caguirofie

哲学いろいろ

#7

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

( 《Tolle lege, tolle lege.》 cum Alipio.)
Et voici ce qu´il trouva: Ni ripailles ni beuveries, ni luxure ni débauches, ni discorde ni jalousie; mais bien plutôt revêtez-vous du Seigneur Jésus Christ et ne prenez pas soin de la chair pour en satisfaire les convoitises (Rom 13, 13-14). Alipius, auquel Augustin en avait parlé, reçut cette parole comme une parole de Dieu et lui dit: Ce qui vient à la suite est pour moi: Accueillez favorablement celui qui se sent faible dans sa foi (Cf. Confessions, VIII).

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第四章b 実際の主観共同化としての 生きた自由の王国

――アウグスティヌス 友アリピウスと回心を共同主観する――


《魂の本性(A者性普遍概念とその或る種の精神的な力)は神そのものであると思い 主(やしろのふところ)において光であることを望まず 自分自身において光であろうとしているうちに ますます〔人間的となると同時に〕深い闇になってしまった》A者予備軍のわなとの闘い これが ここでの焦点です。わたしたちの方法が これであるとも考えます。
そこで 必ずしも《告白》というやり方になじまないわれわれであるけれど 互いに顔の赤らめを超えた主観共同化の過程を 経験的につづった次の告白の箇所を一度読んでおきたいと思う。

それから私は 指か あるいは何かしるしになるものをはさんで書物を閉じ(つまり 《取れ 読め》という声を聞いて読んだ書物を閉じ) もうおだやかな顔つきにもどって アリピウスにすべてをうちあけました。ところがかれも かれ自身のうちに何がおこりつつあったかを――私はそれを知りませんでしたが―― このようなしかたで打ち明けたのです。
すなわち 私が読んだところを見せてほしいと言いました(今日の写真を参照)。見せてやると 渡して読んだその先のほうに目をとめました。その先にどういうことが書いてあったか 私は知りませんでしたが じつはそこには こういうことばが つづいていたのです。

信仰の弱い者をうけいれよ。
ローマ人への手紙〈1〉 (コンパクト聖書注解) 14:1)

かれはこの句をわが身にひきあて 私にうちあけました。しかしこの勧告によって強められ 何の不安もためらいもなく りっぱな決意と意図によって私と一致したのです。
その決意と意図とは かれの日ごろの生活態度にきわめてふさわしいものでした。その生活態度において かれはすでに私よりはるかにへだたって善い方向に進んでいたのですから。(cf.告白6・2)
(告白8・12・30)

これが それであり ただ わづかに このような告白の表現には 一般にわたしたちの生活態度においては なじみが薄いだけということになる。あるいは 世界史的に言いかえると このような告白の意味表示するインタスサノヲイストとしての主観共同化は 基本的に 現代人として 通過してきている。なぜなら 世界的な戦争を通じて われわれの意に反して ということは A者予備軍らの虚偽を含んだアマテラス言語の二重性(すでにこの昼と夜との二重性は 部分的・局面的に知られていたが ヤシロ全体主義が説かれ総動員されたことにより まさに常識として より一層あきらかになった)に従うことの不信実を知りつつ 意に反して《死》を引き受け また これとともに それまでの長い・A圏によるS圏のヤシロのふところの侵略という自己の死に思い到ったことは 資本(愛)関係として 身体の運動とともなる心の回転が すでに現われたのであると言わなければならないから。これは 学問以前の赤裸々な現実であるから。アウグスティヌスとアリピウスとの共同主観は すでに現実である。
このインタスサノヲイスムが なお密教的であり 時に タブー視されている分だけ 残像としての国家とその共同観念が 顕教としてのアマテラシスムとなって覆いかぶさっている。しかも 完全にすでに蜃気楼閣としてある。それは たしかに一つの像として見えるが どこまで追っかけて行っても そこにその現実はないのである。
しんきろう閣の古女房が なお観念現実である分だけ S圏・殊にその中の会社(生産態勢としての資本)が 滅公奉私と言ってのように 逆に 優位な位置におかれる。これは 蜃気楼を否定する対抗しんきろうである。
また 告白といった主観共同化に必ずしもなじまないわれわれは 顕教的な・明晰なインタスサノヲイスムとしての《アウグスティヌスとアリピウスとの関係(資本・愛)》に 照れる。通説に反してむしろきわめて個人主義的な日本人は 郷土愛 自己の趣味の愛 また或る種 伝統的なと言われる旧い文化形式への愛 あるいはそして 会社への愛等々をとおして これらをとおさなければ 共同主観しないのである。A圏の住民が なおその棲息圏を保守しようとして われわれS者に甘えてくるから その分だけ 自己の内なるヤシロの愛=そのような資本形成形式を おほやけに表明し 主観共同化することには照れる。
《わたくし》を貴ぶことは 何か罪だと思う。罪をみとめて顔を赤らめなければならないのは このS者市民に思いやりをかけるのだと思い込んで実は 甘えを寄せてくるA者公民の側である。しかし この甘えは 残像としてでも われわれ市民S者の中にも 現実であるからでもある。A‐S連関体制の共同観念しんきろう(大和)をうたうA者予備軍の歌のメロディは 実に甘く切ないしらべを持っている。
マニケイストたちの罠は――光の天使に変身し 自己が義(自由)に仕えていると見せかけ そのかれらがやって来るとき この甘えを受け止めるわれわれにおいて―― まだ完全に《砕かれ棄てられて》いない。また これを 自己じしんの力で 砕くことは 容易ではないと考えられた。
したがって 人間キリスト・イエスが この悪霊や悪鬼であるところの――なぜなら かれらは甘えていなければ 生きられない―― マニケイストないしA者予備軍の 親分である悪魔サタンを あの内なるヤシロにおいて われわれと同じ死をもって 征服したまうたと考えられた。この霊的なヤシロのふところなる共同主観を 基本的にあのマルクスが継承しのだと考えられた。しかし スサノヲのミコトは タカマノハラA圏のアマテラスオホミカミに ヤシロ全体の統治(罪の共同自治)としては 譲歩したのである。
かれの子孫であるオホクニヌシのミコトは このA圏に《国譲り》をしたのである。《甘える》ことをゆるした。いつまでか。アマテラス予備軍のヤシロにおける解放が成就するまで。
かれらが 甘えることなく その独立主観において生きることが出来るようになるまで。ところが ここへ ヤシロのふところなるスサノヲ者のいのちを 顕教的・明示的に表現して行為するマルクスが入ってきた。キリスト史観が伝えられた。(キリスト宗教は すでに聖徳太子の時代に伝えられたという説もある。いづれにせよ ヤシロイスムは ここでは 密教的であった。)
こうして 《いわば安心の光とでもいったものが心の中にそそぎこまれてきて すべての疑いの闇が消え失せてしまった》とあからさまに告白するアウグスティヌスなる一人物が わたしたちの前にある。
このあからさまな告白 もしくは 《宣教という愚かな手段》(コリント前書1:21)について 外交官パウロは あるいは弁明して 次のように言っている。

私たちの奉仕(愛の火によって燃え立たしめられた資本形成行為)が批難されないように いかなることにも人に躓きを与えないようにし かえってあらゆることにおいても神の奉仕者(自由の王国を 天に上昇して行って求めるのではなく この必然の王国の中で 思惟し実践する者)として私たち自身を勧める。
・・・(理論はその手段である。)〔すでに《S‐A連関主体》として本性において互いに密教的に共同主観者であるところへ 顕教的な愛の火によって融解させられてのように 主観共同化を語るのであるから〕 誘う者のようで しかも真実であり 人に知られざるがごとくして しかも知られ 死ぬばかりでありつつ(なぜなら 譲歩している。死を引き受けた) しかも見よ 生きている。
懲罰を受けているようであるが 殺されず 悲しんでいるようであるが 常に喜んでいる。貧しいようであるが 多くの人を富ませ 無一物のようであるが すべてを所有している。
(コリント後書6:3−10)

しかしわたしたちの方法は すでに現代において 直接的な主観共同化に 照れることはないが この直接的な共同主観において 神といった言葉は 用いない。用いる必要はない であった。(ここでは あたかも《小説アウグスティヌス》を書くために出て来ることをうまく処理しきれていない。。また マルクスをさらに継承するためには――適切に葬るためには―― 一度は 必要である。宗教の神と それに対抗する物質と 信仰の神との問題になっている。同じくまた単純には アマテラスオホミカミやスサノヲのミコトが 神と呼ばれた物語があることもからむ。)
宗教の神は 死んだとあらためて述べて そのあたりに 方法の生きる道があると捉えるし じっさい生きつづけていると確認しておこう。
(つづく→2006-12-31 - caguirofie061231)