caguirofie

哲学いろいろ

#4

もくじ→2006-12-10 - caguirofie061210

§3 供給とは何か

価格――生活――の成立が 市場における交換に・そしてさらには供給行為にも それらを予定しつつ 先行するのであるが 需要が あらゆる場合に供給に先行するとは 言おうととは思わない。ただし 供給行為は――つまり 個人的に考えているから 労働は―― それに 労働の欲求という需要が 先行していたはずである。つまり 生活が 先行している。
生活(生活観)において価格が成立するということは 需要に見合う供給行為においてそうだというのと 同じである。つまり 有効需要は 有効供給である。もとめる欲求は さがす欲求・つくる欲求・あたえる欲求と おなじものである。あたかも結婚においてそうであるように 有効需要が有効供給に一致する。あたえる者によるあたえられる者への――その交換をつうじての――支配が ではない。
価格の成立に 利益が――市場における交換をとおして そしてさらにその前には 需要についての・あるいは供給についての 生活観=知恵の発現に 或る種の利益が生まれるというようにして――あっても よいわけだが そのときにも 利益の有利者による不利者への支配がではなく 有効需要と有効供給との一致がある。
ところが――つまり 上の一致は 定義の問題であるが―― 交換における有利者の 不利者に対する利潤は あたかも一方的に 蓄積・増殖されて 社会生活のうえで 支配と被支配とがあらわれているというのも 経験現実である。無効の価格成立が 実効性をもっている。交換は 等価交換なのであって これは 生活観における価格の成立ということの基本的な内容に たしかに一致している。その限りで 無効需要また無効供給も 実効性をもちうる。
ここで 価格の成立の有効性は 有効性そのもの(つまり生活)と 実効性をもった無効性とを あわせ持つ。無効需要が実効性をもちうるのは 精神主義による供給ないし交換が 精神によって おこなわれる つまり 等価交換を前提し 法学に支えられて おこなわれるかである。外形的にしろ経済学行為が 成立すると見なされる場合である。まったく精神にもよらないところの だから だましの等価交換によるところの 価格成立は 無効であり 違法として罰せられる。これは 論外である。
有効な価格成立は 有効性を精神主義という精神によって想像し この想像裡に〔おそらく 自己ひとりの〕精神の現象としておこなう逆立ちの等価交換が すでに合法的である限りで実効性をもった無効の価格成立と 混同する。有効需要においてそうであって 有効供給においても そうである。
有効でないのに実効性をもった価格成立は 一般に 依存効果の現象と言われる。需要を見つけ出した限りで これも 事後的に 有効供給であったと承認されるところの 依存効果としての価格成立。相手と結婚するのではなく 結婚という概念と結婚する。結婚式という手続きを満たしたなら 結婚は成立すると考える精神の別種の形態。ただし 供給という経済行為が有効であることとは 別である。その別なところで 無効性ないしそれが実効性をもつことが 論じられる。
これは われわれの経済学の問題であり 法学は もうほとんど かかわらない。倫理学も いまこの経済学と区別する限りでは もう式――規範公式――のほうにかかわるのみである。
問題は しかしながら 有効需要と有効供給との一致の手続きの場 もしくは 手続きそのものとしての 等価交換のほうに むしろ焦点があてられる。
生活観も たしかにそれ自体 観念的で精神的な認識作業および判断行為であるのだから なるほどこれは 精神の現象である。これを前提するなら すべての生活観は――そこで価格が成立するすべての生活観は―― 倒錯の経済学行為か。交換のために・交換の利益のためにおこなうただの経済行為か。
したがって 問題は 有効供給が この倒錯した無効の生活観と 混同するところにある。この混同を なくすことにではなく 混同のなかで はじめの有効性を追求することにある。これは 経済学行為である。つまり 生活観である。等価交換は 無効の等価の――つまり不等価の――交換と 混同している。合法的に。つまり 有効供給が 交換をつうじて 有効需要と一致するというこの場合の価格成立は――それが 等価交換という問題に焦点をあてることである・そして この場合 交換行為は手続きであるゆえ その理念といったかたちになっている すなわち 有効需要=有効供給という固有の価格成立に 等価交換という手続きじょうの理念が 介在するばあい 故意に介在させて考える場合―― 一致成立のなかに 有利不利を 相互にとって主観的に ふくみうることを意味する。
無効の等価交換は 等価交換という価格成立の理念(ないし倫理学)を 無視し逸脱することのゆえにではなく その理念を守ること・そして交換という手続きじたいを生活の本体としてしまうことのなかにある。つまり 交換じょうの有利の獲得を 自己の経済学行為の目的としてしまうことのなかにあるのだが それでも 精神の行為であり 人間の需要である限り この無効は 実効をもつ。
供給とは何か。じっさい これら 実効性をもった無効の生活観にもとづく供給をふくめたものである。
有効需要のばあいは はじめに そこまで含める必要はあるまい。含めるとしたら 事後的な 依存効果の有効需要としての成立をもってであるだろう。つまり いま問い求める課題は このもっとも広い意味の供給が 有効需要を喚起すると見るのではなく 有効需要が それに一致する有効供給をもとめてすすむということに あるだろう。そのときには 事後的に なるほど 依存効果を含めたもっとも広義の有効需要であってよいし これが 実効性をもった無効の供給を含めた広義の有効供給に 対応すると 社会総体的に捉えて いっこうに構わないわけである。
生活 ないし 生活の推進力は 狭義の有効需要にある。一定の需要がつねに先行して その一定の供給をうむと見るのは ――分業社会では――むずかしいであろうから 供給は この狭義の有効需要と一致しない。ただし 精神の現象(行為)である限り 事後的に 一致してのように対応する広義の供給は 有効供給である。つまり広義の有効需要という見方も とりあげることができる。経済行為として 広義にいづれも 有効だと 学行為において みなされるものである。
経済行為として有効だという意味は かんたんに言って それはやむを得ないと見ることである。やむを得る もしくは やむを得るであろう生活観にもとづこうとするのが 経済学行為である。経済学は 過程的な行為である。
(つづく→2006-12-14 - caguirofie061214)