caguirofie

哲学いろいろ

#17

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第十章b アマガケリする人びとのアマテラス語弁論術

――少年時代を 回想する――


問題は 神の国へ上昇(アマガケリ)していこうとすることではなく また 下降して習慣の流れの中に沈湎することでもなく 神から〔もしくは アマアガリ後の自己に立って〕 人間の中へ到来し 人間に近づくことである。と思う。神学的に申すならば 

すでに受け取っているなら なぜ まだ受け取っていないと(つまり もっとちょうだいと)言って 自己を誇るのか。
(コリント前書4:7)

にある。と思う。神学的に申すならば キリストは 神の国を指し示したのだとしても かれは 人間キリスト・イエスであったのであり

――聖霊を受けよ。
ヨハネ20:22; 使徒行伝2:4)

と言ったのであり 聖霊なる神を論議せよ 十分 論議してから 判断して受けよと言ったのではない。(詮索するのは自由である)。木下順二のように《神に 人を救わずにはおかない願い・意志があった》と知解するかどうか そのことを指摘して言うかどうかは ほとんど問題ではない。(それは 信仰を持つ前にあっては 特別に必要なものではないし 信仰を与えられた後にあっては すでにわかってしまったことである。)
そうではなく

神は愛なり。
ヨハネ第一書4:16)

と言われたその聖霊を《受ける》ことによって 回心後もしくは告白後の生が始まる。それまでは 神を論議すべきではない。(するのは 自由である)。回心を告白するアウグスティヌスの心の中に分け入って その一人物・一生涯を叙述し その思想はこうこうだと かれ・もしくは神を 描こうとすべきではない。(するのは 自由である)。われわれには 〔第二・第三の〕《夕鶴つう》は要らないのである。いけにえ〔と言うなら いけにえ〕は キリスト・イエスひとりでじゅうぶんである。実際 神の霊を受ける(飲みまつる)前のそのような詮議は要らないのであり 《つう》のイメージが神だというのは 明らかに誤謬である。
なぜ 《つう》を再生産するのか。再生産するような社会情況と人間の哲学とを だまって見ているのか。《受け取っている=すでに告白を通過している のに まだ受け取っていないと(もっと頂戴と)》言っていることでないなら なぜだろうか。そう言って 《自己〔の善悪二元論の知恵〕を誇っている》のでないなら なぜだろうか。
《夕鶴》の〔徳行の世界の〕美が この世のものではないと知るなら なぜ これが すでに 幻想ではないと言わないで もっと夕鶴と同類の物語が欲しい・その演劇が見たいと言い続けるのか。あるいは たしかに つうの愛は この世のものではない・つまり それは 弁論術(修辞学)の美であって 所詮 虚構であると見るなら すでにまったくの蜃気楼であり幻想なのだよと言って切り捨てることをしないで そうしないで 授業料を払って なおも追い求めるのか。
あるいは この《この世のものでない美》が なおもこのように問い求められるべき人間の有(もの)であるとするなら なぜ これをまだ受け取らず 受け取っていないと言い張るのか。
そしてもし 逆に 受け取ったゆえに そのように表現して享受し言わば教授しつつ宣教しているのだと答えるなら それは 一方で キリスト史観へと 類型的にはそのように 促されていることを表わし 表わすが もう一方で 神でないもの・すなわちただ人間の精神(愛となって現われるその美)を 神としていると言われても 答えるすべはないであろう。さらにもし この《つう》の人間的な姿は 神の霊を受け取った共同主観の生き方であると答えるなら そのときには なぜこれを宗教としてしまうのか。言いかえると 《つう》をそのように捉えつつ しかも自己は《与ひょう》の立ち場に立っている あるいはたとい与ひょうの位置に自己を見出そうとも 《つう》がそのように生きたと捉えられたならば かれらの間には 共同主観が成立したのであるから そうであるのに つうを《昼》の世界とし 与ひょうを《夜》の世界に生きる者となぜ規定してしまうのか。授業料を得んがためでないなら なぜだと言うであろうか。
別のかたちの新しい授業料の授受の世界(必然の王国と自由の王国との混在から成る)が この世に生起しないと人は 言うべきだろうか。もし〔生起すると〕言えるとしたなら これを阻む者は 何であるだろうか。この阻む者をも 善用したまう神とは なんであろうか。われわれ人間が この神の霊の住まい(コリント前書3:16)と言われたのは どうしてであろうか。つうは あのスサノヲがクシナダヒメと八重垣を形成しつつ俟ったアマアガリを あせって精神主義的に アマガケリによって得ようとしつつ 天へと去って行ったとすら 憎まれ口を叩かざるを得ないとも考えられる。わたしたちは この二元論の感傷的な美の罠から脱出していなければならない。
スサノヲが 手本である。われわれは かれのよみがえり アマアガリという復活を 論議している。このための授業料の授受は 払うほうも受け取るほうも すでに共同主観形成への過程を歩んでいるというほどに やしろ資本(愛)の――S圏がその基体であるやしろ資本の――形成そのことのための生活であり そのことそのものが すでに人間の生活なのである。
たとえば 《自由の王国》を理論したマルクスの文章(文体・判断)が 小説の新しい作法を切り開かなかったとは言えないとわれわれは言ったことになる。けれども この新しい方法は 自由の王国の実現のあかつきに 生起するであろうとはわれわれは 言わないのである。そう言うのなら かれマルクスは 従来の方式で授業料を求めたことになる。(内田義彦の《作品としての社会科学 (同時代ライブラリー)》という一作品は たちが悪いかどうかを別として 《狼が来るぞ 狼が来るぞ》と言って つまり新しい作品の作法がはじまるぞ はじまるぞと言って ついに終わってしまう授業料の授受である。詳述はしないが 熱心な読者なら 容易にそのことを知るであろう)。
神の国から人間の中へ到来し 人間に近づき 自由の王国を 必然の王国の中で いま 論議していることじたい 新しい作法を用意している いや 実現している でないなら 人は何と言うべきであろうか。《どうして あした また あした なのでしょう。いつまで いま でないのでしょう》。
これが 小説の作法の問題であると考えられた。これが あのアマテラス予備軍のやり口の問題とかんれんしていないとは言えない。ここから――ここから―― 《この〔人間の習慣の流れる必然の国の〕大海をわたることは 木の船に乗った者すら困難だ》(告白1・16・25)と聞いていた。こう言ってきたことになる。
《雷をとどろかせながら姦通するユピテルの話を私が読んだのも その流れにおいてではなかったか》。夕鶴つうが 恩返しのためとは言え 自分の羽根から――いかに忠義心厚く――取って布を織る話を読んだのは この流れに沿ってであってはいけないと考えたのである。この流れに沿った解説(再生産)であってはいけないと考えたのである。
(つづく→2007-01-10 - caguirofie070110)