caguirofie

哲学いろいろ

#29

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Воскресение Христово
Автор: Мещерова Алла, ikon-master@yandex.ru

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第十七章a 新しいヤシロロジは やしろ(社会)の形態として 《S圏(連合主導)‐A圏の連関制》に立つ

――《方法》におけるアウグスティヌス――


われわれは 《前史から本史へ》という方法ではないとするならば ヤシロロジ以前のアウグスティヌスをも さらに追うべきかと思う。また 他方で アマテラス予備軍はすでに解放されたと 数章まえからは見ているが その後の議論が なおこの現実の解放過程と 無縁であるとは見ていない。むろん だから ヤシロロジそのものの領域において実際に たしかに理論されるべき要を感じるが 他方で この方法の問題をそれとして なお明らかにして進むことの必要をやはり見なければならない。ここではその限りで 後者を扱っていきたいと考えた。
わたしたちは たしかに やしろの資本連関にかんして その新しい形成過程を理論しなければならないし また 理論の以前にも実際 一人ひとり現実において これには立ち向かってすすんでいる。やしろの推進力 その愛なる仲保者すなわち《本史》によって 時に《前史》的にもそして《後史》的にも それぞれの自己において 参加せしめられ 参加して ここに生きている。ただ 手段としては本質的に経済上のヤシロのシステムの変革 これを思惟し理論しなければならないが もしこれを別にすると 本史による前史から後史へのアマアガリ を理論するのではなく 参加し思惟し理論もするその自己を 思わなければならない。主観のアマアガリを思わなければならない。――このように言うことが 第一の理論である。
しかも このアマアガリ自体は これを表現することは 難しい。そこで 自己(自己のそのような思惟・精神・意志)は むろん身体をともないつつ 或る種の仕方でつねに滞留するのである。滞留しつつ 後ろ向きに進む自己の方法 これを 共同主観とすでにしていつつ 時に明らかにして語る。
もし 新しい画期的な理論が いまだ現われないのであるとしたなら これは 理論の滞留であるとか――ましてやその停滞であるとか――と判断するのではなく 理論作業の・つまりその作業主体の・つまりかれの愛の滞留であると見なければならない。このような回転・すなわち前史(その視点)から後史(同じくその視点)への回転が すでに新しい理論なのだとわたしたちは 言おう。
いわゆるマルクスシスム理論が もし つねに新たに拡大再生産されていなければならないという見方があるとしたなら それは ウェーバーの方法と同じように キャピタリスムの第三角価値の増殖を目的とする思惟・内省=生産・行為の形式の罠に陥っている。一方で マルクシスムは そこにおいて 滞留しないなら(それとして 認識しないなら) いつまでも前史にとどまり 他方で ウェーバー主義が この欠陥を指摘してのように 《エートスの王国》によって滞留したとするなら それは 従って実に ありもしない滞留なのであり 現実の(現行の)アマテラス体制的停滞への予備軍なのである。ここでは 後者の判断にかんする根拠が問われており これに答えることを 一つの課題としていた。
生活における或る種の意味で 闘い また 理論の上の闘争 これらをとおして やしろの自己形成に生きるその過程は その方法において自己を発見しまた自己に還帰していなくてはなるまい。さまざまなやしろの歴史的事象(およびその把握・分析としての理論)は この方法形成(というよりは そのすでにあったものの発見・受け取り)に資するであろうし またそれは――同じことで――前史においてまだ無自覚の内にしかしすでに方法していた己れを これら歴史的事象(要するに 生活)をとおして 発見するということでもある。自己が自己に到来することでもある。
本史に支えられて――つまり人は 或るときたしかに あの回心の場面に遭遇するであろう その時の本史に支えられて―― この後史に入るとそこにおいて 前史の生活や学問が 生かされるということであるはずだ。古めかしい言い方であるが 《善人(後史)は 神(本史)を享受するために この世(前史また必然の王国)を用いるが 悪人(前史人)はそれと逆に この世を享受するために神を利用するのである》(神の国について15・7・1)と言いうる。だから《後史人》すなわち アマアガリするスサノヲイストは 前史または必然の王国を用い変革するために 自由の王国なる知識をその手段とするが それの理論体系化を 目的とはしない。
そうしてこの方法は そのように方法する自己を《思い》――すなわちそれは そのような方法または そのように方法する自己を 《知る》こととは別である―― そのとき自己がたしかにその愛において滞留していると知るなら その滞留する精神をも思い その全体として 時に この方法(つまり共同主観)をも明らかにして 進む。これは 学問以前のことであるとともに――あるいはそれは むしろ生活以前のことであるとも言ってよく―― 同時に 生活や学問や理論やの方法そのものである。
つまり 方法は それらの行為の中に溶け込んでいなくてはならない。けれども 《誘惑(いざな)う者のようで 真実である》(コリント後書6:9)と言われたのであるなら この方法は 共同主観(常識)でこそあれ 主観(つまり わたし)でなければならない。
言いかえると 以前は 理論が 歴史の過程とともに動態的であって 或る種の仕方で《誘惑っ》ていたが いまは 方法がつまり主体・主観が 滞留してしかも動態的であらねばならない。これは 誘惑うために誘惑うのではないから 〔人間の・つまり可変的・動態的な〕真実である。
くどいように言いかえると 理論の共有といった意味での共同主観ではなく 方法=主体においてのコミュニスムである。生活が その全体であり 理論はこれの付随的な作業である。理論においてではなく 生活=方法=主体における共同主観は その成立の歴史的なモメントであるところの〔各個人の〕あのアマアガリ過程において それ自体はこれを表現して人びとに示すことはむずかしい。しかし いま問われていることは この〔だから 霊的な〕アマアガリにかんして それを〔社会事情的な〕エートスの領域に連れ戻して そのもの自体を明らかにしようとするやり方――たとえば 夕鶴つうの精神的な徳の美が エートスとして共有されるなら 共同主観が形成されるであろうと説くやり方――の誤謬についてである。
この問題のウェーバー主義のやり方は たとえば わたしたちが次のようにアマアガリ過程の輪郭を素描するところのものを すでに自己のものとしていると主張する。神の国の地上の国への寄留 前史への忍耐と本史の待望としての後史 いま死なしめられている譲歩と この義(自由)が裁きに変えられる(日から日へ変えられる)過程(神の国について1・序)――このように表現して示そうとする内容にかんして かれらは 既に捉えていると主張する。
わたしたちは この《わたし》の過程において 自己が自己に到来し 時としてその主観の共同化が 身近の人びととの間に 実現すると言い これを方法としているのであるが かれらは この地点からすでにアマガケリし そこより この方法を エートスのかたちとして 写真撮影するのであり この写真を 精神の徳の世界として ということは実際には 観念として・社会心理的に共同化した観念のかたちで 説き明かしていると言い張り わたしたちのインタスサノヲイスムに その蔽いをかけるのである。
わたしたちの現実のコミュニスムを証しするためには この蔽いの誤謬を明らかにして示さなければならない。具体的にやしろの資本連関にかんして 把握・分析・理論・主張をいまだここでは発言していないが――実際には あとまわしにしているとも言わなければならないが―― このような過程に立つことが インタスサノヲイスムであると言ったことになる。これが新しい理論だと言っている。



さてわれわれは 滞留において 本史を享受しなければならない。この迂回が――理論ではなく《小説・アウグスティヌス》が―― ごく平凡な後史としての実践であるとここでは 考えたことになる。なぜなら この後史における新しい主観共同化に際して(それとしてのやしろ資本の形成に際して) その敵は アマテラス予備軍であった。すなわち このわれわれの新しい主観共同化を・そのうたを 自己のもとに先取りして 抽象的に普遍なアマテラス語によって・純粋の見せかけによって 同じうたをうたって――観念的に先取りしたという事態をもって はぐらかすという戦術によって――  阻もうとするA者予備軍であった。
ところが ほかならぬかれらも いまのヤシロ資本連関のままでも 同じインタスサノヲイストらのうたを歌える つまり本史を享受できるのだよと 神を利用しつつ アマガケル生活の中で 滞留している すなわち 実は この世を享受しているのだから かれらにつけ入らせないためには われわれの側に このいま必要な限りでの滞留は――認識としても―― 必要なのである。そうでなければ この滞留の無によって――つまり実際には 有なのであるが その無自覚によって―― それを指摘されて かれらにつけ入られ われわれは顔をあからめて引き下がらなければならなくなるであろう。言いかえると われわれも この滞留を確認しつつ 本史をたしかに享受していることを かれらに示し かれらが じっさいスサノヲ語において 顔をあからめるようになるまで 関係の絶対性の世界を見せてあげなければいけない。
なぜなら かれらA者予備軍のやしろにおける解放は かれらの関与不可能性(無関心となった愛)というその欠陥が取り除かれることによってではなく 《S者性‐A者性連関の主体なる人間本性》というその同じ自己を取り戻し 過去の傷が癒され やしろのふところに立ち帰ることによってであるから。
したがって この迂回する方法は その滞留においてわれわれが 自己を楽しませるためであるというよりも かれらの顔をあからめさせるための手段であることになる。わたしが言うが マルクスは 人間にとってのこの方法の存在をはっきりと示した しかし かれは この方法の滞留(その不可避性)を いわば時間の未所有つまり未来社会と 現在との関係において 捉えていた。わたしたちは 必ずしもそうではなく この滞留は 現在時に それとして 現実であると言って すすむことになる。(もとは パウロがたとえば 《あなたがたを恥じ入らせるために これこれのことを言っているのだ》と説明表現するところである)。
だから 直線的な論理で言っても 方法は 《前史から本史へ 必然の王国から自由の王国へ》ではなく 《前史から後史へ そうして 両者の全体の歴史(つまりわたしの生涯)において 前者にあっては――その過去が復活してのように――無自覚の中にもあらためて自覚するというような・負においての本史の享受であり さらに後者にあっては いま自覚するところの・正における積極的な本史の享受である》である。(本史の享受は いまだ その予感といったかすかなものであるかも知れない)。
本史とは 愛の王国にほかならない。愛は それじたい 必然の王国から反転しているとするなら(つまり はじめの倒立が 再倒立しているとするなら) そのまま 現実でありその力であるが 誰も 目に見えない・この世に属していない王国に そのままでは 生きていないとするなら やしろのことであり 殊に目に見える土台としての経済的な資本連関のことでもある。そのような物欲にかかわる生活の中にも それをとおして 見出されると捉えていこう。
これによって この過程をとおして それ自体つまりやしろの資本関係が その前史から後史へ移行すると わたしたちは言おう。それは 時として実現すると思われるから。S圏が あらゆる資本関係の基体であるとする限りで かつて勝手にアマアガリしたA圏の・その観念抽象的なアマテラス語弁論術によって獲得した資本も それとして アマクダリさせることになろう。おそらく S圏が A圏を――もしそれが収奪者であったとしたならそのA圏を――何か収奪し返すといったかたちを放棄したとき すべてS圏のもとに帰っているのではなかろうか。人が変わるということでもある。
このこと=アマガケリしたA圏のアマクダリは 人間の前史においても いわゆるデモクラシとして 哲学されたことである。インタスサノヲイスムの後史においては このデモクラシの理論をも用いて進む。デモクラシの理論は A圏にアマガケリしたA者個人を真正のアマアガリに導こうとするものであり またA者個人をアマクダリさせようとするものである。インタスサノヲイスムは これを用いつつ さらにA圏そのものを――というよりは 一個の人間の中の《A圏》そのものを―― S圏にアマクダリさせる運動である。なぜなら S圏のやしろ資本が 基体(ふところ)であるから。
すなわち これらの限りで やしろの形態としても A圏(支配主導)‐S圏の連関から成る体制を S圏(連合主導)‐A圏の連関制へとみちびく。
(つづく→2007-01-22 - caguirofie070122)