caguirofie

哲学いろいろ

#12

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Mit einigen Verwandten und Freunden zog Augustinus sich danach auf das Landgut eines Freundes in Cassiciacum zurück (möglicherweise das heutige Cassiago in der Nähe des Comer Sees); hier verfasste er zahlreiche Schriften. In der Osternacht 387 ließ er sich gemeinsam mit seinem Sohn Adeodatus und seinem Freund Alypius in Mailand von Ambrosius taufen; die Taufe bedeutete für ihn wie für viele Christen dieser Zeit den Bruch mit der Welt.
(Augustinus wird von Ambrosius von Milano getauft)

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第八章a 男の女に対する関係の外へ アマガケリ(偽ってアマアガリ)しようとする人びとがいる

――アウグスティヌスの場合 二人目の愛人を持ったのち 回心へみちびかれた――


わたしたちは これまで述べてきたアウグスティヌスの回心前後の過程を 整理してみなければならない。マニ教徒の罠に陥り ここから脱け出し 完全な回心に至る過程を まずかんたんに復習しておきたいと思う。
その前に ひとこと言っておかねばならないとすれば それは わたしたちがこのように言うことが 何な不道徳なことを言っているのではないかとの内容で抱かれるかも知れない危惧に対してである。はっきり言えることは この危惧があるとしたなら それは 価値自由的な写真撮影のA語客観信実の覆いが――マニ教徒たちの罠として―― わたしたちに かぶさっているであろうということである。
わたしたちは 俗物になれ・不道徳なことをおこなえと言うのではなく 自己還帰なるアマアガリを 俗物の世界に寄留しつつ また アマテラス語抽象普遍信実に拉し去られずに 問い求めているということだ。
やしろ人として やしろの中で なんとか喘ぎさえしつつ問い求めている人たちは わたしについて来てほしい。この議論の筋について行って さらにそれを進めて行ってほしい。わたしの誤りを指摘して行ってほしい。そのようにして――必ずしもA語真実の正解を出すことが目的ではなく―― いまの試行錯誤そのものが だからその試行錯誤が指摘されつつすすむことによって 共同主観(常識)の水かさが増してのように 歩んでいくことが目的なのであるから。わたしとしては 誤謬を犯さないように最善の注意を払うよう努めたい。
あらかじめながら 価値自由的な判断(実際には 知解行為)によるウェーバー学の写真撮影が 問題であって これは いまの共同主観の動態を停滞させたと極論したい気持ちに傾く。そのA語客観信実は 男の女に対する関係およびやしろ資本連関のその外へ みづからがアマガケリしていこうとしている。偽りのアマアガリを ということは 精神主義的に主観共同の実現を 敢行したからだと思われ このことの指摘が ここでの趣旨となります。



《その年ごろ 私は一人の女性と同棲するようになっていました》(告白4・3・2)と話は始まります。

さて私は 妻を〔合法的に〕めとるように しきりにすすめられていました。すでに求婚もし 約束もかわされていました これはとりわけ母の尽力によることでした。
(告白6・13・23)

ここには 合法的婚姻なるA語抽象普遍概念があり 他者――母親であるが――からのその概念を実現することへの働きかけがある。 

母は 結婚させた後に 私を救いの洗礼で洗ってもらおうと考えていたのです。・・・
母は 私の願いに応じかのじょ自身もそれを熱望して 心のうちにはげしいさけびをあげながら これからしようとする婚姻について何事か示現をとおしてお示しくださるようにと 毎日あなたに懇願していましたが あなたはけっして示そうとなさらなかった。
(6・13・23)

律法(精神)主義に立つ《強い人びと》の愛が見られる。

かのじょ(アデオダトゥスの母)はあなたにむかって 今後ほかの男を知るまいと誓い 私のかたわらにかのじょから生まれた私の息子をのこして アフリカへ帰ってゆきました。
(6・15・25)

別離かどうかの問題としてよりも 男の女に対する関係としての共同主観の過程 これが なお はっきりしないし すっきりしない。非合法の結婚であったなら 片一方だけが悪くてその責任をとるというのは なんとも 筋がとおらない。

けれどもわざわいにも この〔別れて行った〕女性のまねをすることもできず 二年後でなければ求婚の相手をわがものにできない(相手の年齢が法律的に若かった)ことを思い 待つ期間の長さにたえかねて 婚姻そのものを愛するよりはむしろ情欲の奴隷であった私は 別の女をこしらえました。
もちろん正妻としてではなく その女を 花嫁を迎える日までつづいてゆく肉欲の習慣の相手にすることによって 魂の病気がすこしも弱まらずに かえってますます重くなり長びいてゆくためでした。
(6・15・25)

共同主観の破綻 もしくは共同主観が成立しているのに そこにとどまり得ないという破綻。言いかえると この共同主観に なお律法(合法的婚姻というときのその合法性なるA語客観信実)の覆いがかけられていたと見ることができる。スサノヲ語にもとづくアマアガリによって アマテラス語律法を成就するのではなく 後者の精神的な保持によって 前者を問い求める。
こうして アウグスティヌスのアマアガリの過程としては 

あわれみの泉よ あなたに讃えあれ。栄光あれ!
私がますますみじめになるにつれて あなたはますます近づいてこられた。
(告白6・16・26)

と回想する経験をとおして あの回心の場面へ牽き行かれることになる。

いったい いつまで あした また あしたなのでしょう。
どうして いま でないのでしょう。
なぜ いまこのときに 醜い私が終わらないのでしょう。

私はこう言いながら 心を打ち砕かれ ひどく苦い悔恨の涙にくれて泣いていました。すると どうでしょう。隣りの家から くり返しうたうような調子で 少年か少女か知りませんが 

とれ よめ。取れ 読め。

という声が聞こえてきたのです。・・・
(告白8・12・28−29)

そしてここには 次の三つの事態があると思われる。

  1. 独立主観における完全な回心(《完全な》というのは 事後的にわかるものだが その時点で それに見合う直観があるとも考えられる。)
  • 友人アリピウスとの共同主観の形成
  • 母モニカとの共同主観形成

そして 逆に 単なる推測によるというかたちで述べるならば これらによって 精神主義的なマニケイスム二元論の解消が成ったのだと思われる。


こうして わたしたちの主張は この《告白》をすでに通過した者として アマアガリに立ち帰り また アマテラス予備軍の罠に立ち向かうということであった。
アマアガリ・完全な回心については なお紆余曲折があってそれを通過しなければならないということのほうが 正解であろうと思われるが このように過去から現在そして未来へと進める《告白》の過程は そのような自己形成は 或る種の仕方で すでに終えた者として むしろ後ろ向きに〔前へ〕進むということ これも 主張の骨子にある。
アマアガリが 復活であるなら 復活の約束であるなら そしてもしすでに死をも経験していたとするなら――スサノヲ者のアマテラス予備軍への譲歩は その関与不可能な人びとへの倒立連関(甘えへの甘え)に至らないただ滞留としての関係(資本・愛)の中に 生きていたとするなら―― 復活はすでに成った 復活の約束をいま受け取ったということであるはずだ。そのあとに 時間的・経験的な行為としての《私有財産という資本・愛の関係の積極的な止揚》が来るはずだ。その逆ではないはずだ。なぜなら 死のとげ(罪)が取り除かれること(アマアガリなる回心の一瞬)と 時間的にそのとげの刺さっていた患部が癒されていくこと(アマアガリの確立過程)とは 別のことがらであるはずだからだ。
前者に立って後者に対して わたしたちは むしろ後ろ向きに進むであり 後者から前者をただ望み見ようとして問い求める前向きの〔時に停滞的な〕流れの中にはいない。またマルクスは 前者の回心をひとことも言わなかったが かれは 終始 むしろ後ろ向きに進んだ。そうではないやり方は 古いやり方である。なぜなら 神学的に申すなら 人間キリスト・イエスはすでに出現したからだ。
わたしたちは このことを アウグスティヌスの告白の中に 見出し 問い求めようとしている。アウグスティヌスが すでに観想において明らかにしたところの事柄を わたしたちは 行為において問い求めようとしている。その一つの例をわれわれはカール・マルクスその人に見たが 現代では かれの方法の世界史的な止揚が課題だと おおきく言ったことになる。
上の(1)ないし(3)の回心を語ってその《第八巻》を閉じたあと かれは《第九巻》を次のように始める。
(つづく→2007-01-05 - caguirofie070105)