caguirofie

哲学いろいろ

#42

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Nahal Arnon

The Arnon is a two-mile-wide valley that divides the land between the Israelite tribes to the north and the land of Moab to the south (Num 21:13; Deut 3:16).

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第二十四章a インタスサノヲイストは井戸端会議を普遍化・理論化して唯物史観する

――アウグスティヌス 《強くなる》――


《告白》第三巻第六章第十節は つづいて語ります。

しかし 私の愛よ 私は強くなるためにあなたに向かい 力つきはてるのですが 〔あなたは 何であれ天に見られるような物体ではありません。そこに見られない物体でもありません。・・・〕
(告白3・6・10)

括弧を付したところは インタスサノヲイスムが 史的唯物論に還元されるのではないことを物語るはずです。言いかえると インタスサノヲイスムは 《質料主義(人間にあっては身体の運動のみ主義)――つまり マテリアリスム――》に立つが 主体的なキリスト史観である。主観を言う。唯物史観は その理論また対象に即した理論である。
《わたし》と言って了解する自己と このわたしが身体を持った存在でありその要素は質料である〔と認識する〕こととは ちがうと考える。そのまま 後者の質料主義・唯物論が 史観の根底であるということにはならない。(身体は 《わたし》の基体であり 質料は 身体の構成要素である。)《わたし》=自己が 質料=身体の運動を捉えるのであり この認識し行動するわたしと 身体・質料とは ただちに同じであると言わない。それらは わたしのもとにある。また《わたし》と その質料主義なる認識あるいは唯物史観とは ちがう。それらの理論ないし観点とも ちがう。《わたし》は 唯物史観そのものではあるまい。
ただ唯物史観の《観点》というとき それは《わたし》に近い。しかし 観点は 《わたし》という動態(生)の過程的一時点の産物であり むろんそれは わたしの記憶にしまい込まれているが この《記憶》という行為野と行為能力が いわば《わたし》の素形(自然本性)である。史観の観点は この行為野で記憶行為されたものが知解行為されて 思惟され表現されるが またそれは 知解行為されたそのまま 自動的に表現(外化)されるのではなく 全記憶と知解事項とをつなぐわたしの意志行為(愛)のもとにおこなわれる。《わたし》の素形は 《記憶‐知解‐意志》の三行為能力の一体性なる像(すがた)である。
この三一性( trinitas )なる人間の自然本性の像は・つまりわたしは 《子の父‐父の子‐父と子とのまじわり》なる三位一体の似像であり この三位一体なる一つのカミによって 生き動き存在する。現代的に このカミは やしろ資本(愛)推進力――それは 霊としか呼べない・つまり生命でもよいだろうが 霊である――と捉えられる。
わたしが 身体を動かし 質料を加工し 衣食住など生活をいとなむ。身体が わたしを動かし 質料が(質料の加工品たる生産物あるいは商品が) そして この商品の集積連関が さらにあるいは はては 質料・商品などについての想像また想像物つまりその観念・しばしば幻影が 都合これらが それぞれ わたしを動かすことがあるが わたしは そのように〔動かされていたと〕認識するわたしである。質料や商品が おれはいま動かされている いやおれが人間を動かしているのだと 知覚することはあるまい。ましてそう錯覚するなどということは ない。〔これは 商品連関が一つのやしろシステムとなって支配的な行動様式をきづいている必然の王国の中にあっても 認識として誰でも 完全にそう把握する現実でありうる。〕
このわたしと言って了解する自己と 質料そのものとは ちがう。けれども たしかに
わたしたちは 質料として見るそれら物体のほうが 確実であり その他の観念は むなしい幻影だと知る。(いわゆる人間のこころを大切にしたいと考える人びとも このこころという人間の記憶・知解・意志の行為の場は その存在を疑い得ないものとしても このこころが表象している観念は ほとんど幻影だと知る。なぜなら 観念どおりの現実を手に入れたとき いわばそのよろこびは すでに去ってしまっている。要するに持続的ではない。だから逆に こころという場は 持続的だと言うことができる。しかし こころがまえであるとか 理論的な思惟であるとかは そのこころという場がそうであるほどには 持続的ではない。
また 理論的な思惟にしても 心構えにしても 持続的でなく可変的だったら それを絶えず再生産・自己変革していれば 本質的に 持続的となるというものでもない。
持続的なよろこびとは 人間の自己(自然本性)への到来 自己還帰が まずそれである。けれども これとて むなしくされたりするのであり 可変的である。これに対しては その自然本性への還帰が そのような動態として 過程的に永続するというだけでも 不十分である。この持続的な《わたし》でさえ その《力が尽き果てる》と考えられた。
また 質料つまりモノや 身体の運動が 幻想をもたらさない もたらすことがあってはならないというふうには われわれは 語らない。ごく単純に 第一次的にそして一般に 一時的に 幻想が 不可避であることもわたしたちは 知っている。
質料の世界にあってわたしたちは 言葉つまり観念を用いて 意思疎通しあっており 生活する。(ことば・観念の表象・発語行為が 身体の運動でないとは言えない)。けれども この観念の産物が それに わたしたちが仕えるべき真実 道徳的な力などと考えるのではない。また逆に――この観念の産物は―― わたしたちが仕えるその対象ではないところの ただ人間の真実 ただ道徳的な力 エートス 精神の知力(またその所産)であると考えている。しかし 観念(ことに一般的には――社会的公的生活では――A語普遍概念)を用いて 真実を伝え合うのである。
この議論は まだ委曲をつくさないが ここで打ち切る。
引用文の前半に注目したい。


質料の世界(必然の王国)にあって 身体という質料体(運動体)を動かし 生活するとき――そしてそれは 精神がではなく また 精神においてでもなく 精神をとおして《わたし》=自己が である このとき―― このインタスサノヲイスムは 《強くなるために あなたに向かって 力つきはてるのです》。《わたし》が 力つきはてるのです。
スサノヲ者が死ぬのです。わたしであってわたしでないわたしが インタスサノヲイストとして 立つ。ここでわたしが向かった《あなた》は 《私の愛》なのですから この愛によって わたしは焼き尽くされ かつ 静かに燃え立たしめられる。
これが スサノヲ者でないスサノヲであり それとしてのインタスサノヲイストであり そのときには やしろ資本(愛)の形成者として確かにヤシロロジストとして 立っていることでしょう。かれは 自己のアマテラス化 すなわちほかならぬアマアガリをおこなったのです。《栄光から栄光へ》変えられた。《ヤシロロジにおけるインタスサノヲイスム》とは このことであると考えます。理論体系がではなく この主体がであると。むろんこのとき 観念的に推測したあの《ありもしない無限に大きなもの》は 《むなしい幻影》だと理解されるというわけです。
《当時の私が食べさせられ じつは食べさせられていなかった》(告白3・6・10)あの《つう》のイメージ これの 実際には どこに 美があり 人間が仕えるべき真実の愛があるというのでしょう。まだ これよりは あの《おかねや質料・商品の関係に必然性に就き動かされていた惣どや運ずの王国》のほうが 確実な世界です。これを あせって嘆き 自分の身体を空気のようなものとし 偽って自己の力に従いアマアガリし そうして 与ひょうの世界(その秘密)でもって 自己の実はアマガケリの世界を 観念的に味付けし またこれら質料世界とは《別の絶対に存在しない無限に大きなものを推測》(告白3・6・10)して 《神の御名の音節をこね合わせて作ったとりもち》( ibid. )で 権威づけるとともに そのような推測と知識をもっているのだぞと――そして それは 膨大な百科事典にまでなり得る―― 甘えかつ脅し 自己の世界の誤謬へ渡そうとする。
この学問たとえば部分的に国民経済学という政治経済学 への批判をあらわすことへ進んでいったマルクスは その方法において ただしく その方法の滞留においてこれを欠き アマテラス語理論のわなに対抗することをもって 勝利を保留した。また マルクシスムは マルクスの理論内容としての質料主義じたいを 史観とし生活のすべて・わたしのすべてとしたときには 同じく 後者つまり 観念共同をめざすA語理論に対抗する理論闘争主義へすすんだ。
わたしはここでは 我田引水します。《或る立ち場を強い》ます。わたしたちは むろん 《弱い時にこそ強い》(コリント後書12:10)のですが 《強くなるために かのお方(本史)に向かい わたし(自然本性としてのスサノヲ者)の力が尽き果てる》とき 勝利が成就すると。はじめの譲歩の転換が 成就すると。けれども これは 愛の勝利であるにほかなりません。理論は そのために必要ですが 不可欠ではありません。また 井戸端会議という意味で理論しない人など いない。信仰と言っても その過程を 理性的に知解していないのではない。信じていた神は見ないが その信(その念)は自己のもとにこれを見ており ここから自己に応じた理論形成をしていないのではない。そうして 同じく 理論は 普遍性をもって 一般には 表現・形成されてゆく。そうして愛の勝利は この世にあっては なお過程的であり あらたな滞留を持って さらに進んでゆく。日から日へ わたしたちは変えられてゆく(三位一体論14・17・23)。この立ち場を わたしたちは ことばの表現において 人に強いるわけです。
(つづく→2007-02-04 - caguirofie070204)