caguirofie

哲学いろいろ

#7

もくじ→2006-08-13 - caguirofie060813

《霞霏微*1》(その一)

1812 ひさかたの天の香具山このゆふべ霞たなびく春立つらしも
久方之 天芳山 此夕 霞霏微 春立下
1813 巻向の檜原(ひはら)に立てる春霞おぼにし思はば なづみ来(こ)めやも
巻向之 檜原丹 立流 春霞 鬱之思者 名積米八方
1814 古の人の植ゑけむ杉が枝(え)に霞たなびく春は来(き)ぬらし
古 人之殖兼 杉枝 霞霏微 春而来良芝
1815 子らが手を巻向山に春されば木の葉しのぎて霞たなびく
子等我手乎 巻向山丹 春去者 木葉凌而 霞霏微
1816 玉かぎる夕さり来れば猟人(さつひと)の弓月が嶽に霞たなびく
玉蜻 夕去来者 佐豆人之 弓月我高荷 霞霏微
1817 今朝行きて明日は来(き)なむと言ひし子が朝妻山に霞たなびく
今朝去而 明日者来牟等 云子鹿 旦妻山丹 霞霏微
1818 子らが名に懸けのよろしき朝妻の片山岸に霞たなびく
子等名丹 関之宜 朝妻之 片山木之尓 霞多奈引

言うまでもなく この雑歌七首(一組み――万葉集・巻十〈春の雑歌〉)は 《柿本朝臣人麿歌集出》とされるものである。これらについて 人麻呂の方法を考えてみたいと思う。


まず先に結論から言うならば これらはすべて第一に 春の霞を または それがたなびくさまを うたったものに過ぎない。次に もし人麻呂が――あるいは かれに限らず 誰にしても―― 単なる自然歌人であるとは思われないとするならば 当然のごとくわれわれはそこに 寓意を見るべきである。
うたの寓喩性を強調しようとは思わないが ここで これら春の雑歌七首は 全面見渡すかぎり 自然がうたわれている中に 二番目の1813番の歌は 下の二句のみ 世俗的な人間の思いが ふと 吐露されていることに注意される。
《鬱之思者 名積米八方――ぼんやりした気持ちなら 何でこの歩きにくい(足泥む)道を難渋してやって来ようか》(《日本古典文学大系〈第4〉萬葉集 1 萬葉集》)と。
《おぼにし思はば なづみ来めやも》 これが 七首全体のそして唯だひとつの主題であると考えられる。そしてもし 自然だけを詠んだ歌としては考えないという向きには この二句によって表わされた主題をもって この七首の山全体に そのテーマを解して入るべきだと思われる。この作業を終えたら ふたたび 全山の樹々を包む霞景色を 愛でるべきである。


まずこの作業のために 七首の地図をつくる。それは それぞれの歌について 〓 その時間 〓 その場所と そして〓 その景色の形容の言葉とに分けて表示するものである。それらの分類には ほかに 〓 テーマの項が付け加えられるという寸法である。

  • 人麻呂歌集・春の雑歌七首の構成
項目 〓時間 〓場所 〓景色の内容 〓主題
1812 此夕 天芳山〔−〕 霞霏微春立下
1813 巻向之檜原〔丹〕 立流春霞 鬱之思者名積米八方
1814 杉枝〔−〕 霞霏微春者来良芝
1815 〔春去者〕 巻向山〔丹〕 木葉凌而霞霏微
1816 玉蜻夕去来者 弓月我高〔荷〕 霞霏微
1817 旦妻山〔丹〕 霞霏微
1818 朝妻之片山木之〔尓〕 霞多奈引

ここで 1814番の下の句《春は来ぬらし》は 〓項をはみ出すと考えるなら それは 〓項の時間というよりは 〓主題の項に入るとも思われる。いま すでに主題とした《なづみ来めやも》という表現が 暗に《春は来ぬらし》という感慨を含んでいるとするならば この表のようになるとしてよい。1812番の《春立つらしも》についても おおむね同様であろう。
そこで問題はこうなる。〓の主題が 七つの局面から成る山々と樹々の自然に 春霞をとおして どのように浸透しているのか。あるいは 作者は そんなことは一向に考えていないものなのか。もしそうでなく 主題の滲透が存在するとするならば 結局たとえば枕詞・序詞として表現されるような語句それぞれに どんな思いがうたわれているのか これらである。
実は必ずしもこのような問題の立て方に あらかじめの成算があってのことではないのだが ともあれ これも一つの鑑賞の方法であって それは うたの方法についてのさらに方法を明らかにするであろうと主観されるからである。
いまこのような構成を立てて 一つひとつ詳しく見てゆくことにしよう。


《霞たなびく》の形容語が 1813番を除いてすべてにあって 1813番にないのは 主題を盛り込みたいがためであろう。まずこう考えられる。

  • なお 《たなびく》の表記に 《霏微》の漢字をあてて 《多奈引》と同様に読ませたのであろうことは 通説に従ってよいと思われる。
  • また《霏微》の原文表記とそれをめぐる趣き深い注釈は 梅原猛にすでにある。→万葉を考える等。

次に はじめの1812番は 七首全体の序をなすと考える。《霞たなびく春立つらしも》が 情況の想定としての導入であり そこに《ひさかたの天の香具山》を立てたのは 一般論としての意味を持たせたものであるだろう。一般論というのは 天の香具山が アマテラス‐スサノヲ連関なる共同体にとって さらにそのアマテラスの象徴としての山であり 性質名詞としてのアマテラシテ amatérasité を表わすと考えてよいからである。
そして ただし 〓時間の項目の《このゆふべ》というのは 次への展開の導入を直接に示す表現であろうと思われる。七首は一度に続けて歌われたものでもないであろうが その配列順序が決して乱雑なものであろうのでもなく 全体として 一編の詩をなさしめる配慮があってのことだろうと考えられるからである。春が来たらしいと感じられるこの夕べ どんな世界が述べられるというのか。
おそらく《この夕べ》を受けるものとしては それは次の1813番の主題を超えて 《玉かぎる 夕去り来れば》の1816番に飛んで受け継がれているであろう。

  • ちなみに《去る》は 行く・来るの移り変わりを言い ここでは やって来るの意である。

この16番の歌で 《弓月我高》と表記することは 前掲小論の漱石英詩註に述べた《月とわれ the moon and I 》のテーマを表わしているとも見られるが この符合はここでは措こう。
主題の展開は しかし ここで必ずしも明らかなものではない。そう言わなければなるまい。わづかに《さつ人‐佐豆人》と書いて それが 主題の《なづみ来めやも‐名積米八方》の《米》を受けた《豆》であるとは考えられる。また 助詞《に》の表記には 他の《に(丹・尓・−(無し)》と違って 《荷》と書くのであるからには 《我高》の《荷》を負って歩んできたその軌跡に少なからぬささやかな感慨があるのであろう。しかし その方法の内容は 明らかではない。
したがって ひるがえって言えることは ここには 人麻呂が その方法に滞留するかのごとく 方法の方法をうたうその姿が またそれのみが うかがわれるということではないか。どうも そうとったほうがよい。
問題の解決には到らないながら 他の歌を見てみよう。
いま 助詞《に》に注目することを続けよう。おそらく《丹》の表記には 《にほふ‐色があざやか》しかも 《山々の樹の色彩が かすむことが あざやかである》ことを示すものであろう。これは 作者の主観が 霞とともに そこに休息するがごとく おぼろげに しかもいわゆる幻想とは方向を異にして とどめられて見られるのをうたいたかったのかも知れない。それにしても 1814番の歌では 助詞の表記を省いてうたっているが ここにわれわれの言う主題を滲透させて見ることは むずかしい歌である。《杉の枝》に どんな――古代市民としての――想像があるというのか。《いにしへの人の植ゑけむ》とは どんなかれらの共同主観を背景に持つのか。あるいは持たないのか。
われわれは したがって次に 《子》や《妻》の語が織り込まれた他の歌に逃れねばならない。
(つづく→2006-08-21 - caguirofie060821)

*1:霏微:雨冠に非および雨冠に微〔この文字が入力しえなかった〕。かすみのたなびくさま。