caguirofie

哲学いろいろ

イスカリオテのユダ小考(つづき)

2006-12-04 - caguirofie061204よりのつづきです。

イスカリオテのユダのちいさな物語

だから まったく別の角度から かんたんな虚構の物語をえがいて ユダの人となりを あきらかにしてみたい。そういう手法をとりたいと思う。

なお前提事項の再整理を

本論のユダ物語を もう少し待って欲しい。前提となることがらを やはりさらに整理しておくのがよい。

ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った

正統派カトリックおよびプロテスタンティスムの側から 《人の子(つまりイエス)は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く》とイエスが言ったというとき それは 裏切りかどうか あるいは 十字架上の受難かどうかを 別にしても 要するにこの世から《去っていく》ということが言われている。だから その去り方の実現のために 仮りにでも《ユダの寝返ってのイエス引き渡し》が 必要であったとする見方が 出来ないこともないと言えそうである。
たとえば 最後の晩餐の席上で 裏切りをイエスが予告するように指摘する場面を 今度は ヨハネなる聖書記者は 次のように記している。

その弟子(ヨハネ)が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、《主よ、それ(裏切る者)はだれのことですか》と言うと、
エスは、

わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ。

と答えた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えた。
ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。
ヨハネによる福音書 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)13:25−27)

《サタンが彼(ユダ)の中に入った》というのは ユダが この裏切り行為をするための悪意に陥ることを言うのだと思われる。ということは サタンなり悪魔なりがそうさせるとしても 神がこれを許さないことには 起こらないことだと言ってよいから やはり イエスの《真の私を包むこの肉体を犠牲に》するこの官憲への引き渡しの行為は キリスト・イエスが ユダにあたかも頼んだかたちであり その悪の行為を許したという解釈が 成り立つようである。

  • いまは 経験科学で証明しがたいことがらを議論しているので 一般に通じるかどうか心配であり 恐縮でもあるが ひととおり述べてみたい。ユダ派の見解に対しては このように議論せざるを得ないように――わたしの力不足とともに――感じられる。

要するに イエス・キリストは キリストとして この世から去って行くために 悪の行為をも利用・善用したのであり そのことのために ユダという一人の弟子を用いたのである。こう言ってよいであろう。
ただし それは ユダの自由意志による判断と選択の結果である。聖書記者は サタンがかれの中に入ったと記したあと

そこでイエスは、

しようとしていることを、今すぐ、実行しなさい。

と彼(ユダ)に言った。
ヨハネによる福音書 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)13:27)

と書いている。

悪の善用

詳しい議論をすることができないが 去って行くことによって 人びとの心に 人びとのあいだに 和解が成り立ったと言わなければならない。その素地をつくった。永遠の素地である。どういうかたちであれ 世界中の人びとに広まった。
人間イエスとして 涙を流しながら このいわば務めに就いたし 反面でキリストとしては その務めを実現させるために――人間の力では とうてい出来っこないところの――悪の利用・善用ということを ユダという人間の行為において おこなったのである。
そもそも 悪魔が人間に入り 人びとのあいだで 信頼も持ち合えず 和解が成り立ち得ないほどの社会情況の出現を ゆるしたのも 神のしわざであったし――と言っても 人間の側の 自業自得であったと考えられるが―― この情況に 基本的に根本的に 終止符を打つことを図ったのも 神であるだろう。かも知れない。後者の歴史は キリスト・イエスの出現によって なされたのであろうと捉えられ そのとき 人間の人間による裏切り行為という悪が 利用されたという虚構である。
こういう《作り話》をするのは ひとえに ユダ派が われわれを馬鹿にしたままでいることのないように かれらに 批判の対象を供するためである。議論の場を申し出るためである。われわれを馬鹿にするのは かれらの自由だが そのままの状態に放っておくことは われわれに自由だとは言い難い。なんとかして かれらの隣人にならなければいけない。手を差し伸べて そのあと かれらが そのままの状態にいつづけることは 自由であり われらも もはや そこからは自由であろう。

一人の人間が去って行くことで・・・

一人の人間が去って行くことで この世に ささやかにでも 和解と望みをもたらしうるというのは あまりにも ばかげた作り話である。ただし かなり多くの人びとが この話の真実を信じたのである。
たとえば 裏切りでなくとも いわゆるイジメに遇って 去っていけば 真実と和解の心が伝わると思った子どもたちがいるかも知れない。自殺であれば 悪の善用どころか それじたいが悪の行為になってしまうわけだが――自分で自分を裏切ることになるから―― そういうあらためて言ってみれば 愛の行為を目指してのこの世へのさようならであったかも知れない。
ただ こころを鬼にして言えば それでは 何にもならない。つまり もうすでに イエスがその愛の行為は おこなったのだから 二度目は必要がないし 不必要をおこなうのは 無駄である。

  • つまり このばあいの無駄は なんらイエスの行為を信用していないという意味を含む。とすると 信じた人びとにこそ イエスは信用できないということを説明するのが 筋である。二度目の愛の行為を敢行するのなら そのあたりをしっかり理論立てて説明してからが よいだろう。

つまり もっとも イエス・キリストは 信用できない だから おれが あたかもほんとうの救世主になるのだという者がいたかも知れない。その場合は かれ または かのじょをめぐる遺された人生の物語が・その中味が 決定するであろう。
逆にいえば もう――これまでのところ じんるいの歴史じょう―― 二人目のユダとその反逆行為を出す必要はないということである。ユダの悪行が 善用されなかったなら 必要となったであろう。悪魔のわざをも それを善用するために ゆるすという存在によるのでなければ なにごとも おだやかでは済まないことになる。
だから ユダ派は このようなイエスの歴史物語をも対象として 自らの見解を述べるとよい。ユダが裏切り者ではないという点だけを 言い張るという姿勢に変化が欲しい。
(つづく→2006-12-06 - caguirofie061206)