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哲学いろいろ

#5

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Carthage

The term Carthage (Greek: Καρχηδών, Arabic: قرطاج also قرطاجة, Latin: Carthago) refers both to an ancient city in North Africa located in modern day Tunis and to the civilization that developed within the city's sphere of influence. The city of Carthage was located on the eastern side of Lake Tunis across from the center of modern Tunis in Tunisia.


À 16 ans, il part à Carthage pour y parfaire son éducation. Là, il délaisse la religion pour s’adonner à l’étude de la rhétorique.
Il n’a pas 20 ans lorsqu’il prend une concubine avec laquelle il a un fils.
En l'an 375 il enseigne la rhétorique et l’éloquence à Carthage,

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第三章 《自由の王国》は アマテラス予備軍のやり口であって 幻想である

――マニ教徒たちの罠とそのやり口――

私はそれ以上 読もうとは思わず その必要もありませんでした。この節を読み終わった瞬間 いわば安心の光とでもいったものが 心の中にそそぎこまれてきて すべての疑いの闇は消え失せてしまったからです。
アウグス ティヌス 告白 (下) (岩波文庫 青 805-2) 8・12・29 本文第一章に引用済み)

というのが 《光と闇》の二元論に立つアマテラス予備軍の罠からの解放であったと解釈することができるようです。これを前章で見てきました。わたしたちは この《マニケイストたち》に付け入らせないためには さらに議論をつづけます。
わたしたちは かれらの学問と宗教につけ込まれないためには 新しい学問と社会の形成が必要であり このための方法を なお論議し続けます。なぜなら 一方で アマアガリする者もなお経験的に 《五体の内にある罪の法則》を免れないことと 他方で だからこの罪の法則(《夜》)に対抗するべき精神の法則(《昼》)を 律法として どこまでも問い求め その律法のもとに 両者のせめぎあいを明らかにしていくという二元論による罪の共同自治(A‐S連関体制)の保守に走るアマテラス予備軍主義とは 別のことであると考えるからです。
《昼と夜)との二元論に立たないためには だから この罠に陥らないためには この方法論〔とそして新しい学問と文化の再生復活と〕が 必要であり またこのことが ある程度は自然史過程として起こってくるとしても 起こってくるであろうから ことさら必要ではないであろうとしても それが こうだと確認することは必要である。
これは 歴史の未来の先取りではなく 現実・現在が そこまで来たのであると考えられる。なぜなら すでに十九世紀の人・マルクスが このことを りんかくとして明らかにしていなかったとは言えないから。

すなわちそれ(コミュニスム)は すべてのいままでの生産関係ならびに交通関係の基礎(A‐S連関体制とその支配方式)を変革し すべての自然成長的な前提(罪の法則に傾くその傾向を言っている)をはぎとって 結合した個人たちの力(インタスサノヲイスム)にそれらを服従させるのである。したがってコミュニスムの建設は本質的に経済的であって この結合の諸条件を物質的につくりだすことである。
ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫) 1・C)

というとき 《自然(身体・S者性は 自然である)成長的な前提》が――自然本性とその成長は そこにアマテラシテの光を宿した人間存在の全体を言うはずであるが―― 註解したように パウロの言う《五体の内に住んでいる罪(時間的存在性およびこの存在が 善悪を時間的・人間的に判断するその有限知)の法則》のことであると解するなら これを人間みづからの手で《はぎとって》というその文字じたいには 少々の抵抗を示さなければならない。しかし インタスサノヲイスム(その生活)が コミュニスム共同主観( common sense )であると見る。したがって いま述べようとすることは 未来の歴史の先取りではなく また 未来社会の理想像といったようなものから 現在を裁断して何らかの変革作業を敢行しようとすることでもない。この意味で このような前提で わたしたちは 議論を――ここでは 方法にかんして――つづけたいと思う。
なおまた マルクスの批判する《ドイツ・イデオロギ(観念的な思惟の体系)》とは ここで言うアマテラス予備軍のわなにほかならないとさえ考えられる。あるいは かれが 《コミュニスムの建設は本質的に経済的であって・・・》というのが 従来の生産・交通の関係の基礎たるアマテラス圏主導支配のA‐S連関方式の変革のための手段としては そうであると考えておきます。


この時代(マニケイスムに陥っていた時代) 私は修辞学(アマテラス語をいかによく巧妙に用いるか)を教えていました。情欲(非アマテラス語)に打ち負かされながら 駄弁(ますます人間的となった・かつ A‐S連関制に連れ添う虚偽に満ちた国会等における偉いさんたちの答弁術)で他人を打ち負かす術を売っていたのです。
(告白 4・2・2)

この《回心》が ここに続きます。これを つづいて語らねばならない。アマテラス族の狡猾な修辞学に ヤシロのふところを《侵略》させないためには。かれらのつけ入るすきを与えないためには。すなわち かれらの欠陥 つまりその外から入ってきているわれらの欠陥 これを憎み――徹底的に憎み―― かれらを つまりわれらを 愛するためには。復活 解放と 言ったのであるから。


しかし主よ――とアウグスティヌスは《告白》をつづけます―― あなたは はるかかなたから 〔アマテラス予備軍方式によってアマアガリすると認識しつつ 実は〕坂道をすべり落ちながらもなお 濃い煙の中にきらめいている私の信実をごらんになりました。
(告白 4・2・2)

と言う。マニケイスムの罠にはまりながらも 《信実 fides 》があったとしている。かれはこの信実の例を三つ挙げている。わたしたちは すでに《告白》を通過してきた者として この告白を読まねばならないであろう。ここでは 二つ目の例を見てみよう。

その年頃 私は一人の女性と同棲するようになっていましたが それはいわゆる合法的婚姻によって識りあった仲ではなく 思慮を欠く落ち着きのない情熱にかられて見つけ出した相手でした。けれども私は かのじょ一人をまもり かのじょに対して閨(ねや)の信実をつくしました。この女性との関係において私は 自分の経験によって 子を産むことを目的に結ばれる婚姻の契約の節度と 情欲的な愛による結合とのあいだに 何という大きなへだたりがあるかを 身にしみて知らされました。情欲的結合のばあいにも 子は親の意に反して生まれます。いったん生まれると その子は愛されずにいられなくなるのです。
(告白 4・2・2)


・・・かれ(子アデオダトゥス)は 肉にかんして言えば私の罪から生まれたものですが あなたはこの子をりっぱにお造りになりました。・・・
《教師論》(アウグスティヌス三十五歳のときの書。かれとその息子のアデオダトゥスとの対話の形式をとり 人間に知識を教えうる者は人間ではなくて 人間のうちなるキリストであることが結論される――山田晶)と題する私の書物がありますが この書の中でこの子は私と語っています。その中で 私の対話者の名において述べられていることはことごとく あなたのご存知のように この子の考えたことだったのです。当時 かれは十六歳でした。私はこの子については なお多くのもっと驚嘆すべきことを経験しました。その才能に恐れをなしたほどです。あなた以外の何者が このような奇しきわざをなすことができましょうか。
(告白 9・6・14)

これらは 端的に 《もっぱらのアマテラス者のA語方言たる修辞学》を超えていると言わなければならない。むろん 《情欲(S者性)と信実(A者性)》の連関しあっている本質(存在)を述べているわけですが ここに《〔ただ客観A語による〕信実主導支配のA‐S連関制》方式たるアマテラス語方言の蔽いがかけられているとは 思えない。親ばかぶりは S語のものである。
むろん 情欲・S者性・罪の法則 つまりそういった《つねに必要に迫られているという必然の王国》が 賞賛されるべきだとは考えられない。けれども これらの中にも――たしかに《わたし》の主観的になのだが―― 信実があったと言って この過去の古き人が死なせられるのは この情実の世界に対して《もっぱらのA者》として正しい人となるという《昼と夜との二元論支配方式》 これなる罠から脱け出すことができることによってのみである。
《〔ただ抽象客観的な〕信実の 単独主導支配なるA‐S連関制方式》が 《一日》を 昼と夜との二元連関支配の世界と見なし そのままを形取ろうとする。わたしたちは このA者予備軍らが繰り出すアマテラス語方言のうた・そのメロディを 見つめてはならない。なぜなら 情欲または情実の世界においてもすでにそこで この信実のうたは 聞かれるからである。権威あるA者方言なるただ抽象客観的の信実を その上に輪をかけて 蔽いかぶせて 聞いてはならないし その蜃気楼による信実の二重性(昼と夜との)に引き渡されてゆくべきではない。
もっとも 公民・社会科学主体としてのアマテラス者じたいは 必要であり現実である。むろん このS者‐A者連関形態としてのヤシロに 輪をかけて A者優位論のしんきろうなる昼をかもし出させ (S者優位・国民主権といううたを歌うことによって A者優位論を保持し) みづからは夜に打ち負かされながら S者を打ち負かそうとする予備軍の罪が 問題である。
ただ さらに これらA者予備軍が ヤシロの中で解放されるのは かれらのその欠陥を取り除くことによってではなく その罪の傷が癒され かれらの自己が回復することによってである。目に見える現実としての《A(主導支配)‐S連関制》方式そのものの中で 一個の《S‐A連関存在》なる自己とその信実を見出し これを回復することによってである。
けれども――すなわち この自己のアマアガリは たしかに心の回転であって しかしながら――この心の回転に対してなお かたくなにされるもっぱらのアマテラス者らは かれらの中に《夜に打ち負かされない一人の代表者》を必要とし これを求めて 立てる。すなわち 象徴としてのアマテラス者つまり アマテラシテ( amatérasité )であり このアマテラシテ象徴者が かれらA者のでなくむしろ 一般市民スサノヲ者らの模範であることによって かたくなな《A(主導支配)‐S連関体制》が 安泰となるという仕組みである。
むろん このアマテラシテ象徴者は 日本のヤシロ形態においては 天皇陛下その存在であるが もし陛下が そのお人柄によって S者市民の模範であられるとするなら――このことは一般市民にはよくわからない部分があるが だから 模範であられるとするなら―― ヤシロ形態の中の公的な役割を担うA者としてではなく 同じ一個の市民S者としては このヤシロの生活一般にかんして あるいは何らかの感慨なりとも 発言されることを わたしたちは 期待する。スサノヲ語=人間語を期待する。
けれども 一般にA圏の人びと(政治家)は かれらに仕えるA者予備軍の人たち(評論家)とともに 陛下のお人柄(S者性・S語としての信実)を抜きにして これにあたかも蔽いをかけるようにして なお《昼‐夜》連関の統治方式を A語弁論術を最大限に駆使して 保守しようとする。いいか悪いか(価値判断)の問題ではなく まずこれが 《A‐S連関体制》のヤシロ統治方式の公然たる秘密である。陛下も ということは わたしたちも このヤシロの共同自治方式にかんしては 自由にもっと発言すべきであると 時に言挙げしなければならない。

それにしても主よ――とアウグスティヌスは 神に向かって告白するのであるが―― ご存じのように 私は善い学生たちをもちたいと願っていました。それは世間でいわれる意味での《善い》学生でしたが。そしてだます気はなくて かれらにだます術を教えていました。これらの術は 無垢な人の身上をそこなうために用いられることはありませんが 有罪の人の身上を弁護するために用いられることが往々にしてあるのです。
(告白 4・2・2)

したがって ここで《有罪の人の身上(つまり 《わたしたち》)を弁護するために用いられることが往々にしてある》アマテラス語洗練の修辞学にかんして――もしくは 幻想的な《昼》にかんして―― この罪を取り除くことによってではなく この罪的存在の中にも わたしの自己を問い求め見出しこれを回復させることによってであるということは 《一人の女との情欲的な結合》の中にも これをアマテラス語客観信実によって批難するのではなく そのスサノヲ語の中に スサノヲ人間語およびアマテラス語の信実を見出さしめられてのように 自己還帰することによってであると考えられる。
これは実際 アマテラス語信実(あるいは 学問的真理)の単独尊厳としての《主義》が 《打ち砕かれ棄てられる》ことによってでなければ――そしてこのA者予備軍のわなを打ち砕くことは あの罪の法則が人に無縁ではないからには 生きている限り 人間みづからの手によっては・その力によっては 為しえないであろう―― 可能ではない。けれども 神は――もしこの語を用いるなら―― かれが 罪の法則に支配されているわれらを その夜へは渡さないというとき ここで 一つに 人間みづからの手によって この生を終わらせて アマテラス主導体制を打ち砕くなどということをせず もう一つに ただ現行の(キャピタリスムの)A者予備軍の罪を 別種の(ソシアリスムまたは それぞれ反対の)A者予備軍となって もっぱら批難・批判しつづけるということによって 打ち砕こうとするのでもなく したがって 《わが神 わが神 なにゆえ・・・》と言ってのように あたかもそこで古き自己が死なしめられてのように  木(十字架)の舟に乗って 罪の法則の海を渡ると考えられた。天皇陛下も あの敗戦を契機として そのS者性・《わたくし》性が 死なしめられていると言うときには このようなS者市民のひとりであられると考えられた。
それは 《夕となり 〔夜へは渡されず〕 また朝となった。第一日。・・・》(創世記1:5)と書いてあるとおりであろう。《一日》の構成が 昼と夜との半分づつから成ると人は 思う無かれ。
《神は――となおも 神学的に申すならば―― 〈光あれ〉と言われた。すると 光があった。神はその光を見て 良しとされた》という。《良しとされた》という。その前に 《闇が淵のおもてにあった》。かつ 《神の霊が水のおもてをおおっていた》。霊とは 精神(魂)でも肉体でもなく これらの生命だと考えられる。人間にとっては 社会的に 《現実》と言ったほうがよい。この《現実》=霊は いわゆるこの世の現実つまり闇や夜の外にあるのではなかった。人間が存在である・つまり善である限りで。
しかしその人間の善と この霊=《現実》からの光とは 区別されたが 見えなかった(ヨハネ福音1:10)。しかし 《必然の王国から自由の王国へ》というふうに 過程的であったにしろ 二元論ふうに史観すべきでもない。自由の王国が 未来社会であると――つまり 時間的な未所有としてあると――考えるなら これも明らかに しんきろうであり A者予備隊のわなである。《今が 〔回心への〕恵みの時 今こそ〔アマアガリへの〕掬いの日である》(コリント後書6:2)とパウロは言った。使徒(アポストロス)とは 外交官のことであるから かれは このように神の国の外交を展開する。
けれども 神の国は――日本のヤシロも《神国》とともあれ共同主観されたことがあるが―― 《今》というのであるから 《今》とは 時間の概念であり それを所有し行為する現在時であるから 神の国は 《必然の王国と自由の王国との連関から成るヤシロ》の中に人があって 問い求め見出されるべきか。罪の法則の支配する必然の王国の中で この海を超えて存在するスサノヲ者らの祖国を 《自由の王国》と見て描くことはありうることである。しかもこれを 抽象普遍的な概念を伝えるアマテラス語を用いて スサノヲ者の真実として 科学的に知解するなら――知解は 全面的にではないであろう―― 信じられるべき光である。その似像であろう。ただ この知解し表現された光は 《光》を部分的に見たものであって 神そのかたではない。かれは 《光あれ》と言ったのである。《この光を見て 良しとされた》という。だから この光を見て これを《自由の王国》として捉えて思惟するその思惟している自分をおもうべきである。必然の王国の中で自由の王国を思惟しもろもろの社会的行為をおこなう自分をおもうべきである。
だから かれは いや きみは この海を あの木の舟に乗って(そこから 光が与えられる)渡り 市民の祖国にたどり着こうとしているのだ。天皇陛下も――そのお人柄を存じ上げないが―― S者市民であられるなら わたしたちスサノヲ者と同じであり アマテラス者らも そのヤシロ的な役割分担を超えて S者に立つなら 同じなのである。みな 神の国の外交官として歩んでいるのだ。インタスサノヲイストは いまただちに この天の国へ上昇していこうとは思わない。これを描こうとしている現在の自分をも思っている。この海で 夜へとは渡されずに 次の朝を迎えうるのは 自分の権能(A者能力)によってではないと知っているから。自由の王国を思惟することはよい。自由の王国を説こうとすることは 予備隊への坂道をすべり落ちることであろうか。

サタン(悪魔・悪霊)でさえ光の天使を装うのです。だから サタンに仕える者たちが 義(自由)に仕える者を装うことなど たいしたことではありません。
(コリント後書11:14−15)

ただ 光と闇 善と悪との二元論に立たないなら 《光の天使を装う》ということなど 出来っこないということになる。われわれには この《幻想的な昼》《しんきろう信実のおおい》がかけられている。かけられていた。このやり口 かれらの策略を しかしわたしたちは 知らないわけではない(コリント後書2:11)。
(つづく→2006-12-29 - caguirofie061229)