caguirofie

哲学いろいろ

#20

もくじ→2006-08-13 - caguirofie060813

《シントイスム‐クリスチア二スム》連関(神神習合)について――梅原古代学の方法への批判――(その五)

《したがって 今でも存在しない三一性(たとえば 真理の坑道の限界を超えてあるであろうとする 演出されたカミの三一性)は カミの似像ではないであろう。また あの時(カミ直視の第二の栄光のとき)存在しないであろう三一性(信仰という信仰 または不信仰・無信仰という信仰)も カミの似像(ヤシロそのもの)ではない。しかし》――しかし―― われわれの誇る弱さに翼が生えて アマテラス界へとアマガケリすることのないようにと 《しかし
人間の魂 すなわち理性的あるいは知解的な魂においてこそ その不可死性に不可死的に植えつけられたカミ(創造主)の似像は見出されなければならない》とつづけて論じられている(14:4)。
われわれはここで たしかに これへと《知恵のある者を責め》ていかなければならない。さらにつづけて論じるアウグスティヌスを シントイスム‐クリスチア二スム連関において すなわち シントイスムの土壌に立って 読むべきである。

魂の不可死性が或る仕方で語られなければならないように

  • 梅原も 《業の思想》あるいは《怨霊史観》において このことを語る。

――魂は真実の生命であると言われるべき浄福の生が欠けるときには自己の死を持つ。しかし魂はこの上なく悲惨なときでさえも 或る生命は決して生きることを止めないから 不可死的であると言われる―― 人間の魂はその理性あるいは知解力が或るときは鈍く あるときは小さく あるときは大きく見えても 決して理性的・知解的でないことはない。
このゆえに 人間の魂はカミを認識し 観るためにその理性や知解力を用い得る限り カミの似像(ヤシロ)に従って造られたのである。したがって 非常に偉大で驚嘆すべき本性であり始めたその初めから この似像は殆ど無くなるほどに磨り減らされようとも あるいは暗く醜くあり あるいは明るく美しくあろうとも いずれにしても 常に存在しているのである。
アウグスティヌス三位一体論 14:4)

このことをもって この言葉を――人間の言葉・人間の有(もの)であるからには――動態的なものとして うたの構造において とらえることから われわれのヤシロロジを始めることができる。しかもこれは 観念の・あるいはそのまま 市民資本である。あるいは 梅原の怨霊史観を超えるべきであるとするなら 市民資本史観を構成する。ヤシロロジなるこの学問は われわれの有である。
《業の思想》の重要性を論じる――そしてそれは 《もっともわたくしなる〈やみ〉》への了解と配慮とするならば われわれも同じであるが――梅原は 《今世界を支配しているのは 進歩史観である。それは一直線的な進歩史観か それとも世界の破滅と新しい神の国の到来を説く終末史観かどちらかである》として 次のように説く。ふたたび結語的部分のみの引用である。

今後の人間は 人類全体の破滅の可能性を考える必要があると思う。そしてその破滅をまぬがれるために あらゆる人間 あるいは国家は 自己の内部にある我欲の強さを反省する必要がある。
(仏教の思想・上 p.93)

わたしは これに反して 弱き人間の強き我欲というもっともわたくしなる領域を貴ぶことができると思う。あたかも国家が反省するのは その存続そして時にそのA圏の存続のためによいことへと反省するのであるように あらゆる人間は もっともわたくしなる領域に立って 反省=思惟・内省・行為をおこなうと思う。そしてこれは 大きいときでも小さいときでも 醜くあろうと美しくあろうと かれは ヤシロなるカミの似像において 栄光から栄光へと変えられつつ つねに存在していると思う。ここでは 信仰の有無を問わない。
だから 梅原がつづいて述べるとき すなわち

国家というエゴイズム集団は それがなくては人類はやってゆけなかったのである。しかし 私は国家を人類の業のようなものだと思うのである。なぜなら それはまぬがれがたい人間のエゴイズムの所産であり しかもそのエゴイズムをまぬがれないかぎり 国家は人間を 人類破滅の方向へと押しやるかもしれないからである。
人間の業の深さを凝視して この業をまぬがれる道を考える哲学が必要である。業の歴史的反省のみが この戦争をまぬがれる方向だと思う。国家を無我の主体に近づけること それが今や現代世界にもっとも必要とされている全人類的な歴史的要請である。もう一度業の思想がかえりみられる必要がある。
(承前)

国家という社会形態を 人間の知恵の所産であると考えるわたしたちは この文章を次のように読み替えることができる。

国家というエゴイスム集団は 市民のうちもっぱらアマテラス者であろうとする人びとのエゴイスムを 社会における共同自治を形成するために ヤシロからヤシロの上なるA圏へと神遂(かむや)らい遂って 形成されたデモクラシの共同観念的な一形態であるとわたしは思う。それは うたの構造の古代市民によって達成された一形態である。
《エゴイスムをまぬかれないかぎり・・・人間の業をまぬかれる道を考える》のではなく 人間のやみと罪の共同自治の形態を考えることができる。ヤシロのカミの似像がつねにとどまることに信を置くことができるかぎり 業(やみ)は貴ばれることができる。アマテラス者の内なるやみは 現代では その独自の圏・アマテラストゥームに カムヤライしたまま放っておくのではなく それをスサノヲ者の自己のうちに見て かれの観念の資本または市民資本を そのかたちを変えることによって あたらしい共同自治の形態へと アマテラス者を誘導することができる。それへと 知恵ある者を責めなければならない。
ヤシロ‐スーパーヤシロ連関を再編成しなければならない。《国家を無我の主体に近づける》のではなくて 新しく再編成したヤシロ主導のS−A連関形態というあたらしい《わたくし》なる主体として 凝視していかなければならない。
これらの点で 《国家の問題が 今もっとも必要とされている歴史的な要請である》と思う。しかも それが うたの構造の一形成態であったとするなら もう一度このうたの構造をこそ省みるべきであって はては 二角関係・対関係およびヤシロが 動かなければならない。しかし このヤシロを つまり鏡を見ることによって 業・やみの思想を省み この業をまぬかれる道を考える哲学を必要とするというのではなくて また そのようなアマテラス語の組み換えを成そうとするのではなくて ヤシロのつねなる存在に信を置くかぎり――しかも ヤシロを明示的に知解しなくとも それを思っている一般のスサノヲ者は つねにここに信を置いている―― やみ・業を貴び エゴー(つまり自称つまり《 I 》)つまり うたの主観をうたうべきである。哲学は ここにあり これにのっとって 総じて知恵ある者を誘うべきである。慈悲という共同相聞歌の言葉にまどわされるべきではない。
ヤシロに信を置くかぎり いや こんなことを不問に付すべきであるかぎり 主観を歌い継ぎ新しい万葉が ヤシロの実体的な相聞歌を用意することができ それによって新しい学問が 興隆するならば これによって新しい主観共同は その時代を形成する以外にないと思われるからである。われわれは アマテラス圏の踊りを この動きに裏打ちされつつ その最後の踊りを踊り終えるまで 見守っていくべきである。

(この章のおわり。つづく→2006-09-03 - caguirofie060903)