえ 私有財産止揚〔というやしろ資本の歴史的な形成・再形成〕は すべての人間的な感覚や特性の完全な解放である。
しかし私有財産止揚がこうした解放であるのは これらの感覚や特性が主体的にも客体的にも人間的になっているという まさにそのことによってなのである。・・・だから諸感覚は それらの実践において直接に理論家となっている。


現今では 普遍的意識は現実的生活からの一つの抽象(アマテラス語)であり そのようなものとして現実的生活に敵対的に対抗しているが 他方 私の普遍的意識は 実在的な共同体(S圏) 社会的存在(やしろ)を自分の生きた形姿としているものの理論的な形姿であるにすぎない。だから 私の普遍的意識(観想)の活動もまた――そのようなものとして――社会的存在(やしろ人)としての私の理論的な現存なのである。
マルクス:経済学・哲学草稿3・2)

ここでわたしたちは このマルクシスム キリスト史観 コミュニスム インタスサノヲイスム ヤシロイスム インタムライスム=インタイエキャピタリスム(その方法)に対して あの《無限に大きな精神の想像物》をもって むしろ上記の視点をおおいつつ阻もうとする動きに 警戒しなければならない。
(つづく→2007-02-10 - caguirofie070210)