caguirofie

哲学いろいろ

#34

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第二十章a 前章への補論

――アウグスティヌス 《知恵の愛》ではなく 《愛》を語る――


《夕鶴つう》を アマガケリするA者予備軍だと――あるいは つうのアマガケリを真のアマアガリだと考え説く人びとを そうだと――するのは 不当ではないか。少なくとも 少々ゆきすぎではないのか という非難の声を聞いています。精神の徳を愛したつうを非難するのは 不遜ではないのか。道徳堅固で犠牲にまでなったつうを貶めるのは 不道徳ではないのか。
わたしは そう思わない。この点について さらにもう一章をあてておきたい。
わたしたちは まずはっきりしていることとして A者予備軍の社会的な解放の過程において その一例に《夕鶴》を取り上げ これを批判する作業に いまの課題を問い求めた。しかし――はっきりしていることは―― わたしたちは《つう》または《つう支持派》を 《論駁》したとは思っていない。はっきりしていることは この作業において A者予備軍の解放の過程を わたしたち自身が――つまり 《つう支持派》がではなく わたしたち自身が――たどるということ。わたしたちが 内的にこのつうのやり口を 棄てるということ。これでしかない。もともと 関与不可能だと見出していた。他山の石。
《棄てる》のだから やはり《論駁》しているではないか。そうである。しかし 同時に ほんとうのところは これは 理論闘争ではない。――冷静な読者には この一章は いささか食傷気味に映るかも知れない。がもう少し言おう。すなわち 《夕鶴》が われわれの前史でなくて 何であろう。このほかならぬ前史に その過去の復活を見ずして 後史である・A者予備軍の解放が のぞまれるであろうか。この考えで われわれは 《論駁》したとは思っていない。いささかも思っていないのである。
われわれは 《嘲ってあげればよい》と結論したのである。ただしい理論をおしえてあげよとは 言っていない。――むろん そのときやはり 《論駁》したことになるであろうと結果的な認識を拒むわけにはいかない。



つうは 真実とその徳を愛した。与ひょうのために この世を去って行ってしまうまでにこれを愛した。われわれは この真実の愛が 《前史》だと言ったのだ。けれども ここで アウグスティヌス自身 われわれインタスサノヲイストに この《真実の愛》を・そして《隣人のために死ぬことが備えられる愛》を――われわれのこれまでの主張と矛盾するかに見えるごとく―― 勧めているようである。

このゆえに 三位一体について また神を知ることについて 私たちに課せられているこの問題で先ず考察しなければならないことは実に真の愛とは何か いなむしろ愛とは何か ということである。
けだし 真実なものこそ愛(→資本形成)と言われなければならない。そうでないなら それは欲望である。愛する人が誤って欲求すると言われているように 欲望を持つ人は誤って愛すると言われる。真実の愛とは 私たちが真理に固着して正しく生きることである。それゆえ 私たちがその愛によってかれらが正しく生きることを欲するあの人間への愛のため すべての可死的なものを軽視しよう。かくて私たちは主イエス・キリストがご自身の模範によって私たちに教えられたように 兄弟の益となるために死ぬことが備えられ得るのである。
(三位一体論8・7・10)

たしかに はっきりと言っている。これにもかかわらず わたしたちは つうの愛を摂らない。もしくは用いつつ棄てる。棄てつつ 用いる。(つまり アウフヘーベンする)。なぜなら この上の引用文の直前に アウグスティヌスは こう書いた。

だから 人間を愛する人はかれらが義人(自由人=後史人)であるゆえにか あるいは義人(神の国の市民)であり得るためにか 愛すべきである。
かくて かれは義人であるゆえか 義人であり得るために 自分自身を愛さなければならない。それで かれはいかなる危険もなしに 自分自身のように隣人(前には《兄弟》と言っていた。要するに 他者)を愛するのである。これと異なる仕方で自分を愛する人は不正に自分を愛するのである。かれは不義なる者になるように したがって悪しき者(前史人)になるように自分を愛し それゆえ 真実に自分を愛さないからである。実に 《不正を愛する人は自分の魂を憎むのである》(詩編10:6)。
(三位一体論8・6・9)

〔ちなみに 引用ばっかりだという批判に対しては ここで 次のように反批判しておこう。このようなたぐいの文章が 要約されて真意を伝え得るであろうか。どこか一句を引き出してそれを かれの言葉として提出しうるであろうか。――また ちなみに 色彩とある程度の質を異にして アダム・スミスの《道徳感情論》やマルクスの文章(文体)も そうである。(スミスのそのような評価については 水田洋がすでに触れている――《道徳感情論〈下〉 (岩波文庫 白 105-7)》この訳書の〈解説〉)。〕
アウグスティヌスが インタスサノヲイストは《自分自身を愛さなければならない》と言うとき それは つうのように ナルキッサの自己愛を 意味表示させたであろうか。しかも かのじょは《不義なる者になるように したがって悪しき者になるように自分を愛し》たのではなかった。そうではない。しかし 《インタスサノヲイストはいかなる危険もなしに 自分自身のように隣人(インタスサノヲイスト)を愛する》と言ったのである。隣人が いまだ前史にあろうと そうせよという意味である。
かくのゆえに 《私たちがその愛によってかれらが正しく生きることを欲するあの人間への愛のため すべての可死的なものを軽視しよう》と。そのとき 《兄弟の益となるため死ぬことが備えられ得るのである》。つうの犠牲(その精神)が アマガケリによって 実現(?)したあと 残された者にインタスサノヲイストの愛が 認識されるようになると言ったのではない。
《主イエス・キリストがご自身の〔外なる人の〕模範(すなわち 十字架上の犠牲の死と アマアガリ=復活そして高挙)によって 私たちに教えられた》のは 神の愛すなわち神のみこころを告知し それを完成させるためであった。インタスサノヲイストの人間愛 これは すでに 生前から 弟子たちとの交わり(共同主観)を初めとして 広く実践していた。けれども このような精神の徳=真実の愛を 実践していたことが すでに神の愛(真理)そのものであり神のみこことであったなら――つまり逆に言うと そうであるということが 告知されきっていたなら―― かれは みづから欲して(ヨハネ10:18;マタイ26:39;ローマ書8:32;三位一体論13・14・18) 十字架上の死に就くことはなかったであろう。
言いかえると 《キリストは 人間としての弱さ(肉体の可死性)のゆえに十字架につけられたが 神の力を帯びて生きておられる》(コリント後書13:4)のだから あるいは 《キリストは この世におられたとき 激しい叫び声をあげ 涙を流しながら ご自分を死から救う力のある方に対して 祈りと願いとをささげられたが そのおそれ敬う態度のために 神に聞き入れられた》(ヘブル書5:7)のだから 精神の徳=知恵の愛の みなもとを 告知した。人間の真実の愛のみなもとが――存在しないのではなく 存在するのであり―― それは 人間の精神〔と身体〕から断絶しているようには存在していないと言われたのでないなら かれは 《人間としての弱さのゆえに》《涙を流しながら 祈りをささげつつ 死に就かれたまい》はしなかったであろう。
つうは このことを アマテラス語において精神において みづから熱心に求め かつ求め得たと信じ これによってそのこと(《純粋日本語》と言っていた)を 男たちに説こうとしたのである。説くなどという意志が あったかどうか それは わからない。けれども 精神から断絶しているようには存在していないということは 精神そのものが仲保者の愛であるとか もしくは 人間は 精神においてすでに仲保者の愛であるとか そのようなことを意味しない。そうであれば そのときには わたしたちは 精神において かれを見ていることになる。そうではなく アウグスティヌスが言おうとしているとわたしが解釈するところでは それは わたしたちがこの仲保者の愛を 精神をとおしてその《背面》として見ている または 同じく精神および身体をとおして可感的にそして理性的に 神の存在を予感するということである。
アマテラス語と精神においてということになれば そういうほどに その人はすでにその身体を空気のようなものとなしているであろう。《可死的なもの・身体や質料を 軽視しよう》ということは 文字どおり《軽視》することであり それをさらに 《空気のようなもの または 軽蔑すべきようなものとして 説こう・思いこもう》とすることではない。そのとき 自分で勝手にアマガケリゆくならば 《身体や質料の世界のことばは 分からない》というようになることは 必然であり――つうは 惣どや運ずのおかねや物欲の世界のことばが 分からないと言う―― 実際 つうは このアマガケリを最後まで押し通し これに殉じたのだ。
これらを アマテラス語において キリストとの類似(類似は あるようだ)として見ることは 危険である。つうが伝えようとしたことは 何か。それは 人間精神の或る種の美ではないだろうか。また それをとおしてこの美のみなもとを知らせてくれるところの天使たちをではないだろうか。けれども この神が あるいは神から来て神である聖霊が わたしたち人間に宿りたまうと 神である御子キリストは告知しなかったであろうか。かれを受け容れよと語らなかったであろうか。イエス・キリストもどきは 要らない。危険でさえある。  
(つづく→2007-01-27 - caguirofie070127)