caguirofie

哲学いろいろ

#10

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

章一 《光源氏‐空蝉》なる対関係――ナルキッサ空蝉批判――

・・・《身分の差異は すなわち 対関係の不成立》という一観念が 提示され 確認を求められる。一般に このことは――すでに触れたように―― 《自らの境涯をわきまえた自己抑制の精神》として 肯定的に 評価されている。このような反論の立ち場である。
しかし われわれは まず この観念ほど 自己抑制の精神からほど遠いものはないと考える。それは 従って 市民社会の動態性に抗するものだとさえ考える。なるほど 市民社会の動態性――その階級関係の新たならせん状の発展――は 共同体関係もしくは社会形態の次元において 政治的な手続きを経なければならないであろうが 一定の共同体関係(社会体制)のうちにおいても 対関係の領域(スサノヲ圏)は 本来何ものにもまさって活動的な過程が展開されると言わなければならない。そのために 政治――共同自治――はあるのだから。既存の共同体関係を突き破るのは この対関係の形成へのモメント以外にないとさえ言わなければならない。このモメントは しばしば 偶有的・偶然的である。 
所有行為(あるいは むしろ 自己の所有という生)が 所有行為であるのは この領有域以外にない。そしてこのことは 身分関係(それとしての共同観念)の支配的な社会においては なおさら強調されるべき事柄である。事実 たとえば 律令体制の《公地公民》の所有様式は ムラ(村)イスムあるいは イエ(家)・キャピタリストの自立的発展の過程として その後――長期的に見て―― 名田・荘園・版籍(封土と藩民)・商業資本および一般に資本制的私有へと 活発に自然生成したと言っても言い過ぎでないほどであり 封建身分制がもし現代において総じて否定される方向に共同主観されているとすれば この現代においては 旧い共同体関係(実は すでにデモクラシつまり スサノヲ主権制)は 必ずしも全面的に政治的解放されることを必要としないほどなのであり よくも悪くも むしろ市民社会次元=対関係領域での 構造的な動態の確立こそが 第一の課題であると言えるようである。この意味で 現代市民社会の課題は 原形として すべて このセックス関係の問題に収斂するとさえ考えられるほどである。
帚木巻のこのアヴァンチュールについてみるとき 読者は 容易に 中の品の空蝉こそが 観念の資本家として現われ プレイボーイ・源氏が むしろ観念の賃労働者となるその一情況を 読み取ることであろうと思われる。ここで 観念の資本家とは 生産主体としてのまたは対関係形成への 保守を意味し 賃労働者は ピエロといった意味である。
もし共同観念(ナシオナリスムまた その支配下のムライスム)が 一定の社会形態のもとで・従って市民社会のもとで 共同主観(キャピタリスム)に比して 同等以上に 優勢であるとするならそのとき この共同主観体制を 未来社会へと移行させうる新しい生産力としてのモメントは むしろ 共同観念の領域において・そしてそれは初めに対関係を基軸として 見出されなければならないように考えられる。

  • 会社は誰のものかといった主題として 捉えられている。株主のものか 従業員のものか 地域社会ないし一般的に社会のものか。

もし対関係の領域に焦点をあてた限りでは その保守性とそして停滞性とは 原形として いまのナルキッサのうちに――ナルキッサが一般に対関係を不成立に終わらせかねないというその形式のうちに――求められるべきだと考える。市民社会学の出発は 基本的に このナルキッサの社会的解放の過程に存すると言うべきであろう。観念の資本家ナルキッサの社会的解放は 社会のナルキッサからの解放でなければならず それは ある意味で スサノヲ圏つまり日常性の領域の中の非日常性として存在するモメントであるが 物語の中で 源氏と空蝉との対関係として描かれているというのが あらかじめの捉え方である。その描かれる過程は このナルキッサ解放の方程式であると わたしは考える。
源氏が 空蝉のほかの女性たちと結ぶことになるもろもろの対関係が――相手の死によって完結する場合を除けば―― ある意味で この空蝉に対する関係のみが 必ずしも動態的な大団円をもって終わらなくとも 一つの完結の姿勢を示すことは それが 時に作者の自身への自己批判を含めた意味でも この間の市民社会学の原理を よく表わしていると考えられる。

  • なおここで 共同観念もしくは観念の資本を それじたいを 批判的に捉えるということは――そのニュアンスがあったかも知れないが―― 意味しない。対関係(愛)の成立においては そこに真正の観念の資本(単位対〔つい〕関係としての家族)が 築かれるのであり 真正の観念の資本が 一般に 増殖され蓄積されるのは 市民社会学の基礎としての社会資本に属す。
  • また 家族という観念の資本においては それは 資本家‐賃労働者という関係から 自由である。何故なら 二角関係の成立および新たな第三角をまじえての家族においては 一般に ナルシシスムが 解かれている。愛欲という孤独と孤独との関係は 孤独でなくなったからである。ひとつの公式としては 次の文章による。

家族は 精神の直接的実体性として 精神の感ぜられる一体性 すなわち愛をおのれの規定としている。したがって 家族的心術(心構え Gesinnung )とは 精神の個体性の自己意識を 即自かつ対自的に(=絶対的に)存在する本質性としてのこの一体性においてもつことによって そのなかで一個独立の人格としてではなく 成員として存在することである。
ヘーゲル法の哲学〈2〉 (中公クラシックス) 第三部 倫理 第一章 家族 §158)

  • 《一個の独立の人格存在としてありつつ 家族の成員としての関係存在でもある》と言いなおしたほうが よいかも知れない。《社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である》個人は その人格として この家族にも先行すると考えられる。
  • 従って この公式に基づいて さらに市民社会へと広げたいま一つの公式を導くなら 《資本家的市民‐一般市民》の生産行為関係は 個人を先行する基礎の存在として 家族という対関係において止揚されて 活発な現実を形成し その基盤の上に 市民社会は つねに動態的に この資本‐賃労働の関係を揚棄していくという未来社会像が 一方では 示されうるとも考えられる。社会形態(現在では 国家)は これらの現実領域を 社会科学主体としてその環境整備をなすという視点のことである。
  • さらにその意味で

愛とは 総じて 私と他者とが一体であるという意識のことである。だから愛においては 私は私だけで孤立しているのではなく 私は私の自己意識を 私だけの孤立存在(――つまり ナルシシスム――)を放棄するはたらきとしてのみ獲得するのであり しかも私の他者との一体性 他者の私との一体性を知るという意味で 私を知ることによって 獲得するのである。
愛はしかし 感情である。つまり自然的なものという形式における倫理である。だから愛は 国家においてはもはや存在しない。
ヘーゲル法の哲学〈2〉 (中公クラシックス) §158追加)

この意味において 市民社会(スサノヲ圏)が 

すべての歴史の真のかまどであり舞台であ(マルクス

り それは 愛欲および愛という対関係において 始まると考える。そして これら

現実的な諸関係をおろそかにして国家のものものしい重大行為だけを取り上げる従来の歴史観がどんなに不条理であるかということ(マルクス

さらにそして われわれの条理は 消極的には ナルキッサなる対関係形式の批判から始めるべきと考えた。本論にもどろう。


すきずきしきアヴァンチュールから始まった《源氏‐空蝉》の対関係(互いに 負である)は 物語りにおいて ほぼ十年後以降の ある意味で晩年の両者の関係(初音の巻)という発展過程をたどる。
ここでは もはや この過程を つぶさに取り上げようとは思わない。すべてを端折って ただ次の一場面を取り上げる。すなわち ふたりが 逢坂の関で 偶然 再会する場面のみを取り上げ そこでは今度はむしろ 源氏に対して批判をなすべきという局面になる。
さて 再会の場面も 他のすべてを端折って ふたりの詠んだそれぞれの和歌を取り上げるのみとしたい。そこでは――序・補の最後で保留した・全体概念としての《うたの構造》および 個体的なまたは個別的な《和歌の構造》とが 問題となるであろう。和歌の構造とは うたそのものの無力を言い それは 取りも直さず それが詠まれたという存在じたいとしては 全体情況に対する一種の威力をも含ませて言っている。
はじめに空蝉が詠んだ歌。

行くと来(く)とせきとめがたき涙をや絶えぬ清水と人は見るらん
It flowed as I went, it flowed as I return,
The steady crystal spring at the barrier rise.
(関屋)

この歌は 端的に言って あのナルシスが語った一行・《至純の沈黙においてわたしの空しい涙 larmes vaines を献りに来たのだ》に対応する。源氏の涙が 《絶えぬ清水》であり それを空蝉は 《人は〔そう〕見るらん〔しかしわたしは・・・〕》と考え かつ 述べることにおいて 《空しい涙》なのである。
ここで 空蝉は ひとりの観念の資本家として 源氏の心を奪い取っている。まずこれが 観念の資本としての 搾取である。つまり あくまで心理的に想像裡に いわば親分となることである。次に それを《せきとどめられるべき( at the barrier rise )清水( spring )》として 定立させる。仮象であるが そう捉える。対関係による生産行為関係への発進をせきとどめ 生産主体であることを拒否するという恰好である。そうすることによって初めて 社会的に生産にもかかわろうとする。すなわち 幻想の共同つまり 親分‐子分の関係という心理共同なる観念のうちに初めて 生産関係を結ぼうというかたちである。核の傘ではないが 親子の関係にも似た心理の共同を 想像裡に観念として 築き上げようとする。なぜ 親分‐子分の二角関係かといえば とうぜん 対関係の結果の家族に似せているのである。愛が その意味において かれらの求めるものでもある。――このような観念の資本家は きわめて強い吸引力を発揮して親分たろうとするしかも自足自給的な観念の資本家(つまり ナルキッサ。また ヒミコと言ってもよい)でなくて 何であろう。
つまり 《うたの構造》は 全体概念として ナルキッサ空蝉を その中に包み 歌じたいの構造は その中でのそれの生産力の無を表わす。お涙ちょうだいの空しい涙による幻想の共同性が 意図したからか 繰り広げられようとする。
それに対して 源氏のうた。かれは そのように歌をおくることによって なおプレイボーイ=観念の賃労働者であることをやめない。この点に 前もって述べておけば 批判が向けられる。

わくらはに行きあふみちを頼みしもなほかひなしや潮ならぬ海
By chance we met, beside the gate of meeting.
A pity its fresh waters should be so sterile.
(関屋)

ここでは 歌じたいの構造は それじたい 無力を表わし 全体概念(生産行為関係の綜合。そこでの情況全体)としてのうたの構造は そのまま 観念の資本またはその剰余としての《うた》として仮象され 共同観念の世界における停滞性を 表わす。この停滞性は たとえば この古代市民社会における身分関係の保守性でないとしても 特に 空蝉の側の伊予の介(いまは ここでは 転勤の結果 常陸の介)との婚姻関係(制度としての家族)の停滞性(つまり心理的には コンプレックス=時間の複合)として 源氏は 見ている。空蝉は なんとどうしようもなく非生産的な非家族的な歌詠みであることよと。
ここでは 空蝉にとって 生か死か あるいは 離婚か婚姻の継続としての愛の形成かが 問われている。そして 源氏が それに対して うた(かれら二人の旧来の対関係仮象という資本の さらに剰余として)を表わしたことにおいて その問いは 消えた。このかぎり 両者の対関係は 市民社会のかまどを築き得なかったのである。
なお このように見るとき 源氏‐空蝉の対関係は それじたい つまりその関係の過程じたいが それぞれの人物の生涯全体を語りうる内容を持ち 従って この同じ源氏が さらに ほかに いくつかの対関係を形成するというとき たとえば 空蝉に対する主人公と そして紫の上に対するときのかれとは むしろ別人物と考えるべきではないかとの疑問が 起きる。または 別の角度から言って そのように五十四帖は 互いに別個の物語を寄せ集めて 一人の主人公を通して語っているのではないか。あるいは その作者が 紫式部ひとりには限られないのではないかとの疑問が持ち上がる。
これに対しては 問題は この疑問となる事項じたいの解釈・探求にあるというのではなく それは 当時の市民社会の総合的な関係の様式と現代のそれとの差異のほうにこそあると考えたほうがよい。それは 間接的には 身分関係の支配制とその揚棄 基本的には 生産行為様式(どのようにどの職業に就き働くかなど)の時代的差異 そして直接的には 唯一神体系という意味でのキリスト教による愛の問題であると思われる。
実際 プロテスタンティスムというキリスト教によると考えられているキャピタリスムのもとでは 一夫一婦方式が 普遍的形態である。それは 淵源としてたとえば 一つに 《アベラール‐エロイーズ》の類型を生み その一系譜をかたちづくっている。――光源氏が 何人かの人物を一人にまとめて 一人の主人公にしているのではないか あるいは 作者が 紫式部のほかに 複数いたのではないか こういった疑いについては 上のような事情がかかわっていると考えられる。
さらに これらのことは 同じような意味あいになるが 次のようにも解される。

(つづく→2006-07-19 - caguirofie060719)