caguirofie

哲学いろいろ

#4

――ポール・ヴァレリの方法への序説――
もくじ→2006-07-07 - caguirofie060707

γ ‐2

ここで 《文学》を第一ないし第三の意識の領域であるとすれば ヴァレリは この領域と対峙して 私的で個別的な感性の世界にあるか もしくは 個別的には私的な感情を伴なわなくはないあの第四の意識をたずさえているかのどちらかである。ここは 前者つまり私的で個別的なむしろ感性の世界に対してのそのままの表明であるが しかしそうであるがゆえに 客観的な社会科学的分析によって 《時間》をとらえることと 仮りに潜在的で対立的ではあっても 《時間》の出現というぼくたちの出発に関しては その原点をも形成すべき重大な接点をなすものであると言えよう。
言いかえれば客観的な第四の意識といえども 脱・私的で非・感性的な《時間》としては考えられないから。それでは何故 ヴァレリのばあい 第四の意識へとは進まなかったのであるか。それを次に追ってみておこう。
ところで ヴァレリについて一般に了解されるうるかれの《時間》に関する観点というのは 一言で言って先に挙げたように《人間になしうるものは何か》というものであった。言いかえれば それはやはり 意識ないし自己という主題である。そこでこのヴァレリの追求した《自己》が内包するものは 要約して箇条的にあげれば 次のようであると考えられる。

1 《自己》の社会的な力( la puissance du moi )
これは 特に 社会的支配・被支配の意識であり 専制的な支配の力の問題である。それは当然 資本家的市民階級の支配力という第二・第三の意識をとらえており 資本主義という経済法則じたいの〔つまりは 旧い見方として 資本家社会が 資本家社会じたいによって揚棄されるという法則の〕支配力という第四の意識へは いま一歩である。
この点は 先ほど触れていた点であるが この第四の意識を摂り入れるには おそらくそれを自然法思想として もしくは自己の神学としてそうする必要があると思われ その点 以下にも見るように ヴァレリは ただし その神学を採らないようである。


2 《自己》の超現実 ないし個体の幻想という意識( l'irréalité du moi )

これは 自らの時間に方向および色彩を与えるべき 自己に固有の時間の傾きである。
このような《自己》の側面は いわゆる対(つい)なる幻想もしくは共同なる幻想と密接に関連すべき領域である。つまりこの《個体の幻想》領域は おそらくつねに《対幻想》とは順立する関係にあり 《共同幻想》とは一般に逆立し あるいは同時に 順立を求める関係にあるだろう。
なお 後にも問題になると思うが 水田のばあいは このような《自己》の一側面つまり《幻想》領域というものを 四つの意識のその前面には出さない。それは 社会の客観的な認識である第四の意識が およそそれと同じ位置にあると言ってもよい社会の客観的な共同なる幻想に取って代わったことの必然的な結果である。
水田は前三つの意識と第四の意識との結合・統一を 歴史的にも現代的にも A.スミスとK.マルクスのばあいに見ると説く。この結合点・つまりぼくたちが先に自然法思想もしくは神学に近いものとして受容する意識と見た接点は このヴァレリの《自己の超現実》とは ちょうど裏腹の関係にあると思われる。ヴァレリにおいては 概して かれの《個体の幻想》は 資本主義社会の《共同なる幻想》と逆立して均衡する。


3 根源的な《自己》( l'inépuisable moi )
これは たとえば 《若いパルク》という一つの根源的な《自己》の姿を追求するかたちで著わしたこの作品に現われているものである。
また 意識が欺かれることを経てなお持続する・もしくは 意識が 自らの意志とは直接かかわりなく眼前を流れる第四の意識に対して 疎遠な関係ながら持続するとき そこにあると信じられる根源的な《自己》であろう。


4 とにかく《自己》というもの( le moi quoi que ce soit )
これは そのままでよいと思うが それは 必ずしも根源的なものを言うのではなく かと言って おのれの幻想領域を形作る自己に固有の《時間》への傾きというのでもない そしてまた 自己の社会的な影響力などということまでは至らない とにかくそこに己れがいるというほどの《自己》。

以上である。この一つひとつの《自己》の側面じたいにも その中で さまざまな・そして時には互いに対立するような諸領域が考えられるが まとめてこれら四つの側面にも 互いに対立もしくは反撥しあって密接に関連しながら《自己》という一個の実存をなす領域があると言うべきであろう。
ヴァレリの意識のばあいを追うことによって第四の意識の摂りこみに関して いくらかを述べることができたかと思うが 必ずしもまだ事態の解決には至っていない。以後においても追求するつもりであるが ここで 日本においては《精神》の現象が 情感においてあらわれるとした点に関連して少し触れておく必要がある。
情感は 一般にヴァレリの《自己》の四側面に沿って言うならば その中の特に《幻想》領域を持つ側面において・側面を中心として・もしくはその側面の衣をまとって 自己という一つの実存をなすときの現象であると考えられる。従って恐らく情感は 第四の意識に対しては 共同なる幻想の立ち場にあるとまず考えられる。そして西欧人でないぼくたちであるが とにかく推測を逞しくすれば 西欧社会においては 《精神》が意識としてあり 社会的に言って情感をまとうことが比較的少ないと思われるからには 資本主義社会の(資本主義社会に対する)自然法とも言うべき第四の意識も 共同なる幻想(つまり 資本家的市民に共同なる)をまとわないかたち・脱ぎ捨てるかたちが より一般であるのではないかと推理される。
ただもちろんヴァレリのようなばあいは まとうでもなく 積極的に脱ぎ捨てるでもない例であり そのような場合をも除外するわけにはいかないが。さらにここでもう一言 触れる意味で 水田自身のその点に対するコメントを引いておこう。

社会科学が社会を分析するには 対象としての社会が とにかくひとつの体制として 成立していなければならない。ところが ひとつの社会体制の成立は ひとつの階級の支配の確立をいみする。したがって その社会体制の客観的認識は 社会と個人との矛盾がなくなったとき あるいは そういう矛盾を感じない立場から 可能になる。
それはむしろ支配階級の立場であってそのとき 被支配階級は この社会体制を批判するけれども 全面的はあくの点では支配階級におよばない。社会思想および社会科学の歴史のうえでは スミスとマルクスが きわだった例外として 理論と実践 認識と批判 客観分析と主体的意欲との すなわち社会科学と社会思想との たぐいまれな統一をしめしている。それは ふたりのすぐれた方法や態度にもよるが 同時に スミスの時代のブルジョワジー マルクスの時代のプロレタリアートの歴史的条件にもよるのである。
(水田洋:社会思想小史 (Minerva21世紀ライブラリー)

先にも少し触れたように 水田は ここで マルクスらのばあいに 第四の意識という客観分析が ぼくたちの個別的な《時間》という主体的意欲と 互いにその縁組みが成ったと明言している。ただそれにもかかわらず 正直に言ってここに引用した短い一節だが そこからはまだ ヴァレリのばあいほどではないとしても 具体的な生きた《時間》としてその微妙な方向ないし色彩は伝わってこないという印象をぬぐいがたいと思われる。少なくともぼくたちは この縁組みという接点を中心として より現代へと そして特に日本という社会へと――ぼくたちの《時間》という課題において――さらに迫っていかなければならないだろう。
それは次章からふたたび 文学の視点に戻って すなわちその意味で社会思想的実践の立ち場から できるかぎり客観的な社会科学からの認識・批判・理論をにらみ合わせながら ぼくたちの十全な《時間》の構造を追及していくことにしたい。(むろんのことながら それは 水田の立ち場を離れようとすることではないだろう。)
(つづく→2006-06-28 - caguirofie060628)