caguirofie

哲学いろいろ

#3

もくじ→2006-12-10 - caguirofie061210

§2 需要とは何か

需要とは 人間の欲求である。すべての欲求である。たとい購買力がなくても すべての欲求が 潜勢的にも 有効需要である。
人間は過程的な存在であるから 有効需要は 過程的なかたちでしかありえない。過程のなかの一定の段階(静態的な時点)において 購買力を問題にするなら これを過程的であり ということは有限なのであるから 個人的にも社会総体的にも一定の量として測られるいわゆる有効需要というものが 考慮に入れられる。これは わたしたちの言う《有効需要》というものの静態的な一時点における一定の量を言っているか それとも そこから経済学を具体的に初めていくところの概念かである。
経験現実としてある価格の総量 つまりその意味での供給量ないし需要量 これを見て――しかも そこで 《価格は成立している》と考え終えて―― 供給を決めていったり 需要も呼び起こされると考えると言ったりするとき 有効需要はむしろ 市場によって・あるいは 市場そのものを見ている人びとによって 生み出されるといった或る種の仕方のらせん状の進展過程としての具体的な始点となる。らせん状の進展過程に 新しいモノコトの需要したがって供給を含ませれば 単純にこれ。
経済学は 有効需要から――いまだ購買力のない非有効なもの あるいは あっても実現されていないものを含めた有効需要から――始まるのである。つまり 生活から。価格は ここで 成立しようとしている。購買力を――むろん労働力の活用をとおして――得たあと はじめの有効需要を実効的なものにし あるいは 実現させたなら 価格が成立し終わる。その間に 市場がある。つまり 需要が供給に対して立ち会い 交換すなわち 価格を形成しようとする一つの経済行為が 介在して あらわれる。市場という価格形成の場は 経済学行為の付随的な(便宜的な)場であり 手続きとしての経済行為なのである。
結婚は 両性の合意によって決まる。両親らに報告し――同意を得られるなら なおよいであろう―― 結婚式をとりおこなう。これは 手続き上の問題であり そこで ふたりの愛が成立するというものではない。経済学は 結婚式の科学ではない。それに関する――やはり費用などつまり一般に生活費の具体的な経験事実の――基礎的な認識をしないではいないのだから 結婚式の科学を排除することは考えられないが 経済学は 結婚という生活の科学である。また 経済学行為が 生活じたいである。
結婚式――市場――のために あるいは市場における交換から利益を得るために 供給をはかり 有効需要を起こすのではあるまい。これは 手続きじょうの問題である。はじめの――非有効な まだ実現していないを含めた――有効需要が 有効需要を生むのである。そうでない場合は 結婚式を想像裡(精神)において想像したその精神が その市場以外のどこででもなく 価格を《成立》させ 有効需要を喚起し 利益を得ることができると考えるのであって これは 倒錯している。無効である。さか立ちした有効需要である。無効の価格成立である。その供給は 有効でない。
供給され さらに購入されたモノは そこで需要に出会ったのだから そのように事後的な〔成立の〕承認として 有効であるかも知れない。ただ 外側から また事後的に その有効性が 与えられただけである。有効需要つまり有効供給を 生活観して かれははじめて 有効な経済行為をもつ。これら全体の過程が 経済学行為であるが 交換という経済行為は 手続きの問題である。ただ そうでなく 手続きたる交換において――交換の不成立のばあいを含めて――やっと 価格成立という経済学行為をするばあいがある。中ぶらりんd猶予されていた有効価格の成立が そこで ともあれ 支えられる場合がある。
つまり それでも 需要は人間の問題である。先行するものは 主観行為である。
ただし 市場べったりの人も その市場重視という考え方や その考え方にもとづき供給者となろうという欲求は やはり人間の需要行為ではないかという意見が出される。そのとおりであるが と同時にそれは 結婚式によって結婚が成立したと考える人びとも いるという言い訳にしかならないのである。けれども かれらは 離婚や婚外結婚を 考えなければならないようになる。価格は 外側で成立した そのことによって価格成立を錯視したにすぎないとも言わなければならないとき。
ところがわたしたちは 精神主義によって倒錯し 価格成立を錯視するところの 人びとの需要 つまり無効需要〔が実効性を持ったもの〕を含めて 有効需要すなわち有効供給の問題を考えていかなければならない。ただ外側で錯視てのみ成立した価格の 事後的な承認としての有効価格の問題も 人があやまつ存在であるなら 含めて経済学していかなければならない。無効結婚を ただちにその規定事実(経験現実 さらには 後衛としての法学的な手続きを経たという事実)にもとづいて 有効と考えるという妥協をいうのでもなければ――なぜなら 後衛の法学で承認されたといっても それは 後行する領域でしかなかった つまり 合法性というのは 先行経済学の外形的な行為にしか過ぎないから―― あるいは 無効なのだから現状復帰せよ・つまり離婚せよとそそのかすのでもない。
中ぶらりんであったものを その足を地につかせるという 事後的ではあれ 価格成立 これを含めて すすまなければならない。そのとき 既成の結婚の再成立としてであるか 離婚を経たあとの新しい成立に向けてのであるか いづれにしても その再出発は 基本的にこれも 経済学行為であり 付随して 手続きとしての法学の問題である。むろん倫理学も考えているはずである。
(つづく→2006-12-13 - caguirofie061213)