caguirofie

哲学いろいろ

#24

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第三章 日本国由来記

第三節 仮りのでない国家があるとしたなら

神皇正統記 (岩波文庫)》が  《天つみ祖はじめて基を開き》というとき――神話的な表現だからなのだが―― ここにはまったく征服・被征服の意識はない。
そうして オモロ構造の中で 《我が国のみ 殊にタカマノハラ思想を強調して言う》のである。それとも この背後に密教的に明らかなかたちで 征服者・被征服者の区別が存在したと言うべきであろうか。
中世封建市民の時代に 源氏や平氏(かれらは 天皇氏アマテラス者の直系であるから)による鎌倉時代室町時代を別にしても 豊臣秀吉に代表されるスサノヲのアマテラス化 あるいは今日の市民政府の例は つねに 征服者・被征服者の系譜とその区別を密教的な大前提として 起こったと言うべきであるだろうか。これらの系譜においてなお アマテラス‐スサノヲ分離連関が明らかなかたちで 思われつづけなければならなかったとするなら それは はじめの国家成立の由来をオモイつづけるためであったと考えるのが 道理にかなっている。それとも 日本人は すべてその生まれ(スヂ)によって やしろのセヂ連関における位置が はっきりと区別されていると あまりにも神秘的なまでのオモロ形態が動かすべからざる大前提なのだと人は おもうであろうか。
どうであろうか。人は このようなことを考えたりしないであろうか。
神の国》とは どのことであろうか。表で差別なく 密教的に《赤口や(スサノヲ)‐おぼつかぐら(アマテラス)》の分離し逆立ちしつつ連関する階層区分があるというのが それか もしくは 渡来民もみな同化した姿のほうか。
このような神秘心性に日本人は 呪縛されているであろうか。
けれども どの国においても 生まれが 多かれ少なかれ 詮索されるのも 現実の一部をなしている。日本人のみが いわば魔法にかかって それ以上に生まれで区別するような意味での神の国に住んでいるというのは なお そのためにするタカマノハラ主義のオモロではあるまいか。タカマノハラ(天つみ親)を説くということは それ自体 新しい第三のスサノヲのオモロとの接触によって 日本独自にこの影響を受けて 仮りに国家というヤシロ形態の確立の中に それを用いたという歴史的な大前提を物語っているものなのではあるまいか。この事情を なかば原始心性によって 《神の国》《我が国のみ この事あり》と表現し 時に その由来をオモイつづけてきたのではあるまいか。
われわれは 沖縄の歴史に照らして見る静かなるイヅモを鏡として ヤシロせぢ連関を思い 時に新しい歴史に向かっては 必ずしも 昔の大前提を 沈黙したままで継承するのではなく それとして言挙げしなければならないと考えたのである。
新しいセヂ連関の動態が 解答であるから ここより何らかの一定の解決を求めてのそれではない。万機公論に決すべしと考える。ヨーロッパ等では時に明確なかたちで 国家の認識・国家関係なるセヂ連関の形成が実践されてゆくのに対して こちらでは ちょうど第二のスサノヲの受け容れのときと同じように むしろなお くすぶりつづけて ときに動揺し やがて――予言するわけではないが――時の充満を得て 新しいヤシロ形態へと移行するであろうと 推測される。推測の正否をいたづらに主張するのではなく わが国の国家オモロの形成の歴史的な大前提がいま一度 おもわれる必要がある。この一点にいまは集中している。

  • もしまったくの征服による成立だったとするなら 今では 征服者と被征服民とのそれぞれ血筋の区別など 無意味だと言えば ありがたいことに 事は済む時代である。


わがくにの――いまは 国家としてのオモロに限るが――オモロの特異性にかんして これを言うことは 民族主義ではないかとのそしりを受けることを恐れて その認識を怠ることは むしろ許されていない。また認識しつつも 今では ただ静かなるかたちで 遠回しにして 表現することも いただけない。わたしたちは 専門の学者ではないが この点は学問的良心に立って述べたいと思う。また このわが国の世界史的な特異性を認識することが 世界史の普遍性を明らかにすると言っても 学問的な落ち度はないのではないか。
要するにいま述べていることは 共同主観であり 共同主観は常識であるからには 人間的な意味で・つまり可変的・相対的に 誰もが考えているオモロ真実であると言ってよいのであり わづかにこの共同主観の真実は かたちを与えられずに 静かなる常識であるほうがよいと 従来までは思われて来た。けれども セヂ連関は見えない現実であり ヤシロ資本推進力も かたちあるものとしてわれわれに明らかであるということではないにもかかわらず この共同主観の原理が かたちを持たないということと 人間的な共同主観が 時代と社会に応じて かたちを持って表現されていくということとは 両立しうる。ここにわれわれは ささやかな形で 橋を架けようと言っていこう。


国家形成の過程に 二つの手法がある。その意味でのオモロ(また ヤシロせぢ連関)の十全な構造化や拡大には 二つの手法があるのではないだろうか。
ヤシロ的なセヂ連関の対象化とそれによる共同主観的な動態形成について 沖縄の歴史に照らして見るイヅモの行き方が あらためて 一つの鏡となると考える。
ここでは 西日本に機の熟してのように 東日本の原日本人が取った態度について考えてみることにしよう。
やはり 三つないし四つの態度があったと考えるがその中から 独立派と連合派の一体となった――取り替えばやのオモロ手法を容れたところの しかし――主体思想について。この独立主体思想は 基本的に イヅモの行き方と同じであるように思える。そのばあいには イヅモの沈黙と譲歩に対して 積極的な実践派であるようにまず見える。
一つのノリトをひとまとまり そのままの形で掲げる。

天皇(すめら)が大命(おほみこと)に坐(ま)せ〔――すめらの命令であるから――〕 恐(かしこ)き鹿島に坐すタケミカヅチのミコト 香取に坐すイハヒヌシのミコト 枚岡(ひらをか)に坐すアメノコヤネのミコト ヒメガミ 四柱の皇神たちの広前〔――御前―〕に曰(まを)さく

大神たちの乞はしたまひのまにまに 春日の三笠の山の下つ石(いは)ねに宮柱ひろ知り立て タカマノハラに千木高知りて 天の御蔭・日の御蔭〔――このばあい 宮殿を言う――〕と定めまつりて たてまつる神宝は 御鏡・御横刀(みはかし)・御弓(みとらし)・御鉾・御馬に備へまつり 御服(みそ)は 明るたへ・和たへ・荒たへに仕へまつりて 四方の国のたてまつれる御調(みつき)の荷前(のざき)取り並べて 青海の原の物は 鰭(はた)の広物・鰭の狭物 奥つ藻菜(もは)・辺つ藻菜 山野の物は 甘菜・辛菜に至るまで 御酒(みき)は 甕(みか)の上高知り 甕の腹満て並べて 雑(くさぐさ)の物を横山の如く積み置きて 神主に 某の官(つかさ)・位・姓名(かばねな)を定めて たてまつるうづ(珍)の大幣帛(おほみてぐら)を 安幣帛の足り幣帛と 平らけく安らけく聞こしめせと 皇大御神たちを称辞(たたへごと)竟(終)へまつらく。

と曰す。

かく仕へまつるによりて 今も去(ゆ)く前(さき)も 天皇が朝廷(みかど)を平らけく安らけく 足(たら)し御世の茂(いか)し御世に斎(いは)ひまつり 常磐(ときは)に堅磐(かきは)に福(さき)はへまつり 預りて仕へまつる処(ところ)処家家の王(おほきみ)たち・卿(まへつぎみ)たちをも 平らけく 天皇が朝廷に茂しやくはえ(弥久栄)の如く仕へまつり 栄えしめたまへと 称辞竟へまつらく。

と曰す。
祝詞〈春日の祭〉)

春日神社の祭にとなえられる祝詞であって 藤原氏氏神がこの神社にまつられている。この藤原氏が――鹿島(茨城県)・香取(千葉県)・枚岡(これは大阪府)から出たといわれていることによって―― 東日本の原日本人による・日本人成立への処し方の一例を 提供するであろうと思われた。
ノリトを一個 全部としてかかげたのは ノリトとしてのオモロが構造的に同じようであることを見るためである。それは それだけであるが 関東人として 関西人と同じく 一個のヤマト国家のオモロ構造に積極的に参加した一つの例であると言うことができよう。実際 藤原氏は 特にその先駆者たる鎌足不比等が 国家オモロ形成の当事者であると言われてのように その後ながく アマテラシテ天皇とともに アマテラス主体であった。
この主体の思想は すでに モノノベ氏を滅ぼしたソガ氏をも打ち倒して これら連合派・独立派を継ぎつつ アマテラス者となったオモロ主体の例である。われわれの仮定からいけば 国家構想の共同主観(ミマキイリヒコ・デモクラシ)のあと これにのっかってのように 形態確立へ進む時期の一例である。このフジハラ氏の力が充分に大きかったと見るならば 東日本の原日本人は かれらにあっては 国家形成に積極的に参加したと考えなければならない。
もう一度繰り返すと もしアイヌが積極的に逃げた(独自のやしろセヂ連関を保守した)とするとき フジハラ氏の対処の仕方は 積極的に参加した例である。また 逆に イヅモのばあいは 積極的に――受け容れ踏みとどまり――沈黙した例として 対照されるであろう。
ところが 問題は このフジハラ氏の個別的なオモロの方式において 後世においてであれ 上のように むしろ連合派の取り替えばやの思想が現われて来ることに注目しなければならないということではないか。
ミマキイリヒコ・デモクラシが 構想として動態として国家を共同主観し やがて――その間の経緯を端折ることは 慎重でなければならないが―― フジハラの鎌足不比等のときに 形態としての国家が より明確なかたちで確立されていったとしたなら このフジハラ氏の対処の仕方について 何を言うことができるか 何は言えないであるだろうか。
オモロとしての国家の共同主観が継承され やがて 西日本全域および東日本の各地域に伝わり 形態としての国家も実現されてゆくという歴史がまずあり このときフジハラ氏は 何を行為し何を行為しなかったか。
かんたんに言って 国家の共同主観化にあたって 旧い連合派や独立派の残存を排除し 国家の形態的な確立ののち 祝詞なるオモロの中に 独立派ないし連合派を継いだのだと思われる。つまり 《フジハラ》という対処の仕方を 類型的におおきく ここまでのものとして いま仮りに 想定することにもなる。《フジハラ》式というオモロ派である。
これは タカマノハラ主義そのものでは もはや ないが タカマノハラ主義を容れて 祝詞などに歌う思想である。ミマキイリヒコ・デモクラシは タカマノハラとアシハラとを 一つの共同主観に構造化し一体化させたものであり これは カヅラキ・ヤマトの系譜からはその古い言葉で 両ハラ(つまりA圏とS圏)の綜合として カシハラ・デモクラシとも名づけられうる。そこで この共同主観動態としてのカシハラ・デモクラシに立って なお タカマノハラA圏を 形態的な独立世界とする形態国家の成立に際して これを形成する主体思想が起こった これを フジハラなるオモロと仮りに一括して名づけるのである。
もちろん鎌足不比等が これにかんでいないというのではないからであり また 初めからフジハラ氏ではなく のちにその姓をつけたのであり ハラという語の共通は 象徴的でもあり まだこの動きに 仮りに征服者のそれがあったとするなら これを含めてもよいという意味もある。

  • なお ハラ( Fara / para )は 朝鮮語 pöl (原)と同源であり 後者は ソウル( そほり・そふる・そぷる)というように 《都》を意味しうる。

そして 騎馬民族も同化したのであるから 一挙なる征服ではないと当の主張者からも述べられるとおり ながい歴史的視点をとらなければらないようであるが これがむしろ 征服者の姿なのだとも考えられる。これが 実質的な核分裂=統一の思想であり その基本的な動きであると。

  • 征服説を言ったところで ほとんど 事後的には意味がないと論じたが そのあとでなら 征服の動きをも交えて 推理してみたい気が動く。

フジハラ氏は――もし鎌足不比等がその立案者などであったりした場合―― 広く連合派・独立派のオモロ(また 人びと)を排除し しかもタカマノハラ圏というその独立して一つの限定した立ち場に立ってオモロするとき それらを排除する必要はむしろなかった。そうして はじめのミマきりヒコの時の共同主観的な国家形成を 歴史的な大前提として たしかに原生的な国家また部族国家以上の形態を実現させてしまったのではないか。

  • もっとも わたしたちは 国家もやしろ資本連関体であるとするなら はじめの共同主観動態こそが 真正の国家であり のちの形態国家がむしろ 原生的なまた氏族の国家であると考えたい。

この《フジハラ》なる国家形成の一つの手法は 一方で はじめの歴史的な大前提をうたち継ぐと同時に 他方で タカマノハラ圏の形態独立を果たして 両方で 二重の意味の形態的なオモロ構造をつくった。つまり ノリトを初めとする観念の資本制を打ち立ててしまった。はじめの国家への共同主観オモロ形成を のちに積極的な主体思想に立ち もっぱらのアマテラス者となって 形態的に独立し確立させ この初めの同じ原形オモロを 盾に取って 人びとのアマテラス語共同観念 のっぴきならぬ観念の運河セヂ連関とした。
このような歴史的転変の動態が 一枚 かんでいると考えられた。かんでいなくても 《大日本は神の国である》と言われるような特異性を持ち 同じく かんだとしても 《わが国のみ この事あり。異朝にはなし》と言う特異性を持った。言いかえると 原形オモロ共同主観に変わりはなく この歴史的な大前提に立って やしろ形態が形態的に転変したと考える。
《大神たちの乞はしたまひのまにまに》――この表現じたいは 鹿島・香取の神社を そのようにこの春日に移したというのにすぎないのだが しかし広く同じように―― はじめのオモロ構想(見えないセヂ連関の過程)を 形態的な(制度的な)資本連関とし なおそこに 原形オモロを取りいれ 形態的につまりいわゆるここでは権力的に 観念の資本制を実現させたと認識することが可能だと思われる。
もし今にまで 日本人のオモロ構造に 征服・被征服の意識の希薄のままに なお 国家形成の過程的なオモロが 執拗に ノリトやカグラ歌としてのように 語られ触れられたりするとしたなら それは 第三のスサノヲの渡来以前の原日本人のオモロ構造の動揺にではなく また その動揺を経たあとのミマキイリヒコ・デモクラシの確立による第三のスサノヲの受け容れとその受け容れの成熟にでもなく このさらに後のヤシロ形態として権力的な国家やしろの確立の過程に その原因が問い求められ また この過程にまつわる力と動きとが 大きくはたらいているのではなかろうか。端的にこれが 蔽い・共同観念・呪術的しんきろう閣となっているのではないかと。
しかし 国家形態のオモロ共同主観は――国家というヤシロ資本連関方式が 仮りの形態として認識されたのだとしても また それゆえに―― 現実的な・生活基盤としての歴史を物語るし またはその歴史にもとづくと考えなければならないのではないか。
このことは 前二部の展開を補足したものである。
あまりにも粗雑な論議で 用を成さないかも知れないが このような契機の介入を想定することは オモロ構造の歴史的な展開の問題として 考えうることではないか。つまり言いかえると オモロ共同主観的な国家に立って あるいは 形態的な国家事実の上に立って このヤシロ資本連関に積極的に参加することと 共同主観じたいをセヂ連関として仮りに国家形態の中で 推進していくこととは はっきり別である。不比等らの歴史を ここで詳述しないが たとえば いまオモロ観想のうちに・類型的に論議しつつあるのだが あの戦前のいわゆる陸軍の独走 その《積極的な》やしろ資本主体の行き方に照らして いまでは 無用とせねばならないと考えるからである。いまだからこそ言えるのであろうが いまだからこそ そう認識しておくことができる。共同主観のオモロ構造的展開は これら不比等と陸軍とを それぞれ初めと後として はさんで そのさらに初めには 仮りの国家構想の共同主観的な形成(仮りであることが 動態であることであり その過程であることが完成形式である)と そのさらに後(つまり現代)では 仮りの国家構想の共同主観的な復活と再編成を 課題としてのように持つと考えるのである。もちろん試論としてであるが このような観想にかんしては 独走してもよいと思われた。静かなるイヅモは 沈黙のうちにだが その意味で 共同主観の観想のかたちで 独走していたし われわれは ただ沈黙しないで 論議にあげることがゆるされるであろう。
この主題は まだ結論を提示したまでで 中味を煮つめなければならないことは言うまでもない。
(つづく→2006-10-12 - caguirofie061012)