caguirofie

哲学いろいろ

#36

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

六道輪廻図

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第二十一章a ヤシロロジにおけるアマテラス予備軍批判

――マニ教徒たちの罠にいかにして捕らえられたか――


わたしたちは ここで もう一度 ウェーバー批判を繰り返さなければならないかも知れない。それには きわめて幼稚にならなければならない。

キケロの書によって 知恵の愛に燃えあがり しかも キリストの御名がそこに見あたらないことにもの足りなく感じていたが〕 このようにして私は 傲慢で気の狂った人間たち きわめて肉的でおしゃべりな人間たちの中に落ちこんでしまいました。かれらの口には悪魔の罠がひそんでいました。すなわちあなたの御名と 主イエス・キリストの御名と われらの弁護者でなぐさめ主なる聖霊の御名との音節をこね合わせてつくったとりもちが ふくまれていました。これらの御名をかれらはたえず口にしていましたが それはただ口先の音とひびきだけのことで 心はといえば まったく真実を欠いた空虚なものでした。
(告白3・6・10)

《かれらは 〈真理 真理〉といって それについてたくさんのことを聞かせてくれましたが 真理はかれらのうちどこを探してもなく ほんとうは真理そのものにましますあなたについて虚偽を語ったばかりでなく あなたの被造物たるこの世の諸元素についても でたらめを言っていました。こういうものについて真実を語っている哲学者たちすらを 私は あなたへの愛のために超えてゆかねばならなかったのに。わが父よ もっとも善き者よ。すべての美しきものの根源なる 美そのものよ》(告白 承前)。
この告白をもって わたしたちは ウェーバーへの批判を もう一度ながめておきたい。なぜなら このように きわめて幼稚なかたちで 自己の価値観をも述べることが 《学》のはじめであるとわたしたちは思うからであり これはとりもなおさず ウェーバーの学(その方法)と真っ向から対立するはすですから。
ウェーバーは 晩年 学生たちへの講演として《職業としての学問》と題する方法論・学問論を発表しています。これは 小さな本で一般にもよく読まれているであろうから ここに示された見解をとりあげて 議論することにしましょう。
たとえば 《いったい学問は実践的また人格的なる生活に対していかなる積極的寄与をなすか》にかんして それは 《明晰ということに 諸君をみちびくことである》とかれは 論じてゆく。このような《考えは 人生が その真相において理解される限り かの神々の永遠の争いのみより成るという根本の事実に基づいている》とみづから総括するその考えは 次のごとくである。
この《総括》が 実は 《人生が 〈神々の永遠の争い(人間の欲望と欲望との葛藤・争い)のみより成る〉という〈夜〉の世界つまり それとしての前史と そして そのように〈明晰〉に分析して把握する価値自由的な態度を採る〈学問〉の世界つまりいわば〈昼〉とから 成り立っている》という二元論を表わしているのですが だから言いかえると そのように説くかれの方法は 《本史=真理》に立っていると言わんばかりなのですが この考えの内容 それは長いけれども ひとまとまりの見解を示していると思われるその全体をまず掲げて 議論しなければならないでしょう。

勿論この場合 我々はこの明晰さをもっていると仮定している。そしてそうである限り 我々は諸君にこういうことをはっきりさせて上げることができる。まず ひとがいつも問題にするのは物事の価値如何の問題であるが ――断わっておくがここでは事柄を簡単にするために社会現象を例にとって考えて頂きたい――例えば諸君がこうした問題について 実際にこれこれの立ち場を取ったとする。ところで 若(も)し諸君がこれこれの立ち場を取ったならば 諸君はその立ち場を実際上貫徹するために学問上の経験からこれこれの手段を用いねばならない。ところが その手段がまさに諸君の避けねばならぬと思うものであるかも知れない。そうした場合 諸君は目的とそのための不可避的手段との間の選択を行なわなければならない。目的がこの手段を《神聖にする》か或いはしないか。
教師は恰(あたか)もこの選択の必然性を諸君に教えることができる。が 彼がどこまでも教師であって煽動家になるつもりがない以上 それ以上のことを教えることはできない。また勿論彼は諸君に 若し諸君がこれこれの目的を達しようとするならば その場合には通例これこれの随伴的現象が伴なって来るということを説明することができる。が この点についてもやはり前と同じことが言えるのである。
然るに 他方これらすべてはまた技術家にとっても起こりうる問題である。事実 技術家も亦(また)数多くの場合について 損失を比較的少なくし効果を比較的大にするという原則に従って手段の如何を決定しなければならない。ただ技術家の場合肝心なことはいつも目的が与えられているということである。然るに恰もこのことは 真に《究極的》な問題を取り扱おうとする限り 我々教師の場合には起こらない。ここにおいてか我々は 明晰ということのために為しうる学問の最後の仕事に当面する。そして同時にこれがまた学問の為しうることの限界ともなるのである。
即ち これこれの実際上の立ち場はこれこれの究極の世界観上の根本態度――それは唯一のものでも また種々の態度でもありうる――から内的整合を以って 従ってまた自己欺瞞なしに その本来の意味を辿って導き出されるのであって 決して他のこれこれの根本態度からは導き出されないということ これを我々は諸君に言明しうるし また言明しなくてはならない。

  • この一文が 最大の問題であろう。――引用者。

このことは比喩的に言えばこうである。汝らがこの立ち場を取るべく決心するとき 汝らはこの神に仕え 他の神には侮辱を与えることになる。

  • すなわち みづからは《本史=真理》に立ちつつ 前史たる《神々の争い》の世界を このように捉えるというのである。以下 註解はなさないが この基調がはっきりと読み取れる。――引用者。

なんとなれば 汝らが自己に忠実なる限り 必然に汝らは意味上これこれの究極の内的整合に到達しなければならないからである。――学問にとってこのことは少なくとも原理上為し得られる。哲学上の各分科や 個別学科のなかでも本質上哲学的な諸々の原理的研究は 皆この仕事を目指している。そして我々も亦 我々の任務を弁(わきま)えている限り ――そしてこのことはここでは当然の前提である――各人に夫々(それぞれ)自己の行為の究極の意味についてみづから責任を負うことを強いることができるようにしてやることができる。
私としてはこのことは各人の純粋に人格的な生活にとってもそう小さな事柄であるとは思えない。そして 若し或る教師にそれができたならば 彼は《道徳的》な力に仕えているのである。つまり明晰及び責任感を与えるという義務を果たしているのである と。惟(おも)うに 若し或る教師がその聴き手に向って或る立ち場を強いるとかまた暗示するとかをしないという意味でより良心的であるならば 彼はまたそれだけ容易にこの仕事を果たすことができるであろう。
(1919)

職業としての学問 (岩波文庫)

職業としての学問 (岩波文庫)

以上に わたしたちは 《高慢――自己の心を楽しませること――》を見ないであろうか。ウェーバーは ここで マルクスを批判しているようである。しかも マルクスを 一部のマルクシストと混同させて。ウェーバーは ここで明晰な本史もしくは神の立ち場に立って 神に仕え神を説き明かしているようである。しかも その神を自己の明晰なまた道徳的な精神と混同させて。
はたして 《或る教師がその聴き手に向かって 或る立ち場を強いる》ことが ありうるであろうか。また それを聴く人びとは 強いられるというのであろうか。また仮りに 何かの間違いのうちに強いられるか あるいは 真実と思っていなくとも 或る種の仕方で 従わざるを得ないかするとき この誤謬が やがて明らかにならないことが ありうるであろうか。けれども ウェーバー本人が ここで 《或る立ち場を 暗示する》ことを怠っているのであろうか。《より良心的であるならば》 話し手は 自己の一つの立ち場を 自由に 明示するであろう。価値観からの自由は 価値観への自由を 必然的に伴なって いや 両者は そもそも同じ一つの共同主観的な大前提であるはずだ。
《かの神々の永遠の争い》を 《人生の真相》においては 価値観への自由が もたらしているのだ。真実の唯一の神へと向き変えられたわたしたちは この必然の王国の争いを 前史と見るように促され その認識の力を得ることができたが これを措くとしても かの《〈道徳的な〉力に仕える》ことによって この価値観への自由から来る《永遠》の神々の争いから自由になる(《没価値性》)という学は はたして《明晰および責任感を与えるという義務を果たしている》と言えるであろうか。そもそもそんな《義務》があるのだろうか。
《明晰および責任感》は むしろ たとえ前史的にしろ 《価値観への自由から 没価値という意味での価値観からの自由へ 移らない》ことによって つまり言いかえると 《価値自由的な認識へとそのように移っても 同時に価値観への自由〔という共同主観〕にただちに還っている》ことによって――さらにつまり 自己の一つの立ち場を ともあれ《良心的であるならば》互いにきちんと明示していることによって―― 獲得されてくるものなのではないか。
もちろん 《ウェーバー流の教師》は このような共同主観の前提について おしえ ともに学ぶことが 一つの任務であるということはできる。けれども これを  《明晰および責任感を与えるという義務を果たす》ことだと取り違えるならば この共同主観の前提の領域と問題が 《人生の真相》だということになりはしまいか。実際 そうなのであり そのことが ウェーバーにとってはかれが《本史=真理》に立つことなのだ。この《道徳》の中に 《キリストの御名》が存在すると言っているようである。
逆に言うと 《道徳的な力に仕える》ようになるなら その意味での唯一の神つまり真理の立ち場に立って さまざまな神々の(必然の王国における人間の欲望の多様性の)永遠の争いを 明晰に認識しこれを分析することができると言っているのである。ところが わたしたちは この必然の王国を 前史と見る地点へと導かれたのだ。

  • そもそも ブッダのおしえは 六道輪廻の繰り返しを断ち切るという光りの問題であった。前史から後史へ この意味でブッダも実際には言っているのだが そのおしえの受容の歴史は めちゃくちゃである。輪廻転生と言って 生まれ変わることが人の願いだということになってしまっている。《地上の神々の永遠の争い》=六道輪廻でよいと 学者が言っているのである。もう一度言おう。めちゃくちゃでござりまする。 

地上の神々の永遠の争いは ともあれ 一人ひとりの価値観(その意味での神)への自由に立って言わばもたらされるものなのであるから この価値自由から 本史=真理(ほんとうの神 なんなら 無神でも空でもよい)が望み見られ この本史に固着して生きるなら その同じ価値自由が 前史から後史へ移行すると経験したのだ。
明晰および責任感は その過程に付随してくるものなのであり それは そのものをA語客観真実において 人に与えるという義務・任務からもたらされるのではなくして 少なくともただそのような共同主観(常識)過程の前提を 生徒とともに議論することによって 明らかにされかつ実践されるものである。
わたしたちは ただ共に真理を問い求めるのであり 他方かれらは この真理を すでに自分たちがアマガケリしてつかんだと言ってのように その立ち場から 人びとに蔽い被せようとする。この道徳的な力によるアマガケリに 一方で それを権威づける必要を感じてのように 権威を付与するためには 学問というものを 二元論の中の《昼=明晰》の雄だとして築きあげようとするし そのことをいわば人びとに宣伝していなければならず(また かれらは そのために研究にはげむようである) 他方で  真理性を付与するためには(なぜなら かれらは真理に到達したと暗に考えつつ しかもまた そう言っていながらも 実際には神でないものを神としたのであるから これが神だと説得しつづけなければならない) この道徳的な力は 寛容であり したがって その認識においては つねに 価値自由的であるのだよと 叫んでいなければならない。明晰の体系を築き持つことが 真理をつかんだということの証拠のようなものとなっている。明晰の体系が そうして アマテラス語しんきろうの蔽いとなって それ自らを――キリストの御名の音節をもこね合わせて作りつつ―― 人びとにかぶせようとするのである。
つまり 《つう(その美意識)》のおおいである。これは アマテラス為政者に対して その二番手の位置に自己をつけつつ その予備軍たろうとする自己の保身という理由からもたらされる方法でもある。(みづから そう名のっているわけではない)。そこでは そのどこにも キリストの御名=やしろ資本推進力は 見当たらないというしろものなのである。
このような《マニ教徒たちに われわれは いかにして 捉えられるのか》。
(つづく→2007-01-29 - caguirofie070129)