caguirofie

哲学いろいろ

#2

もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第一章 やしろ資本推進力について

第二節 さらに観念の資本という観点について

一 伊敷下(いしけした) 世果報(ようがほう)
  寄せ著ける 泊り
又 愛(かね)し金殿(かねどの)よ
又 石へつは こので
又 金へつは こので
又 伊敷 寄り直(なお)ちへ
又 なたら 寄り直ちへ
又 楠木(くすぬき)は こので
又 大和船(やまとふね)は こので
又 大和旅 上(のぼ)て
又 山城(やしろ)旅 上て
又 珈玻羅(かはら)買いに 上て
又 手持ち買いに 上て
又 思い子(ぐわ)の 為(ため)す
又 わり金(がね)の 為す
おもろさうし〈下〉 (岩波文庫) 巻十・538)

伊敷は 島尻郡摩文仁(まぶに)村伊敷(糸満市)。
《石へつ(石槌)は(を) こので(作って) 金へつは こので 伊敷の下(南部)の地の 崖を削り傾斜を平坦に寄り直して 楠の船や大和船を作り 大和への旅 山城(京都)への旅に 珈玻羅(勾玉)や手持ち珠を買いに上ったりするこの伊敷下は 世の果報を寄せ着ける泊りである》というのは 殊に 生活の経済的な側面を言っており その同じ経済的な領域で 《この貿易を 伊敷の按司(あぢ=領主)である愛(かね)し金殿が わが子(思い子・わり金)の為にこそ》というのは 伊敷なる一つのやしろの共同観念をあらわしている。

  • 《為(ため)す》の《す》が 《こそ》の意である。

ここでも ヤシロの共同自治のための当番であるアマテラスの その行政手法にかかわって そのヤシロのうたが どのように成り立つことになったかが 問われるようである。ひとつの共同観念は 基礎としての観念の資本として 妥当であるか。ここでは ヤシロの基盤であるうたの構造を スサノヲたちの共同の主観とよぶことにしたい。その具体的なかたちは アマテラス圏をも含んで 共同の観念である。なぜ別の言葉で呼ぶかといえば スサノヲたちの原形的な主観を共同化した共同主観から アマテラス圏の出現とともに 社会形態の全体として もとのかたちから 拡がったり 折れたり 曲ったりするものと考えられるからである。
いくら思い子であったからといって その我が子のためにこそ 貿易を推進し経済的な繁栄を求めてもよいかという問題である。それは うたの問題 ヤシロとしてあたかも構造をなすかのようなうた の問題である。恣意的なうたの歌い方が入ってきてはいないかという問題である。

  • 原始心性は はたして 近代理性と対立するものか。自然本性としての原形――たとえば むさぼるなかれという原形――を宿すと思われる原始心性が 非自然となりえ 反自然ともなり得る。と考えるのは 近代知性である。なら 近代人の知解力は 原始心性と矛盾はしないであろう。むしろその元から出てきたと言ってよい。うたの歌い方が 曲ったり ひねくれたりするのは 何が原因か。だから ここでは この原形としての人間心性を 捉えようとする。
  • ひとつの考え方として 人びとの原始心性が 近代市民による資本主義経済のもとで その一面として いわゆる物神崇拝という別種の超原始心性に変化・移行したとも考えられうる。

これらによって予表されるような観念の資本の歴史的な変遷を――むしろ 未来へ向けて―― 考察しようと言い始めたことになる。
ひとつの地域としてのヤシロと捉えて その伊敷が いわゆるムラ(村)イスムの共同観念であるとしたなら 人間の歴史は この共同観念を さらにもう一つの側面として 民族(ナシオン) もしくは くにやしろ(社稷)の次元にまで はこび ナシオナリスムなる観念の資本へと拡大したということは 一般に共通の認識事項に属している。
前節に引用したうたの中の《聞こえ大君》は くにやしろの・もしくは 王の 神女であるから この聞こえ大君にかんするうたとして 伊敷下のおもろ(うた)の一つの拡大版も とうぜん かんがえられる。たとえば

一 聞得大君ぎや
  大国(ぢゃくに)や 世 添ゑる
  按司添(あぢおそ)いしょ 鳴響(とよ)め
  ・・・
(巻一・33)

按司襲い(襲い→添い〔守護する・支配するの意。また 一つの敬称辞〕)の王こそ(――《しょ》が 《こそ》の意――) 《神の降れて 聞こえ大君が 遊びよわれば》 鳴響め と言っている。そういう形式また構造になっている。
問題は一つに このようなムライスムにしろ ナシオナリスムにしろ 観念の資本連関のなかで 人びとが たとえ原始的な心性によってであれ 生活を享受していたという一面に注意しなければならないことであろう。伊敷下のオモロでも 伊敷の按司に対して 《愛し金殿》とよんで 人ひとは或る種の敬愛の思いを寄せていたであろうと考えられる。

  • 複雑な意味あいを この敬称辞が持っていたであろうとしても。  

《金殿》が いわゆる価値自由な一認識より発せられたにしても 《愛し》と言って ある種の信頼関係を寄せていたであろうと捉えられる。やしろ資本連関の上部に もっぱらのアマテラスとなって 一般市民スサノヲたちから すでに確実に分離分立していたなら この種の美称辞をすでに与えられないか もしくは 用いられたなら 一種の皮肉となって現われたであろう。もし 上からの締め付けがきびしかったのなら そのような風刺であったか それとも わけもなく歩み寄っていった結果であるだろう。
この種の美称辞(外間守善おもろさうし (上) (岩波文庫) 頭注)は このおもろさうし(冊子)に関するかぎり いくらでも見ることができる。

  • また 王=按司添いも 《うしゅがなし(御主愛し)》と呼ばれる。

仮りに しかるがゆえに 原始呪術心性をあらわすのだと言うとするなら――仮りに もしそうだとするなら―― このおもろさうしを遺産として持った沖縄の人びと・あるいは日本人全体は すでにこの〔前〕古代市民的な観念の資本を脱しているのであるから 基本的にはそれとして ふたたび 確認するのみであるが むしろそうして確認されたそのときに この原始心性なら原始心性による観念の資本連関が――この連関は 人びとの協働関係のことである―― おまえたちは 新たなうたを歌え 新たな歌をうたいうるやしろ資本連関を作り出せと こたえ返してくるであろうことは 請け合いである。
なぜなら 現代人・近代市民も いわばこの母斑の中から出たものであるから。もちろん母斑は すでに振り落としたと言い切るばあいは 別であるのだが そうでない場合は この母斑の世界をまったく無視してすすむことは ゆるされないであろう。そうして しかしながら 少なくとも表現じょう 人間――ひとりひとり アマテラス化したスサノヲ――にとって その新しいやしろ資本主体としての信頼関係などについて これらのうたは むしろ未だ一つの鏡とならないものではない。《愛し金殿》とよぶのは 現状を肯定して言うばあいと 変革しようとして言うばあいとがありうる こう思われることが それである。
もちろん しかしながら――この仮りの想定にまったく反して―― 上にかかげたナシオナリスムのオモロなる観念の資本は 原始心性としても 一国民たる近代市民としても きわめて逆説的な つまり鏡は鏡でも反面教師のそれであって もはや争うことのできない過去の歴史ではある。

  • 第一階のスサノヲ圏=ムライスムのほかに 第二階のアマテラス圏を作ったときには 全体としてのナシオナリスム共同観念には さまざまなうたの要素が 余分なほどに まとわりついているはずだ。反面教師の鏡でしかない場合が 多い。

一 聞得大君ぎや
  大国 世 添ゑる
  按司添いしょ 鳴響め
  ・・・(中略)・・・
又 精軍(せいくさ)せぢ 勝(まさ)れ
又 精百(せひゃく)せぢ 勝れ
  ・・・(中略)・・・
又 気有(けや)る精遣り富
又 気有る天降(てよ)り富
又 八重山島(やへましま)厳子(いつこ)
  肝(あよ)迷い しめや
又 波照間島(はたらしま)くはら
  肝(きも)迷い 取らちへ
又 首里杜あせは
  土(つち)斬りに 斬らせ
又 真玉杜ちかわは
  土(みちや)斬りに 斬らせ
又 浦の数 神添(かみおそ)い
  相手為(な)て 守(まぶ)ら
(巻一・33 / 巻十・529 / 巻十三・876)

霊力を得て(精軍せぢ / 精百せぢ  勝れ) 船(気有る精遣り富・気有る天降り富――ともに 船の名――)を出して 八重山島や波照間島の兵士(厳子・くはら)に 心迷いをさせ 戦意を喪失させて(肝迷い しめや / 取らちへ) 王の兵士ら(首里杜あせ・真玉杜ちかわ)は 土を斬るように斬れ そのとき 浦ごと・村ごと(浦の数) 神女(神添い)らも 心を一つにして(相手為て) 守ろうから 王〔の軍勢〕こそ 鳴響め という一つのオモロである。
ここでは 敬意を保存していたとしても 明らかに 人びとと王(按司添い)とは 分離している。分離して連関している。つまり 《按司添いしょ 鳴響め》とは むしろその同じ国王の側から 言っている。であろうから 表現の上からも もしそれが原始心性であるとするなら それは 逆立ちしている。したがって あのムラの貿易の指導者としての《愛(かね)し金殿》(巻十・538)とよばれる按司と人びととの関係に 戻れ と言うのではないが このような観念の資本の歴史的な進展をあたかも一つの鏡としてのように――だから 鏡を見るのではなく むろん鏡をとおして 或る謎において 見てのように―― やしろ資本主体としての現代市民のすがたを その母斑を乗りこえてのごとく 考察するには 恰好の材料を提供すると言わなければならないであろう。
このことは 片や 経済学的な資本分析を括弧に入れたままでも ある程度の省察は――思弁的にであれ―― これをなしうると思う。言いかえると ここに取り上げている《おもろさうし》のうたうたは 《観念の資本》論としてのヤシロロジをわれわれに形成させてくれる一つの遺産だと言いたい気持ちにかたむくのである。
《おもろ》とは 《思い》のことである。

《おもろ》と同義語に《せるむ(宣るむ)》という語があり 《せるむ》の原形がミセセル(神託)で さらに ミセセルが託宣と同時にオタカベ(お崇べ) ノダテゴト(宣立て言)と並んで人から神への祝詞的機能をも持つものであることや おもろ発生当時の社会的発展段階が 沖縄における原始社会の崩壊期頃であり 人間の内的思考の熟成以前であったこと おもろの文学的内容が叙事的であることなどなどから この《思い》は 内側に向けられる内的思考としての《思い》ではなく 外に対する《宣(の)る》であり 《唱える》であると考えられる。
外間守善:おもろ概説・補注)

と言われるかたちではあるが やはり《思い》のことであり つまり 《外に対する〈宣る〉〈唱える〉》が それを受け止める人びとにあっては ともあれ内的な思いを そのとおりにかどうかは知らず 形成させたであろうと思われる。
したがって――それは うたの形であるのだが―― 一般に 観念の資本の形式または形態(=形式の複数総合的)をあらわすものとして これを取り上げることができるであろう。
つまり 言うところは おおきく《思い》の問題として 近代市民スサノヲ・キャピタリストたちのやしろ資本連関・協働関係にしても――たとえば 《経済人(ホモ・エコノミックス)》なる《思い》―― これを捉えることが可能である行き方が存在するであろうと思われる。
これが しかし エートス論などといったように 方法として 独立した別の一領域を形作ると言おうとするのではないことは すでに述べた。
すなわち この点をくどいように重ねて述べるとするならば エートス論などと言って 協働関係(そこにおける利害情況)とは 互いに連関するものではあれ 別個に《思い》(人間類型)の領域を立てることは そのような思いが 近代市民またその経済人類型としてのスサノヲ・キャピタリストの協働関係をあらわしていることになるだけなのではないか。つまり 《愛し金殿》が 《愛し》という原始心性のであれ或る種の信頼関係の部分を取り払って 自由に独立して 《金殿》となり また くにやしろ資本の中で いくつかの《按司添い》(たとえば captains of indutry )となりした一種のアマテラス化が すでにすべてのスサノヲ市民に 少なくとも理論的には 《自由に》達成されうるようになり この独立した・またむき出しの《わたくし》どうしの協働関係が あたかもその経済情況からは切り離され同じように独立したエートス‐思いの領域を形成させているかに見えるという現代市民のやしろ資本連関の情況を反映させている。そして それのみであると 批判しておくことができるであろう。

  • 言うまでもなく これによって わたしたちは いわゆるウェーバーのヤシロロジの方法を 批判しているのだが そこでは 《愛し金殿》が 《金殿》=経済的な利害関係と 《愛し》=信頼関係などエートスとの あたかも方法として二つの領域に分割され ちょうどマルクス《と》ウェーバーといったように二つのヤシロロジが存在するかのように《思わ》れている。かれらは 価値自由な学問・科学という名の《聞こえ大君》になったかのようである。

ここで言いたいことは 一つに 言うまでも無く 《聞こえ大君と按司添い》によるやしろの統一 いくつかのスサノヲ共同体(ムラ)の統一的なやしろのもとに もっぱらのアマテラスと一般市民スサノヲとが 分離して連関することによって ムラの按司・《愛し金殿》が 二つの領域(あたかも 経済資本と観念資本との二つの領域)に分割されて 各やしろ資本主体の《思い》がそれぞれ思われるということ。
もう一つに 《愛し金殿》をそのような両者の思いに分割したのは 当然のごとく動因として 合理的な近代理性が思われるべきである。まずは そうであるだろう。合理的にして そういう結果をまねいたと考えられる。(合理的になっていないゆえ 負の結果をまねいたという議論もある。)このとき なおこの近代精神が 《金殿》の部分に 物神崇拝的な超原始心性をも生んだとするなら そのような物象の人格化 人格の物象化に対する経済学的な資本分析は 《愛し》の部分=呪術的な原始心性の乗り越えに対する観念の資本的な分析を合わせて 同時に 吟味しているべきである。言いかえると 全体としての《オモロ》構造を 吟味し認識し 継承・発展させてすすむべきと考えられる。
このときには とうぜん試行錯誤をまぬがれないであろう中を 模索していくことにならざるを得ない。また のちに乗り越えられるべき原始心性を持っていたところの人びと つまり かれらの全人格的な《思い》つまりやしろ資本の主体性は 揚棄されるべきであって しかもそう言いつつ あたかも現代人とは人種がちがって 別の人類であるかのごとく思うことは ゆるされていないであろう。この当然のごとくの前提に立って すすみたい。
(つづく→2006-09-20 - caguirofie060920)