caguirofie

哲学いろいろ

#22

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第三章 日本国由来記

第二節a わがくにの国家は 仮りのやしろ形態として共同主観したものである

わたしたちは 反核を言うのではない。焦点がちがう。(だから 反核に反対するのでもない。)セヂ連関の開かれた動態としてのなんなら核連関を そのような大前提じたいに立って捉えようということである。時にこのやしろ資本連関過程に 違反した核分裂・核侵略に対して 世界史的に 言葉は正確ではないが祟り神として 一定期間ないし一定方法で 遷却しようとする必要があるかも知れない。しかしこれも あかぐちやぜるままがなしの生活のオモロの中から それとして法による共同自治として 用いると言おう。

  • もちろん 法律による処罰よりも われわれの愛は とうといという声を 排除する何のいわれもないが われわれの愛が 絶対的なものでもない。

反核を言うのではなく やしろ資本連関を これでもか これでもかと うんうんと押してすすむことに 基調がある。

  • あいにくわれわれは 引け際の悪さをむしろ誇っており はじめの共同主観オモロを忘れておらず もし忘れたとしたら 先祖に対して申し訳が立たない!?
  • これは 一つのアジタシオンであるが ちなみに 先の世界戦争にかんして 日本はまだ そのヤシロとしては無条件降伏したのではない それは 軍隊がそうしたのだというオモロが 現われた。わたしたちは その先の はるか昔の時――もし征服国家が歴史的事実であったとするなら―― たしかにオホクニヌシとともに 《国譲り》をしたが タカマノハラ・マダムを雇った記憶はない。
  • つまり 新しく来た人たちに対して 思う存分 落ち着くまで時間を使ってくださいと譲歩したが その奴隷になると言ったつもりはない。あなたがたが 異国の地でまだ心が不安で落ち着かないようでしたら 奴隷にでもなってあげましょうと言ったのである。
  • すなわち タカマノハラは全部任せますが そのしるしに カグラ歌やノリトを かたちあるものとして 残しておきましょうというのが 国譲りの中味である。中性封建市民の時代に まず東国が この契約の実行方をせまったのである。さらに 信長・秀吉・家康がこれにつづいた。そこで 国家構想の共同主観が消えていなかったというほどに 形態的な国家もなくなっておらず 明治維新へと引き継がれた。なおそれは 外国との核分裂の関係があらためて迫ってきたからであった。その後の経過を端折るなら この歴史的なヤシロ資本せぢ連関の過程において うんうんと自己を押して わたしたちは進む。愛がそうさせる。

これが 日本の中での三種類のスサノヲ――原日本人 倭人・韓人 第三のスサノヲ――の共存過程の問題であるだろう。もしすでに ゆたかなヤシロを形成しつつあるとするなら経済学的なヤシロ資本分析・政策と同時に 同じ方法で ちがった手法で オモロ構造の歴史的な吟味・再認識・再再編成という作業が 万機公論(万葉集のごとく)を形成してゆくべきだと考える。
いまもし仰々しく言うことがゆるされるとするなら 戦後が終わったか終わらないか 第三のスサノヲの受け容れがどうであったか・なかったかが 問題となるのではないか。第四・第五の・・・といった世界の中でのスサノヲらの共存の問題とすでにつながっている。


一つの焦点は 第三のスサノヲのオモロとのオモロ共同主観形成としての共存形式 このような歴史の吟味にある。と言いかえることができる。
あたかもエデンの楽園にいたかのような豊かでみやびやかな縄文人の世界――狩猟・採集・漁労の時代がそうなのである――から人びとは脱け出して ――なぜなら愛をただしく知るためであるが――そこで 愛に飢え渇く人びとの渡来が始まった。縄文文化の美しいオモロ構造は 動揺をきたしも した。ここで 連合派(ヒミコ)・独立派(カヅラキ)および静かなる沈黙(イヅモ)らの中から 国家構想なる共同主観を持った。その人としての按司添い。ミマキイリヒコイニヱのミコトである。
第三のスサノヲを受け容れて タカマノハラ圏の独立自尊の思想が芽生えた。遠く 聖徳太子あるいは天武天皇の時代にまで到る 形態としての国家確立の歴史である。あらたな動揺が始まったのである。もしくは 波風が立った。しかしミマキイリヒコイニヱの時の共同主観に 必ずしも地続きで参加していなかった東日本との関係で この同様は 核分裂の思想を生んだ。東日本の摂り込みの前にしろ後にしろ 神楽歌や祝詞がうたわれなければならなかったのが それである。また 世界史における――片や ユダヤとの対照における――日本の特異な位置が これである。
戦後 政権を担当し続けた自由民主党が ノリトやカグラをうたわなかったとはいえない。すべてのスサノヲが これに 噛んだのである。独立派(カヅラキ)も連合派(ヒミコ)も また 静かなるイヅモも ここに 噛んだのである。そうして 現代では あらたに 反核の声があがらなかったとは言えない。
このような歴史の吟味である。
また ヤシロ資本連関は つねに動態であるから これらを吟味し再編成しつづけてゆくことが その解答である。そうして 新しいことと言えば オモロの構造はもはや誰からも与えられて持つことのない 自己の中からの吟味・発展が それである。われわれは このような時代に向かってすすんでいる。

  • 日本は どういうわけか 世界のあらゆるオモロを摂取している。または 摂取しつづけている。ただし イヅモ八重垣なるスサノヲ共同体に対して タカマノハラのA圏を 九重とも言って両圏の分離連関を説くように ユダヤ( Jew =じゅう=十)に対して 自分たちは その上のイレヴン eleven であると説くのは タカマノハラ主義の核分裂思想に負うている。また あかぐちや八重垣の中の独立派や連合派が このオボツカグラのうたに酔わなかったとは言えない。独立派は 独立派・連合派・静かなるイヅモの現われる前のエデンの園 狩猟・採集民の成熟した文化の時代に還れというようなオモロをうたうことがある。アイヌが原日本人だと説くやり方である。
  • わたしたちは たとえそうであったとしても 愛 ヤシロ資本推進力をただしく知ったからには 第一の国家構想オモロは エデンの楽園のオモロ共同主観に優ると言おうと思う。そうでなければ 人びとは あかぐちやオモロの動揺の歴史を持たなかったであろう。

わたしは 沖縄の歴史に照らして見る静かなるイヅモが ここで一つの鏡ではないかと思う。

  • 言っておくが 鏡とは 模範・理想ではなく 鏡をとおして見る歴史の或る謎である。人間が なぞでないことはない。

これについて まず考えよう。


原日本人たる第一のスサノヲと 第二のスサノヲ(倭人・韓人)とのあいだに 言語の文法構造が似通っていたとしても かれらそれぞれとアイヌとのあいだの隔たりと同じほどの 隔たりはあったかも知れない。または なかった。つまり 歴史的にその隔たりが のちに生じたかも知れない。
これらが 原日本人として 打ち解けあったと考えられる。なぜなら アイヌのようには 独立の系譜として ほかに第一のスサノヲの集団は残らなかったから。

  • 今後 アイヌが 第四のスサノヲとして 日本人になるとか その可能性があるとしたなら むしろアイヌこそが第一の原日本人だったのではないかといった議論は もしその可能性を否定できないとしても 一つの段階を飛ばした議論である。なぜなら 日本人のオモロ構造の動揺また動態としての問題と アイヌのオモロ構造の問題と そして仮りに日本人およびアイヌから成る一つのオモロ形成の問題と これら三つは たがいにはっきりと別である。言いかえると アイヌのオモロの認識が 日本人のオモロ形成に寄与することと アイヌぷらす日本人の一つの種のオモロ形成の問題とは はっきり別である。
  • 人類には はじめにいわゆる原始共産制のやしろ連関があったから すべての現代のやしろは ここから出たものであり 未来の展望としても この始原の新しい形態へ向かって進むであろうといった類いの問題と いまの種の問題とは 別であるように ただちにアイヌと日本人とが一つの種であると説く問題と 日本人のオモロ構造の歴史的問題とは 別である。もしくは 一つの段階を飛ばしてしまっている。
  • わたしは 両者の同源論を 否定しようと思わないが また 積極的な肯定の議論がいまただちに成立するかどうか わからないのだが 問題は 静かなるイヅモ もしくは あの第一の国家構想オモロに立つことと その中の独立派が 国家形態の共同主観つまり観念化したその共同性の中から 同源論を持ち出すこととが 別であることである。アイヌは 国家形態の形成にも国家オモロ形成にも 参加しなかったのであり 沖縄は参加したのであり むろん事の善し悪しを言っているわけではなく 今もアイヌは 国家形態の中にあってしかも形態をいまだ通過しないというかのごとく 認めないことをある種の前提としてオモロしているかに見られることもあるとすれば この参加・不参加の一段階を飛ばすことによって 同源論を説くことは 何の意味もない。
  • それは わづかに 狩猟採集漁撈民の文化とその後の日本人の歴史的進展とのつながりを 明らかにする要素があるかも知れないが そうだとしたらそれはまだ 日本人のオモロの問題なのである。また それのみである。もちろんこれは 価値自由的な認識を述べたまでである。

第一のおよび第二のスサノヲの溶け合った原日本人が 第三のスサノヲを迎えて採った態度に おおむね三種類あると考えられる。

  • 独立派・連合派・静かなるイヅモの三分類は この第三のスサノヲの受け容れ以前の動揺の時代のものである。これらが 一たんミマキイリヒコの一つの共同主観へ 揚げて棄てられたと前提するが その後の態度にかんして 三種に分けられると考える。

第一の態度は 他の地へ逃げることである。沖縄へ渡った人びとが これであると思われる。かれらは あたかも歴史的に実験したと捉えられるかのように 原日本人のオモロ構造を保存して その中から歴史的発展をとげさせていった。

  • もしアイヌが もともとたとえば関東地方には住んでおり ついに その仮りに原日本人的なオモロをやはり守りとおして 北海道の地でこれを伝え この第一の態度をとったのだとすると そうだとしても 沖縄のオモロとそれとには 大きな隔たりがある。このまず識別をとおり越えて取り込もうとするやり方は 次の第二の態度につうじる。

第二の態度は 新しくやって来た第三のスサノヲのオモロと 自分のオモロとを 交換するやり方である。逃げないで踏みとどまり 互いのオモロの取り替えばやの物語を形成して行こうとするやり方である。《あかぐちやぜるままがなし‐おぼつかぐら》連関のオモロを その後者の要因の《天》であることの共通性によって 《タカマノハラ(カグラ派)‐あかぐちや》逆立連関――主客転倒――とする展開。
新参者スサノヲを 客と見たのである。客のオモロを 自己のむしろ主体的なオモロとした。これは ついに 自分がいつまでも この世で お客さんであるとオモロして セヂ連関を生きる前史の母斑の世界の行き方である。

  • 前史の世界にわれわれが 寄留しているというとき いわば巡礼の旅路にあって 客(たびびと)であるということは 言える。ただし この共同主観が 共同の主観であるなら みなが客人であることを排除せずに 主観・主体となりうる。この第二の態度は 前史と後史との客‐主の歴史的移行の関係ではなく 横に 先住者と新参者との色分けによって 主客を弁じ かつ主客を交換させるやり方である。あせって あわれみ あせって愛を打ち明けるのである。それは もともと 自己が 一般的に他者に対して お客さんであると思い込んでいることによって 不安であり 恐れをかこっているからである。

ところが 新しい日本人の成立は これらによるものではなかった。
第三の態度は 新しいスサノヲのオモロをまず受け取ることから始める。タカマノハラ思想は 自分たちの《あかぐちや‐おぼつ》連関なるオモロのオボツなる天の要因であると認識した。また 要因の共通性がなかったなら オモロ全体の構造を再認識し再形成する行き方である。
(つづく→2006-10-10 - caguirofie061010)