caguirofie

哲学いろいろ

#3

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漱石英詩註(その二)

ここで ふたたび英詩の世界に帰ることができる。次の詩を見よ。

白い衣のかのじょがひとり踊るにまかせるがよい
赤いバラをかざしてかのじょが歌うにまかせるがよい
ただし 白い服を着てひとりでだ 緑の大地に
ひとり バラの赤と衣の白のなかで


バラは手から捨てさせたがいい
赤と白のまだら模様
それらはかのじょから取り上げたがいい
かのじょが踊りおわるまで


白い衣裳はひるがえすにまかせたがいい
そこでも ここでも どこでもだ
緑のヴェルヴェットの上に練り歩かせるのだ
かのじょの踊りおわるまで


月とわれが 見つめるだろう
かのじょが踊りおわるまで
もはや誰も知らないのだ
かのじょの踊り終わるのを
(私訳)


Let her dance alone in white,
Let her sing with roses red
Alone in white, alone on the green,
Alone with roses red and white.


Let roses fall from her hand
In flakes red and white,
Let them fall around her
As she goes dancing round and round.


Let her white robe flaunt
Now here, now there and everywhere,
Whirling upon the velvety green
As she goes dancing round and round.


The moon and I will gaze on her
As she goes dancing round and round,
But no one else shall have a peep
As she goes dancing round and round.
December 8, 1903

《月とわれ》は 何を《見つめる》のか。 《 Twilight 》の詩( Nov.29, 1903 )から一旬後に作られたこの詩で Twilight の中の《 the moon 》と Twilight の中の《われが誰であるか問うな》と答える《われ》とは 何を見つめるというのか。
もはやほかの誰もそれを見ない( But no one else shall have a peep )というかのじょの踊りとは 漱石はいったい何を捉えてそう言ったのであろうか。
残念ながら わたしには 漱石の詩にはそれを見出し得なかった。われわれは この漱石のうたを捉えて われわれの方法を表現する歌詠みに逃れなければならない。歌人として初めの人となった人麻呂に逃れなければならない。

  • なお ちなみに 漱石と人麻呂は ともに アマテラス‐スサノヲ連関の社会形態が それぞれ国家として 強固になろうとしその確立を見たであろう時代に属している。中央A圏集権の体制のもとにある。
  • ただ 漱石のばあいは おおきく言っておおむね 日本の近代市民的な国家としての再編成・再出発のときである。おおむねと言うのは よく言われるように一般的に言って 信長・秀吉・家康の時代に かれらがともにスサノヲ圏から出たアマテラス社会科学主体であったこととつながって スサノヲ者個人としては 近代市民の内省=行為の形式を 原形的には すでに現実のものとして示しえたことに遡ると思われるからである。この議論は深入りしない。

今たどっている主題にかんれんした歌を求めるなら 人麻呂(人麻呂歌集を含む)からは 次のようなうたうたを引くことができる。
月ないし天体に焦点をあてようと思えば 万葉集・巻第十は 秋の雑歌の部に 七夕と題する項を立て 人麻呂歌集からは 三十八首( 1996-2033 )を連ねて収録している。一連の歌群の最初の一首は これを引いておくべきであろう。そしていま焦点の主題に関係する歌を拾うとするならば こうである。

天漢 水底左閇而 照舟 竟舟人 妹等所見寸哉
天の河 水底さへに照らす舟 泊(は)てし舟人 妹に見えきや
(1996)

天の河の水底までも照らす舟を 舟泊てした人(牽牛星)の姿は 妹(織女星)に見えたであろうか。(大系)

《きみとわれ》の関係を アマテラスとスサノヲの関係 または スサノヲどうしの関係というように 直接にではなく 広義の仲介者たる星(つまり むろん 漱石の《〔 Though 〕all the starswink and beckon night after night, / ... / They have never met since 〕》(《 Dawn of Creation 》)にあてて うたっている歌である。
《水底》の符合は 妙味である。また若干これに継ぐならば 《〔水底〕左閇而》とした表記は 漱石の《水底の感》のうたと照らし合わせて 妙である。《泊(は)てし=竟(ケイ・キョウ / ついに・おわる)》〔舟人〕は 《水底左閇而》といっしょに考えるなら 絶妙である。この舟人が 《妹に見えきや》と うたの呼吸を合わせている。そういう《きみとわれ》の関係を うたっている。

  • 漱石のうたは つまり どちらかと言うと 暗く より消極的だろう。

夕星毛 徃来天道 及何時鹿 仰而将待 月人壮
夕星(ゆふづつ)も通ふ天道(あまぢ)をいつまでか仰ぎて待たむ月人壮子(つきひとをとこ)
(2010)
万世 可照月毛 雲隠 苦物叙 将相登雖念
万代(よろづよ)に照べき月も雲隠り 苦しきものぞ 逢はむと思へど
(2024)
天漢 梶音聞 孫星 与織女 今夕相霜
天の河 楫(かぢ)の音(と)聞こゆ 彦星と織女(たなばたつめ)と今夕(こよひ)逢ふらしも
(2029)

月や星をも介して一連の《きみとわれ》との関係は これら三首のはじめのうたで 《もう宵の明星も通っている大空の道を 織女と私は 何時まで仰いで待つのでしょうか 月よ》と《大系》は解している。ここは逆に 愛嬌でも 男またはスサノヲの牽牛星が 漱石の詩と同じように 《アマヂを仰いで待っている》と解したほうがよい。言いかえれば 《月とわれ》が 待っているのだと。自問のうただとして。
ただ ここではまだ 《 The moon and I will gaze on her 》と言うのと同じく 未来形で言うのであって これら三首挙げた最後のうたで 《今夕 逢ふらしも》とうたって 未来形がやっと現在形となろうとしていると言える。
それでは 月とわれが見つめる《かのじょの踊り As she goes dancing round and round 》とは何か。
人麻呂の七夕歌集の全体から言って この第2029番のうた――未来形が現在形となろうとしているとき――よりあとの歌は 四首残すのみである。
(つづく→2006-08-17 - caguirofie060817)