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哲学いろいろ

#46

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

La Synagogue à Capernaüm

Jésus fut confronté face à un démoniaque alors qu'il enseignait ici (Marc 1:21-27).

A Capernaüm. Jésus guérit le serviteur du centurion. Ce chef romain fut mentionné pour avoir construit la synagogue (Luc 7:3).

Dans cette synagogue, Jésus donna le message du pain de vie (Jean 6:35-59).

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第二十六章a インタスサノヲイストとしての矢内原忠雄のばあい

――アウグスティヌス ますます強くなる――


わたしたちは アウグスティヌスの生涯と思想をいわば低音部として その高音部に かれの思想と生涯をインタスサノヲイスムと捉えて示そうとしつつ これの現代的課題を追究するという一つのエンタテインメントをめざした。
前章では かれからの引用をすることができなかったが そのサブタイトルの意味合いでは 前々章のテーマを引き継いだかと考える。
数章まえから引用している《告白》からの同じ箇所をさらに引いて まず いまのテーマを確認しておこう。

・・・それら(物体)をお造りになったのはあなたですが(――もちろん 自然発生をそのように想定したと言っても 特に問題はない:引用者――) あなたはそれらを お造りになった最上のもののうちに数えてはいられません。

  • 自然発生説ないし唯物論に立つなら 物質の運動あるいは質料ないし商品連関の展開過程に対して 人間という歴史主体が存在するのだと同じことを言うところであろう。

ですから あなたは 私のつくったあの幻影 絶対に存在しない物体の幻影から何と遠くへだたっていることでしょう。これらのものにくらべるならば 存在する諸物体の表象のほうがずっと確実な実在性を有していますが しかしそれらの物体も あなたご自身ではないのです。
(告白3・6・10)

《しかしあなたは 魂でもありません》とつづく箇所であり おそらくこの《魂》ないし精神が 《絶対に存在しない物体の幻影》を ただしく・あるいは間違って つくるのであるだろう。そして それだけなら すなわち 一時的な第一次的なこの幻想なのなら それは或る種の仕方で 不可避であり(質料の 観念・ことばへの翻訳の可謬性) それらは たいした危険ではない。問題は 《ただ物体のみ》といったあやまった唯物論(色と金との世界)に対して これをいとい嘆くあまり 熱心な精神の美の追求によって 真理をこの《魂》の中に問い求め見出したと説くいわゆるスーパースサノヲイスムのやり方であった。



もっとも 内村鑑三の流れを組む一人である矢内原忠雄が 次のように言うとき それは このスーパースサノヲイスムとして言っているのではなく インタスサノヲイスムのただしく方法の滞留であると思う。ごく素朴なかたちの議論として。――

生産の方法として資本主義がよいか社会主義がよいかは 経済学(つまり煮詰めた議論としては 一般的な理論とそしてその実践――引用者)の問題でありまして 基督教(方法)の問題ではありません。事業を経営する方式として 私企業が適切であるか 社会的管理が適切であるか そんなことは基督教が基督教として言ふべきものでもなく 又言へるものでもありません。
矢内原忠雄内村鑑三堺枯川――《キリスト者の信仰〈3〉マルクス主義とキリスト教 (1982年)》)

この《基督教》は わたしたちの言うキリスト史観であり それは これまで見てきたとおり 質料主義に立つ。この質料主義を 歴史・社会的に理論化したのが 一つに・あるいは一般に 唯物史観唯物史観の中でも その政治経済学として 《生産の方法には キャピタリスムがよいかソシアリスムがよいか》は 議論の分かれるところである。あるいは 一般的にも キリスト史観もヤシロイスムに立つと言うなら この二者択一についてはおおきくは ソシアリスムというキャピタルの形成方式が採られるべきと考えるとするなら けれどもそのときにも 《どんなソシアリスムがよいか》は 議論の分かれるところである。インタスサノヲイスムのヤシロロジとしての方法は これに直接触れないというか また おのおのインタスサノヲイストがヤシロロジストとして 相互に意見の対立を容れつつ 直接に・ただし各時代と社会とに応じて 触れるかする。(インタスサノヲイストのあいだに ヤシロロジの理論や政策にかんして とうぜん 見解の相違がある)。上のごとく単純に議論している文章は この方法の問題(その滞留)を言い始めていると思われる。
このことを踏まえるとすると 同じく問題は一方で この・対象に即しては唯物史観 主体に即してはインタスサノヲイスムが 表現と理論の自由とともに その方法において滞留するものであると思われることが 確認事項として一点。もう一方では この滞留を――すなわち そのときには 相い対立する議論をたたかわせながら むろん 実践がなされているのであるから そのときそのような中での滞留を―― あたかも質料関係を問題とするのは 次元が低いと言ってのように 精神主義的な人間の徳であるとか美であるとかの議論(または学)へすりかえ 停滞してしまうやり方がある これがもう一点であった。
わたしは 内村鑑三キリスト教的な論議は この後者の問題点をはらむと見る。そして ウェーバーあるいは大塚久雄や内田芳明の学にも 同じ問題点が存するとすでに言った。ここでは 内村と大塚とのあいだの世代である矢内原忠雄のばあいを見てみたいと考える。結論はすでに提示しました。
まず ひとまとまりの文章を掲げます。時代の相違を捨象して ここに 方法の滞留を見てもよい。

マルクス主義は キリスト教を成立せしめたのはイエスの人格ではなくして当時の社会事情であったといふ(エンゲルス カウツキーなど)。吾人はこれに対していふ 社会事情はキリスト教成立の外的条件に過ぎない。条件があっても原因がなければ事実は発生しない。環境があっても 生命(主体・主観)がなければ発展は生じないのである。
エスは同時代の多数者に認められなかった。しかしその事態をもって彼の人格を無視する証明となすことはできない。いな 真実なる人格は最も同時代の社会より認められざるものである。何よりも明白なるはわれらがイエスに救はれた事実である。われらはイエスに救はれて知ってゐる 彼が類いなき人格であり キリスト教の根本は彼の人格にあることを。
社会事情は変遷する。しかし変わらざるはイエスの人格である。イエスとの またイエスを通じて神との 人格的交渉なきところにキリスト者はないのである。博学なるエンゲルス カウツキーの徒といへども こと一たび霊の問題におよべばその無知偏狭独断を暴露すること かくまで甚だしきものなるか。誠に神はこの世の智者をして愚かならしむである。
キリスト者の信仰〈3〉マルクス主義とキリスト教 (1982年)〈本論13〉1932)

これを次のように 註解しつつ読むことが さしあたっての課題である。
《マルクシスムは キリスト教を成立せしめたのは人格ではなくして 当時の社会事情であったと言う》が この観点からすれば 《マルクシスムを成立せしめたのは マルクスの人格(共同主観)ではなくして あるいはその理論でも必ずしもなくして 当時の社会事情であった》と言える。問題は 《イスム》や《教》にあるのではなく パウロアウグスティヌスそしてマルクスの それぞれ個体の方法にあるであろう。唯物論というときには その対象に即して言っているのであるから 唯物論者とて この対象を捉え対処する主体の問題を抜きにして かれらはその理論を語れまい。
それでも語れるとしたら それは 社会事情もしくは権力への奴隷 の自由であろう。いいか悪いかは別として プロレタリアによる政治革命は 奴隷の叛乱だということになる。言っておくが 前史としては このような社会事情のみの共同主観が 存在しないとはわたしたちは見ていない。
また キリスト史観あるいは少なくともアウグスティヌスが 質料主義ないし唯物論に立つということは――より正確に言ってそれらが 主義や唯‐論ではないのだが 仮りにそうとしても―― すでに見てきたとおり そうである。問題は 主体として・方法として その共同主観の歴史的系譜ということにある。
けれども 《イエスの人格》が――その内なる人の秘蹟と外なる人の模範が―― パウロをして走らせ アウグスティヌスをして方法の滞留をおこなわせ またマルクスをして 滞留をきらってのように ヤシロロジの樹立へと向かわせた。ここで触れた限りでは ヒルファーディングもこれを受け継いだ。(方法として 基本的に その系譜だと見た)。そうして かれらすべて それぞれ《当時の社会事情》に沿ってそう行なったにほかならない。
キリスト《教》を成立せしめ マルクス《イスム》を成立せしめたのは 今度は逆に 社会事情がではなく 人間事情がであるだろう。(むろん 社会事情が関与していないということではない)。
そうして さらに ウェーバーのヤシロロジを成立せしめたのが この人間事情であったと言うなら 不遜になるであろうか。かれは これら《共同主観者の国の歴史的進展の 遅滞》をあせって嘆き その精神を道徳的にそして価値自由の学において 高揚させたのである。内村鑑三 しかり 大塚さん内田さん しかりしかりであると考える。
後者の人びとは 二元論(その思想的形態を 歴史的に変遷させたが)に立たざるを得なかった。すなわち 《主体の諸動機・エートス》と《社会事情・利害情況》とである。イスムとしてのマルクシスムは 後者にかたむき 宗教としてのキリスト教は前者にかたむいたからである。
しかし 

吾人はこれに対して言う 

社会事情はキリスト教(キリスト史観)成立の外的条件に過ぎない。条件があっても 原因(第一原因――神と言わずとも 《歴史のかまど》であるS圏やしろ資本形成とその愛――)がなければ事実は発生しない。(この主体的な愛の行為主体は 社会事情そのものではないだろう)。環境があっても生命(愛)がなければ発展は生じないのである。

(つづく→2007-02-08 - caguirofie070208)