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哲学いろいろ

#24

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Augustin ou l'âge d'or de l'exégèse biblique(L'âge d'or de l'exégèse biblique se situe entre le Ve et le VIIe siècle, entre saint Jérôme et Isidore de Séville. )
Walafrid Strabon
Abregé des Commentaires sur les Psaumes de saint Augustin

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第十四章a 同じくマルクスのばあい(アマテラス予備軍が解放される)

――同じく 《三位一体について》語る――


それでは その理性的な魂がすでに不可変的で永遠の真理を分有しているような賢い人を心で考えてみよう。――とアウグスティヌスのえがく共同主観者の像を ここで補足しておかねばならない。(ちなみに 《真理の分有》とは すべてを理性的な魂すなわちアマテラス者精神で 律することではない。律する力を得たということを意味しない)。――
その人はその行為をあげて この真理に諮り 真理において為すべきであると認識しないことは決して為さず そのため真理に服従し真理に聴従しつつ正しく為すようになる。このような賢い人が もし心の耳でひそかに聞く神的な正義の最高の理法に諮って その命令に基づき或るあわれみの業(わざ)を引き受け 身体を労働によって疲れさせ 病気に罹り 医者に相談したところ 或る医者からは病因は身体の乾燥であると言われ 或る医者からは過剰の液であると言われるなら それらの診断の一つは真実の病因を語り 他方は誤っている。しかし両者共にただ直接的な つまり身体的な病気の原因に触れているのにすぎない。
しかし身体の乾燥の原因が さらに問い求められ あの自発的な労働のことが考えられるなら そのとき より高次の病気の原因に到達したのである。その原因は魂に起因し 魂が管理している身体に影響を与える。ところが それもなお第一の究極的な原因ではないであろう。第一の原因は疑いなく より高いところ すなわち不可変的な知恵そのものにあったのである。
賢い人の魂はその知恵に愛をもって仕え 言詮を絶して命令するその知恵に聴従しつつ あの自発的な労働を身に引き受けたのである。かくて神の意志そのものが あの病気の第一原因であると極めて真実に認められるのである。
〔しかし もし為すべき敬虔な仕事において この賢い人が善き業に協力する他の人の奉仕を採用するとき・・・〕
アウグスティヌス三位一体論 3・3・8)

ここでアウグスティヌスは 《病気にかかる》といったネガティヴな現象を例にあげて アマアガリするスサノヲ者の共同主観行為過程を指し示した。しかもそれは 方法としてであるだろう。誰も 病気に罹れとは言っていない。必然の王国をわたりゆく愛の王国を例示しようとしている。《もし人間的なものの支配と管理とが この賢い人びとや神に対して敬虔に全き仕方で服従した人びとの手中にあるなら――この状態はまだ存在していないが―― このような人びとの交わり(革命的な連帯)が存在する家についても あるいは都市 または世界についても考え得る》とかれは考えたことになる。
けれども このような共同主観国というほどの形態的な・或る意味で独尊的な資本関係=やしろの生活については それが《とこしえより据えられて》おり すでに現在するからと言ってのように その実現が 保留されているのだと考えられる。微妙な・また誤解を生むような言い方ではあるが この認識が 前章までの主張の・つまり神の国の歴史的な進展にかんする後退ではなく 前進なのである。どういうことか。
なぜなら実際 この《賢い人びと》の内なる秘蹟――第一の死の引き受け→復活(アマアガリ。その約束)なる回転――と 外なる模範――必然の王国を含めて他の人びとの協力を採用するという仕事――としての《キリスト・イエス》は 人間として すでに 出現しているからである。
わたしたちは 《神の国と地上の国これら二つの国は この時間的な世界にあっては 絡み合い 相互に混じり合っている》(神の国について11・1)ことを知った。しかも人間キリスト・イエスは 《わたしの国は この世に属していない》(ヨハネ18:36)と言った。この二つの視点がただしいとわたしたちは考える。そうでなければ 神の国の歴史的な進展(《お前たちは出かけて行き すべての民族をわたしの弟子にしなさい。そしてかれらに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け・・・なさい》(マタイ28:19)は 起こらなかったし 必要ではなかっただろう。
それでは なぜ 《賢い人びとの交わりの存在する家 都市また 世界》の実現が保留されているとわれわれは認識するのか。自由の王国は 必然の王国に取って代わる新しい歴史的な世界なのではなく 《この世に属していない》愛の王国が 同時に《この世》に寄留しつつ この必然の王国をわたるための必要な限りでの理論なのであるというのは どういうことか。
思うに 《主(復活した人間キリスト・イエス)は 〈私に触れるな。また私は父の御許(みもと=神の国)に昇っていないから〉(ヨハネ20:17)と言われるのである。それは 接触は いわば認識の目標をつくるからである》(アウグスティヌス三位一体論1・9・18)。ここで 形態的な自由の王国の認識が 《接触》であり それは 自由の王国〔なる理論体系〕が われわれの信じるべき対象なのではなく われわれの信じているのは 神(もしくはなんなら自己)であるのだからと言われているようなものである。
《それゆえ 主は ご自分に向けられた心の目標が 見たものだけを思うというようにご自分に置かれるのを欲せられなかったのである。〔しかし 御子が御父の許に昇られることは 私たちの心を満たす直視の目標が そこで達せられるために御父に等しくあり得るようにみられることであった。〕》(三位一体論 承前)と言われる。これは 愛の王国を 自由の王国として経験科学的に理論しようがしまいが 愛の王国(その信仰)に立って むしろわれわれが 後ろ向きに 前進することを促されていることであると思う。
それゆえ 自由な人びとのやしろにおけるかつ資本関係としての連合は  《正義が裁きに変えられるまで》 留保されているのである。それは つねに保留されていると認識するまでに つねに前進を見ているものであり かつそれは すでにその実現を見たかのごとく後ろ向きに 進んでいると解しなければならないのだと思う。
だから 《ここがロードスだ。とべ》と言って 前向きに進むのではなく ましてや前向きに後退する(先送りする)のではなく――ちなみにそのように行なう人びとは 《たしかに 〈ここがロードスだ。跳べ〉ということわざは 真実であり なおかつ その真実の現実は きびしい われわれは為しうる最大限のことをやっているのだ》と答弁するであろう。また このことを世界のすべてだと暗に了解している二元論のキリスト者(?)は いわゆる学問に没頭するであろう。一つのことが他の一つのことの中で その・他の一つのことに対して 実現が留保されていることと これら二つのことの二元論とは もちろん 別である。――《ここがロードスであり わたしはすでに跳んだ》と言ってのように その後の地点に立って 後ろ向きに前進を開始するであろう。
(つづく→2007-01-17 - caguirofie070117)