caguirofie

哲学いろいろ

#30

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Aeneid: Dido meets Amor - Tiepolo

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第十七章b 新しいヤシロロジは やしろ(社会)の形態として 《S圏(連合主導)‐A圏の連関制》に立つ

――《方法》におけるアウグスティヌス――


すなわち これらの限りで やしろの形態としても A圏(支配主導)‐S圏連関体制を S圏(連合主導)‐A圏の連関制へとみちびく。そこになお A圏を置いていることは S圏連合に従属する・一個のやしろ(くに)の全体的な調整機関というほどの役割を見ようとしている。国際関係つまりインタナシオナルなS圏連関において そのような役割を なお 果たさせようということになる。日本は 島国でありその限りで まとまりがよいから 今のままのA圏が 新しいやしろシステムのもとに 存続するかも知れない。あるいは 他の多民族国家などでは いくつかのS圏連合に分裂して それぞれのやしろに一個のA圏が出来るかも知れない。多民族から成る一つのナシオンの統合のままであるかも知れない。それは どうなるか わからない。
しかし要は 一個のやしろも 各個別的なS圏――生産態勢( ihé-capital )および家族・個人から成る自治態勢( mura=ecclesia )――の連合から成るわけであるから インタナシオナルなやしろ関係というとき それは 各生産態勢および各自治態勢が それぞれ主体であるにちがいない。そうして 基本的な歴史主体は むろん 共同主観者としての家( ihé )もしくは各個人が それであることは 言うを俟たない。
この議論は ここまでに留めたい。小説・アウグスティヌスが ここでの基調であったから。しかし上の最後の点ではやはり われわれは 共同主観者アウグスティヌスの生きた過程 これを追うべきかと思う。
この章では ここで《告白》の最も初めの部分をかかげて終わろうと思う。すでに次のように言っても――聞いても―― 《神》が 共同観念的に捉えられる恐れはないと考えられる。

偉大なるかな 主よ。まことに褒むべきかな。汝の力は大きく その知恵ははかりしれない。

  • この《計り知れない知恵》=キリスト の肢体であると われわれの《やしろ》が譬えられることがある。それは 計り知れないゆえ 一切の観念像を許さない・従ってつまり《無》と同じなのであるから たとえとしての表現の問題である。ただし やしろ資本(愛)の推進力であった。
  • この表現を使ってさらに表現をふくらますならば このキリストの肢体であるやしろを 人間の経済行為の歴史の面で マルクスはその主著《資本》によって明らかにすることにつとめた。
  • ただ 逆にこれは むしろその方法を抜きにしては 歴史的事実の探究に終わろう。その意味では興味薄い本である。
  • ところが この《マルクスとそしてウェーバー》学は この《方法(政治経済学批判ないし一般に 経済生活史)と方法論(エートスとして)》とを分けた。言いかえると キリストの肢体を 自己のアマガケリ(これが 二元論の原因である)をもって従軍記者またはカメラマンのようになって そのすべてを明らかにしようと考えた。要するに かれらは 殊勝にも この《計り知れない知恵》に 前向きに 人間の理性(精神)に従って たどりつこうとした。
  • しかしなお実際 この《知恵》は 信仰によって与えられ 方法において分有することができるものである。方法論は そのあと――必要ならば―― 第一次的なものとして(自己に即しつつ)時にこれをおこなうものである。
  • したがって 信仰(共同主観)と方法論(共同主観を分析して得られるその思惟=行為形式としてのエートス)とは 逆の順序でおこなうべきではないと言わねばならないし いや もちろんそうおこなってはいないと言うならば 信仰という方法のみがあって 方法論は アマテラス語客観の一般論などとしてはあり得ず つねに――それがあるとしたなら――《わたし》の方法の滞留するすがたとしての議論でしかないと言わねばならないであろう。
  • これが開かれた共同主観なのであり 逆に あれもこれも 価値自由的にしかも時に価値解釈しつつ 方法論一般 一般方法論を 認識しようとする方法は むしろ閉ざされた共同主観である。すなわち そこで主観の形成が猶予され 時に停滞するところのただの客観A語共同なる観念であると考えられる。

しかも人間は 小さいながらもあなたの被造物の一つの分(ぶん)として あなたを讃えようとしています。

  • 人間は 自己の力・自己の手によって あらゆる自己を壊滅させうるまでの・あるいは 新しいものへと自己を再生産させうるまでの知恵を持って 告白=讃美しようとしています。と言わねばなるまい。

それは おのが死の性(さが)を身に負い おのが罪のしるしと あなたが《たかぶる者をしりぞけたまう》(ヤコブ書4:6;ペテロ前書5:5;箴言3:34)ことのしるしを 身に負うてさまよう人間です。
それにもかかわらず人間は 小さいながらも被造物の一つの分として あなたを讃えようとするのです。・・・

  • やしろの愛に 自由に 従属しています。

(告白1・1・1)

《やしろの愛(資本連関)に 自由に隷属している》がゆえに それを《身に負うてさまよう》と言われるそのしるし・殊に《たかぶる者をしりぞけたまう》ことのしるしを 欲しまたそれへ走ることを 意志(愛)によって行なうのです。時として 革命的に連帯する共同主観者となって 資本連関を再編成しようとします。《欲するものを獲得し 欲するところに到達できるのは 〈あわれみたまう神による〉》(シンプリキアヌス・第二問)と同時にわたしたちは 聞きました。いわゆる自然史過程のことだとわたしたちは 解します。したがって たしかにわたしたちは 次のアウグスティヌスの言ったことばを 聞き逃しておりません。なぜなら それこそ わたしたちがここで当然のごとく 課題とすべきわたしたち自身のアマアガリとその過程でのA者予備軍の解放 そのものを指し示しているからです。

・・・神は高慢な者たちに立ち向かいたまう(高ぶる者をしりぞけたまう)が 謙虚な者たちには恵みを与えたまう。

この定めは神にのみ属することであるが(――愛の王国のみの律法であるが――) 高慢の思いに膨れ上がった〔悪〕霊までが これを自分のものにしようとして 次の言葉で自分が賞賛されることを好んでいる。

  • S圏八重垣のうたを自分のものとし これを隠れ蓑として もっぱらのアマテラス者となって この地上の国を享受しようとしている。

服従する者たちをゆるし 高慢な者たちを打ち倒す。
(6・853)

アエネーイス (名著/古典籍文庫―岩波文庫復刻版)

アエネーイス (名著/古典籍文庫―岩波文庫復刻版)

こういうわけで 支配の熱望にかられて人民を奴隷として仕えさせながら 自らはその支配欲によって支配されている地の国についても わたしは沈黙することができず この書物の目的に必要な限り また力の与えられる限り 論じることにした。
神の国 1 (岩波文庫 青 805-3)  1・序)

服従する者たちをゆるし 高慢な者たち(つまり このようにいま言挙げするわたしたちが これだと見られている)を打ち倒す》という言葉は あのアマテラス予備軍が わたしたちのかれら(もしくはA圏)への譲歩に対して その第一の死になおつけ込むために 甘えを寄せてくるとき その甘えの《高慢さ》にわたしたちのほうが顔をあからめなければならなくなるように そのわたしたちの弱さ(義・自由)に対して いいよ いいよ だいじょうぶだよと言って 目をぎらぎら輝かせながら漏らすことば アマテラス語概念のおおいなのである。
この蜃気楼による侵略(観念によるこころの中への不法侵入)を 神がしりぞけたまうというのは われわれがしりぞけようと欲し 時に 走ることでなければならない。この方法(そしてその滞留)の確立の前に ヤシロの経済システムを論議しまた変革しようとすることは そのことが正しくないからではなく われわれの前史に属していると知ったのです。理論的な正しさ・人間の真実は 後史においても 時間的・可変的な信実であり――ゆえにもちろんそれは 有効であり しかも 前史においては その《真実の理論》的な進展(その体系化)は なお基本的に あのアマテラス予備軍の暗躍(甘え)を見逃していると知ったのです。ゆえに S圏連合主導‐A圏の連関制によるやしろ過程 このことを――高慢にでなくとも――不遜にも つまり不遜に見えようとも わたしは言挙げしたいという気持ちに傾くのです。
(つづく→2007-01-23 - caguirofie070123)