caguirofie

哲学いろいろ

#7

もくじ→2006-12-10 - caguirofie061210

§5 経済成長とは何か

集計概念としての経済の成長は 法学があつかうものである。しかも あつかうときは じっさい 個別的な信用関係に降りてくることができる。
法学は その意味で 信用関係の監視役のように見える。訴訟の処理は じっさい あくまで事後的ななのだが 交通(生活)の理念にもとづいて交換の規則を作成しあうことじたいは 事前のものでもある。事前の規則にもとづいて そしてさらに規則じたいも吟味しながら あくまで事後的に 個別の信用関係を 〔抽象的・客観的にも〕検討し それらが処理され終わって もし 集計されたなら それは 法学的な観点から捉えた経済の成長をしめすということは考えられる。
経済学は しかしながら これらの集計的な成長という観念からは 無縁である。すくなくとも 自由である。
集計概念としての成長で 法学的に見た 生活価格の総体の成長・その意味での経済の成長をしめすことは 可能である。ただし それは その時代の交通規則にのっとった経済成長の価額だというにすぎない。そのばあいは たしかに この総体概念も 個別的な・主観相互の信用関係の成長ということと つながっているであろうが 経済学は 規則から自由である。そもそも自由であり そもそも動態過程的な 有効需要と有効供給との一致を めざし おしすすめていく。価格の成立は おのおの主観の動態である。
すなわち 経済成長とは 個別的な主観の概念でしかありえない。自己信用の動態なのである。
このことは どういう内容をもつと考えられるか。
すでに議論したこととしては 経済学は 交換価格の利潤損失から自由だということ したがって 交換をあくまで 有効需要としてつねに進めているということである。まぼろしの定義は そうであり さらに言いかえると じっさい 利潤はないということである。
有効需要が有効供給をよび 供給が有効需要によって有効供給として受け取られ これらの有効供給が さらに新しい有効供給をよんでいくということ この成長循環が 構造過程的でもある経済の成長であるしかない。《価格の成立》の社会的な発展 これが 経済の成長なのである。
ここでは 法学による監視・調整は それを無視・排除しないで しかも経済行為の背後にひかえるかたちとなっている。経済学行為は 自己信用の動態・つまり自己の利益の おのおの個別的な 追求であり それでしかない。成長は これの やはり主観的な 発展過程を言う。もちろん 価額の増加をともなってよいわけである 一般に。
言いかえると 自己信用の自己が 経済学的に 政府だということになる。ここで 経済の成長が そうだとすれば 省みられる。これは 経済学的な反省である。法学的な反省も 国民所得といった集計概念としての成長を 〔そしてそれのもとにおける各種の政策を〕 議論しうるけれども これをおこなう政府は 交換信用の代理であるか それとも 一般的に生活信用の代理として 交換信用の調整役であるかであり 経済学行為を その意味で離れている。
この政府には 自己信用はない。自同律・自己の同一性という事態はない。この政府は 経済成長を 議論できない。推進することはできない。推進していない。それは 経済の成長と 無関係ですらある。
社会形態的な政府の無は 経済学的な政府の有つまり自己信用 の社会を言っている。これは 経済学の問題である。そこで 法学が経済学の背後にひかえているというのと同じように 社会形態的な政府も その役目を負うかたちで存在するということになるはずである。経済学は これを言わないとしたら 自殺行為におちいると考えられるのである。
外の政府は わたしたちが内の政府において有効需要と有効供給との一致をはかるとき 或る種の仕方で ただしあくまでその価格成立にかんする個別案件を 個別案件として 調整するかたちで その役割をになうであろう。社会総体として調整するというときにも 個別案件のその場をとしてである。国家的な経済計画としてみるかどうかにかかわりなく 個別案件およびその場を調整していく。その意味で 交換信用の代理である。
経済学の生活信用は 交換信用から自由であるが 交換という補助の場を必要とする限りで 交換信用を成り立たせてはいるし 時に応じて 交換信用の代理をとおして 自己信用の動態をすすめる。経済の成長の一手段である。
じっさいには すでに 言うとすれば そこでは 交換信用を無化しており 交換信用という代理は 有効供給(ないし有効需要)じたいの補助的な役割をになうにすぎない。言うまでもなく 交換信用という代理は 交換信用の問題(矛盾)を無化するための手段である。ここに(この定義に)矛盾があるとすれば 外の政府は 生活信用の・つまり内の政府の 代理となっているとも考えられる。(法律〔憲法〕は そううたっている。)そのことは 外の政府がつまり法学が 生活信用の補助であり それに後行する領域であることをしめしている。このことは 経済学行為すなわち自己信用の 歴史的・社会的な 成長〔の一側面・一段階〕をあらわしている。これが 経済学の成長であり 経済の成長の推進力である。
わたしたちは 経済学を 理論として 議論している。価格は どういうふうにして 成立するのか これである。
景気の変動 これは ありうることである。景気の変動を捉えること これは 民族認識である。景気の変動に対処すること これは 交換信用の問題である。供給信用および需要信用をふくめて それぞれの問題である。交換価格の 互いにとって 安定的な形成・確保を ととのえているわけである。そのために 供給を有効に調節したり いわゆる有効需要を起こしたりする。このことは 実際には 自己信用つまり供給者・需要者の一人ひとりが おこなうことである。
景気の変動は あってよいのである。けれども そのために 自己信用を 信用しないという法はない。生活信用を 交換信用にとりかえてしまうことは ありえない。信用関係を信用しないで 交換信用にとりかえ その代理となる。代理となって 景気の変動に立ち向かうということは 狂気である。自己信用を離れたから。援助・協力は 生活信用の動態の一環である。
有効需要そして それゆえに有効供給をおこしていく そこに 景気の変動への対処も おこなわれている。交換価格の信用倒れといった景気の変動 への対処も そこに おこなわれていく。景気の変動ゆえに 有効需要を呼び起こすのではない。交換信用ゆえに 其れを代理して 経済学行為するのではない。交換信用ゆえの交換価格の増大(獲得)をはかるそれとしての経済成長は 狂気の成長である。そこでは 景気が悪い。不景気ゆえに 景気をよくしようとする。人びとは 需要の有効で承認することをもって あとから ついて行かざるを得ない。需要の有効とは この景気にさからうことでもあるが いづれにせよ ついて行く。これが 社会である。自己信用の関係総体つまり価格の成立ということである。
(つづく→2006-12-17 - caguirofie061217)