caguirofie

哲学いろいろ

#21

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

章二補 《観念の資本》小論Ⅱ ――夕顔の系譜としての浮舟論――

このように考えるとき――ここで物語のほうに 移りたいと思うが―― 対関係の過程の中で 神(または 仏)を見て 必ずしもそれを信仰の次元へと持っていかないとしても その問題を 別のかたちで 導入しようとしたのは 物語において 浮舟なる女を登場させたことだったと言えよう。浮舟像について 出来る範囲で 触れておこう。
浮舟というひとりの女性について つまり 一方で 薫とのあいだに対関係を結ぼうとし 他方で 匂宮とのあいだにやはり対関係を結んでしまったこの浮舟なる女の像について その愛および愛欲の過程が 切実に捉えられていると考えてよいからである。いま 浮舟の物語に絞って 同じく論じていくことにしよう。


まず これは 夕顔のように美的世界へと自己放棄することを拒みながらも 夕顔の理念を失わずに――それは ある意味で漱石の男性主人公・津田のように――葛藤を続けた人物としてあり またその意味で 夕顔の系譜として捉えられうる主題が そこにはあるだろう。
夕顔の登場 もしくは 夕顔と源氏とのなれそめが 必ずしも現実的に理解のいく情況でなかったことに反して 浮舟の登場そしてかのじょと 薫および匂宮とのそれぞれ出会いは きわめて抜き差しならない現実的な関係の中に 展開される。

浮舟の明暗は 漱石の洗礼を受けて ふたたび 現代のわれわれの市民社会学の重要なひとつのテーマとなりうる。


ところで 光源氏はすでに生涯を終えている。その後日譚に 浮舟は 登場する。薫は源氏の子であり 実は 柏木(頭の中将の子)と女三の宮との子である。(女三の宮が 源氏の妻である。)匂宮は 源氏の子である明石の中宮と今上帝との第二子である。そして浮舟は 源氏の異母弟にあたる皇子八の宮がその侍女とのあいだに設けた娘であった。
かれらの姻戚関係を別にしても またそれが 直接にはアマテラス圏に起こった事柄であるとしても 物語は 市民社会学にとっての自由の問題を 切実なかたちで展開させる。何故なら それが ひとつの恋愛小説のかたちをとりながらも 市民社会学が オホクニヌシ対関係という特殊性の自立的発展を 基軸とするかぎりで その自由を 理念(=過程)的に 扱っているからである。
浮舟の物語は その序の部分を端折れば 次のように展開する。かのじょに心惹かれていく薫は さしづめお延を妻に持つ津田であり かのじょを見初めて言い寄る匂宮は あくまでアマテラス圏の住民にとどまったというひとりの源氏類型であるだろう。

  • 匂宮という特殊性の自立的発展は あくまでアマテラス圏の世界に限定されてある。

薫とのあいだに 自身としては 対関係を形成しようとする浮舟が その過程において 匂宮にある日 身をまかせるということ この事件に始まったかのじょにとっての対関係の複合 ここに焦点が集められる。そして ここから浮舟がとった選択は 二人のいづれからも自分で身を引くという行為であった。
もしひとりの市民にとって対関係(また家族)の複合(したがって 重婚)が認められるなら――やや仰々しい言い方をすれば―― 対関係に基軸を置く市民社会は 生産態勢(会社)への二重所属が 成立してもおかしくないであろう。また 等価交換といえども それを基点とするからこそ社会全体として 経済価値の剰余を所有しうる者とそれを負において所有する者という社会階級が存在することになるのであるから この社会階級への所属がどちらの側へも二重に所属するという・だから社会階級関係の錯綜的なひとつの動態性が 過程されるということにもなろう。
もし共同主観の幾何学的な生産関係といった理念から言って それは認められないとすれば 社会階級関係は 大筋として 二つの領域に分かれ その互いの闘争・転覆の過程が 不可避となるであろう。
もし浮舟が 夕顔の系譜としてあり 重婚を 幾何学的精神から言って認めないとし なおかつ――宇治川への入水ののち助けられ横川の僧都のもとに身を置いて――ブッディスムの無限性というその観念的な一夫一婦形式のうちにあるとするなら そのような行動を 作者が浮舟に取らせたとするなら 紫式部市民社会学は 上に述べた分類からいけば 前者すなわち 諸社会階級の相互動態的な複合過程を見るものであったと 結論的に 言える。《観念的な一夫一婦形式のうちにある》ということは 実際には 重婚の 共同観念的精神による消極的な承認を意味する。
このことは 現代語で表わせば われわれの観点に引き寄せれば 観念の資本の複合性にあいまった 経済価値およびその剰余の 各階級による相互錯綜的な生産および所有形態を 前提とすることになるであろう。その一つの具体的な形態は 現代で言えば 一人の同じ市民が アマテラスおよびスサノヲの両社会階級に同時にまたは異時に属するといったことの具体化としての 株式の分有=共有 および剰余の価値のそれに応じた分配といった様式 これが 市民社会の広義のかまどの内実的な形態であるということになるであろう。

  • 株式というのは 漠然と社会共有の財産と捉えてもよい。その共有・総有の観念が あたかも資本として 現実的だということになる。

このことを前提として この前提を仮説的理論として 浮舟論を 自由の問題において扱うことができるであろう。
たとえば そのように源氏物語に表わされたブッディスムの無限性は 現代において どれだけの射程を持ちうるのか。あるいはまた それはやはり 観念的な出世間実存の成就にすぎないものであるのかといった問いが あらためて浮上してよいと思われる。また同時に そこには 課題としてではあるが――われわれが何度も繰り返して述べるように―― 神(唯一神)と神々(または仏)とのより広いかたちでの習合が あるいは非習合が 構図として(うたの構造として) ともかくも 見出されるであろうと思われる。


浮舟が その運命においてのように自分のおかれた情況から次第に追い詰められ 心を決めざるを得ないといった状態にあるところを 作者は 次のように描く。

・・・言はまほしきこと 多かれど つつましくて ただ

後に又あひ見むことを思はなん この世の夢に心まどはで

誦経の鐘の 風につけて聞え来るを 〔浮舟は〕つくづくと 聞き臥し給へり。

鐘の声の絶ゆる響きに音をそへて わが世尽きぬ と君に伝へよ

・・・《世の中に 〔私が〕えあり果つまじきさまを 〔乳母に〕ほのめかして 言はむ》など 〔浮舟が〕おはすに まづ 驚かされて 先立つ涙を つつみ給ひて 物も言はれず 右近(=乳母) 〔浮舟に〕ほどちかく臥すとて
――かくのみ 〔御身が〕ものを思ほせば 物思ふ人の魂は あくがるなるものなれば 夢も 騒がしきならむかし。《〔匂宮か薫か〕いづかた》と 〔御身は〕おぼし定まりて いかにもいかにも おはしまさなむ。 When you let your worries get the best of you, they say your soul sometimes leaves your body and goes wondering. I imagine that's why she has these dreams. Please, my lady, I ask you again: make up your mind one way or the other, and call it fate, whatever happens.
と うち嘆く。〔浮舟は〕なえたる衣を 顔に押しあてて 臥し給へりとなん。
(浮舟――巻末)

ここには あたかも夕顔が 自己の存在を必ずしも人に打ち明け聞かすことをしなかったのと同じように 自分の思いを誰にも打ち明けることをしない・出来ない浮舟がいる。このような人物を描き出してきた作者が 作者じしん そこに立ち入ることも出来ない*1ような心の領域が 描かれる。あからさまに言って 二人の男のどちらを選びとるのか決心がつくくらいなら死のうなどと考えざるを得ない領域に ある。
これに対して 共同主観の優位な社会では どのように考えるか その点から入って次に継ごう。
(つづく→2006-07-30 - caguirofie060730)

*1:作者じしん そこに立ち入ることも出来ない:この視点 秋山・前掲書に拠った。