caguirofie

哲学いろいろ

#12

――ポール・ヴァレリの方法への序説――
もくじ→2006-07-07 - caguirofie060707

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さて 江藤淳および吉本隆明によって ぼくたちの《時間》をながめてみるところに来た。
すなわち 言葉の世界における衣替えによる時間と やはり 時間そのものの衣替えによる時間との二つの座標・方向である。
まずその前に この章でもあらためて ぼくたちの問題の中心点であったところのものを ふたたび平田の文章によって確認しておくことは無駄ではないと考える。

マルクスは 意識関係行為としての所有すなわち所有権を論ずる。
――人間はいかなる社会にあっても類的存在としてあるのであり 社会的分業の一分子として存在するのであって 個体としての関係行為は 主体相互間のそれとしても また主体客体間のそれとしても すべて この社会的分業体制を構成するものとして存在する。
これは一個の自然的必然事である。そして これと同時に分業体制の採る歴史的形態規定は そのなかにある成員にとっては あたかも自然史的必然と同様に不可抗の社会的必然である。この必然が個々の成員の自覚的意識にとって一個の生活原理として受けとめられるとき それはこの社会の支配的な規範となる。
このように主体相互間の社会関係が社会規範になるとき 人間の客体的条件にたいする関係は この規範によって媒介される。この媒介自身 人間の意識関係行為であること 言うまでもない。
したがって客体的条件=物にたいする人間の行為(利用または支配)は この意識関係行為によって相互に 承認され保証される。
物にたいする人の利用・支配が この規範の定立と尊重によって承認され保証されるとき それは所有権となる。

所有権は 自分のものとしての生産諸条件にたいする意識された関係行為 das bewusste Verhalten である。
マルクス自筆原稿ファクシミリ版経済学批判要綱

(平田清明経済学と歴史認識

所有・所有権というのは 突然の命題であるかも知れないが この引用文の意味するところは おおむね すでにぼくたちがたどってきた過程である。あの中心点における葛藤が 《情感》によりは 《意識(意識関係行為)》のほうに重心をおいて整理されたということができる。
煩をいとわないならば それはたとえば 《主体相互間の関係行為》とは 第二・第三の意識を表わしており 《主体客体間の関係行為》はおそらくは第二・第三の意識を含んで 特には第四の意識である。また 《社会の支配的な規範》もしくは《その規範を媒介として所有権となったという・物にたいする人間の行為(利用または支配)》は 同じく 第四の意識の基本的な内容である。
したがって この章で引き継いで述べようとしている点は たとえば《所有権のもとにおける 所有というぼくたちの行為》についてである。
この命題の中では 《所有権〔となった〕》という側面は 現代・資本主義社会をその対象としてにらんでおり 《所有という行為》という視点は ――すでにぼくたちが問うていた点と関連して――行動(生産)による行為とともに 言葉による〔やはり生産という〕行為をも 含んでいるということであり そしてさらに 言葉によると行動によるとを問わず ぼくたちの生産行為は 本来 その初源の行為者であるぼくたちそれぞれの所有するところのものであるということであった。

  • 生産行為が それぞれ固有に・そして互いの関係としても十全な《時間》の展開であるとしたなら そういうことになるはずのものであるだろう。

こう述べてきて ぼくたちはいま 初めの課題であった 文学ないし社会思想的《時間》の領域と 他方 社会科学という第四の意識との相互対立的な関係を 主体的に 葛藤はつづくものの それぞれ少なくとも見通しうる地点に立ったということができる。この中心点における相互の対立関係に焦点を合わせてみるとき ぼくたちはそこに まず 必ずしもその縁組みの成立を見るものではなかった。また かと言って 破談のための破談を見るものでもなかった。少なくともそのように 消極的ながら 表現しうる里標地点に立つことができたと言っていい。
この点について もう一点 平田との対比において確認を怠らないとすれば――江藤対吉本のばあいに進む前に――次のことに触れておきたい。
平田は これまでの《時間》に関するかれの視点をまとめる意味で たとえば次のように述べる。

最後の《資本論》たるフランス語版《資本論》は その主要研究素材したがってまたその直接的妥当範囲を西ヨーロッパに明示的に限定することによって そこにおける市民的資本主義の展開過程=構造連関を体系的論理基準とすることによって 非西欧地帯における資本主義の類型的把握を用意するものであると同時に この西欧的基準そのものをひろく人類史的視点から批判しようとするものであり また このことを通じて 西欧文明的な発展段階を宿命として経過することなく非西欧諸民族社会の人類史的発展と西洋諸社会における文明史の人類史への揚棄との同時的可能性を客観的に明らかにしようとするものであった。
経済学と歴史認識 p.480)

まず平田のマルクス認識によれば あの縁組みが整ったとするなら いますぐそこから いわゆるマルクシストの《時間》は始まるのであった。しかも究極的なかたちとしては西欧世界・非西欧世界の区別なくその到達地点としての目標は 《一挙なる衣替え》の《時》 もしくは世界史的に《時間》の前史の終結ということであった。
この一見 矛盾するような・しかし持続する《時間》については たとえば《新編輯版 ドイツ・イデオロギー (ワイド版岩波文庫)》の次の箇所に明示されるとおりのものであると考えられる。

共産主義は経験的にはただ《一挙に》( auf “einmal” )または同時になされる支配的な諸民族の行為としてのみ可能であるが このことは生産力の普遍的な発展およびこれにつながる世界交通を前提している。・・・
共産主義はわれわれにとっては つくりださるべき一つの状態 現実が基準としなければならない一つの理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは いまの状態を廃棄するところの現実的な運動である。
この運動の諸条件はいま現存する前提からうまれてくる。
ところでただの労働者たちの大衆・・・は したがってまた一つの保証された前提としてのこの労働そのもののもはや一時的でない喪失は 競争を通じて世界市場を前提する。だからプロレタリアートはただ世界史的にのみ存在することができ おなじくかれらの行動である共産主義も一般にただ《世界史的》( weltgeschichtlich )存在としてのみ現存することができる。諸個人の世界史的存在とは 直接に世界史とむすびついているところの 諸個人の存在のことである。
ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫) ただし上は古在由重訳)

さてしかし 社会科学者・平田とはちがう意味で このマルクス的《時間》を独自に見出す日本人はいるのであって ぼくたちにもその理論と実践は 強い説得力を持って迫るところがある。それは すでにあげた吉本隆明のばあいであり ここではその例を 《文学と思想の原点》と題した江藤淳との対談の中に迫ってみたい。
この論点にただちに入るならばまず 江藤は そこで 情感の共同性の核とも言うべき意味で 《社稷》の概念を持ち出す。かれは この社稷によって 第四の意識を包含するかのように 社稷をあずかる政治の行為 とともに かれ自身の行為(時間)の方向を示す。
それに対して 吉本は もちろん第四の意識を排除しないで しかもその意識を生む社会(その制度)と 日本の歴史伝統的な社会支配体制との結びつきからの自由なる《時間》 これを主張する。その点についてたとえば吉本は 支配体制に残されている共同祭儀・秘儀をあばくべきだと言い それに対して社稷に拠る江藤は そうなると《全部終わり。つまり 人間社会が存続しなくなる と思う。》と応える。

吉本)・・・僕に言わせれば その秘儀の実体ははっきりさせろということです。とにかくはっきりさせればすべて終わりであるとおもいます。・・・江藤さんは そういうのはあったほうがいいし またそれは別の形では どんな社会がきてもあるんだというふうにおっしゃるかもしれないけれども 僕は どんな社会がきても 全部秘儀はあばいたほうがいいと思います。・・・

これ・つまり秘儀の問題は 言うまでもなく 《情感》の社会科学的領域・つまり《政治》に対する視点の問題である。
江藤のばあいは かれが《社稷》・したがって政治もしくは情感の共同性(その存続)を見ることから出発するかぎりにおいて 漱石の例のように 存続を信じることによって 現実の対立・破綻に対しては 再婚を求めつづける《時間》のなかにある。それは 出発をしているようで 実は 足踏みをしている――進まないようでいて実は 確かに出発をなしている――とでも形容すべき時間である。たとえば

江藤)・・・思想というか イデオロギーといいますか・・・これはもともと言行不一致のもので だからといってあながち責めることはできない。つまり それはプロジェクションですから 何か努力目標として投射したわけですから。ただ僕は 思想と言う時 そういう努力目標としての思想というものを あまり信じないのです。現実にどう生きているかということを正確に言うものが思想である。あとは 時代は崩れ 人は滅びる それだけだという そういう心境です。・・・

というように。ここでかれの思想の時間的性格については あの中心点における縁組みの成立を必ずしも見ない点 および《社稷》という概念に拠るということ ただし 破談のための破談を見るのでもないという点が 特徴的である。しかし それに対して 吉本のばあいの《時間》は 上の引用文の中のような《努力目標》を持つといった性格の思想から出発するのでも必ずしもない。
つまり かれのばあいやはり《いますぐここで》つねにその《努力》が行為されるべき《時間》であると言ってもよいのであり 他方それが 世界史的な観点における目指すべき到達地点が 世界史的な同時なる《衣替え》の時間ということである点においては 水田・平田のばあいと大きく言って同じ軌道の上にある。
そこで 吉本のばあい 特にこの到達地点については どのように捉えられた時間であるのか。それについては さらにふたたび平田の議論を先に掲げて さらにその後に述べたいと思う。



平田は マルクスに拠って この到達地点を たとえば先ほどの《所有》の問題としては 《個体的所有の再建による社会的所有の実現》であるとして 次のように 読む・説く。
なおここで 《個体》とは ぼくたちにとっては 《個体の幻想》というときさえのそれであり また幻想領域をも容れたあのヴァレリのさまざまな位相を伴なった《自己》のことにほかならない。平田にあっては 次のような脈絡の中にある。

ここに資本家的所有からの転化としての社会的所有とは 資本のもとで《協業》を形成し 全生産手段の《共同占有》者たる労働諸個体が 彼らのおかれた私的競争関係に打ち勝つ《連合による革命的連帯 revolutionäre Vereinigung durch die Assoziation 》によって資本家的私的所有を廃絶し 資本家時代にすでに事実上成立している《集合的生産様式》(=《社会的生産経営》)を真に個体的にして共同的な生産様式として確立し 同時に この生産様式に照応した個体的にして共同的な生産=および交通諸関係を したがってまた真に人間的な享受関係を確立すること つまり 真に社会的な協同体(ゲゼルシャフトリッヒ・ゲマインヴェーゼン)を創出し 人格的な依存関係および物象的依存関係によって規定された人類前史の超克たるにふさわしい《自由人の連合体》を 地上のものにすることにほかならない。
(平田清明経済学と歴史認識 p.479)

ここでは 《個体的〔な時間の〕所有》という行為が 少なくともかれの時間にとっては さらに鮮やかに表象されているのが見られる。
平田の《個体》もしくは《時間》については もう多くを語らない。ただ一言触れておくなら 《人類前史》というその予めの規定から単純に思われることは ぼくたちが世界史的に《個体的所有を再建》するまでは ぼくたちの個々の《時間》も 《前史》もしくは《前・時間》といった性格を帯びるのであろうかといったことである。
これは 素朴な問いにすぎない。ただ 類としての《本史(?)》に対する前段階というものと 種としての《時間》(=《現在》)は 互いにいかなる関係にあるのだろうかと発することは 可能なように思われる。
そこで このような疑問にも応えて 吉本が かれの《時間》において 自己を見つめるべき到達地点に触れるのは 次のようなのである。長く引用するが 重要な契機であることに まちがいない。

吉本レーニンが究極的に考えたことは 少なくとも政治的な権力が階級としての労働者に移るということはたいした問題じゃない。つまり それは過渡的な形であって ほんとうは権力というのはどこに移ればいいのか。
それはあまり政治なんかに関心のない 自分が日常生活をしているというか そういうこと以外のことにはあまり関心がないという人たちの中に 移行すればいいんじゃないか というところまでは考えていると思います。・・・
では 権力が移行するというのは具体的にどういうことか。そういう人たちは 政治なんていうのには関心がないわけですから お前 なんかやれと言われたって おれは面倒くさいからいやだと言うに決まっているわけです。しかしお前当番だから仕方ないだろう 町会のゴミ当番みたいなもので お前何ヶ月やれ というと しょうがない 当番ならやるか ということで きわめて事務的なことで処理する。そして当番が過ぎたら 次のそういうやつがやる。そういう形を究極に描いたんですね。そういうことで秘儀をあばけば全部終わるじゃないかということに対しても 思想的なといいますか 理論的なといいますか 対症療法として考えたわけですよ。・・・


レーニンが究極的に ポリバケツをもった ゴミ当番でいいじゃないかと言った時に 究極に描いたユートピアというものは ほんとうはたいへんおそろしいことだとおもいます。おそろしいというのは 江藤さんの言い方で言えば そうしたらすべてが終わっちゃうじゃないか ということを ほんとうは求めたということです。
つまり すべてが終わったのちに 人間はどうなるんだとか 人間はどうやって生きていくんだということについては 明瞭なビジョンがあったとは思えないんです。また そういうビジョンは不可能だと思います。
だけれどもすべてが終わったということは そういう言葉づかいをしているんですけれども 人間の歴史は 前史を完全に終わったということだと言っているわけです。
これは ある意味では江藤さんの言葉で 人間は滅びる というふうに言ってもいいと思います。なぜならば それからあとのビジョンは作り得ないし また描き得ないわけですから。
だから人間はそこで滅びるでもいいです。それを 前史が終わる というふうな言い方で言っています。前史が終わって こんどは本史がはじまるというように 楽天的に考えていたかどうかはわかりません。だから人間はそこで滅びるでもいいと思います。だけれども そうすれば前史は終わるんだということです。
まず第一に政治的な国家というのがなくなるということは ほんとうは一国でなくなっても仕方がない。全体でなくならないとしょうがない。そうすると 全体でなくなるまでは いつも過渡期です。だから どこかに権力が集まったり どこかにまやかしが集まったり どこかに対立が集まったりすることは止むを得ない。止むを得ないけれども それに対しては最大限の防衛措置というものはできる。そうしておけばいい。しかし そうしながらも究極に描き得るのは 人類の前史が終わるということです。
あるいは江藤さん的に言えば いま僕らが考えている人間は終わる ということです。それから先は 描いたら空想ですから 描いても仕方がない。理念が行き着けるのはそこまでであってね。だけどそこまでは 超一流のイデオローグは やっぱり言い切っていると思います。・・・ 

  • ますます 即身成仏の説に近くなってきた。

この説に関しては もはや付け加えて多くを語らなくていいと思う。ぼくたちは章を改めて つづけて論じたい。
(つづく→2006-07-06 - caguirofie060706)