caguirofie

哲学いろいろ

#3

――ポール・ヴァレリの方法への序説――
もくじ→2006-07-07 - caguirofie060707

γ ‐1

ここで新たなかたちで――別の視点から――ぼくたちの課題を言いかえるなら それは端的に言って 社会における階級対立という意識にどう取り組むかということ あるいは逆に言って 社会的な情感の共同性(その存続――破綻と綜合――)の問題ということになるだろう。
まず初めに その前提となる事柄をおさえよう。たとえばここで新たに登場する水田洋は ぼくたちの《意識》を次のように分析する。

・・・人間の意識はみっつの段階を経過した。
第一は 人間が生産し生存することの意識
第二は 人間がじぶんとはちがった人々とともに社会のなかにいることの意識
第三は 社会が危機におちいり 内部の異質性が激化したことの意識である。
第三の意識はまた じぶんがいままで生活していたのとちがったべつの社会があるという意識にもなる。したがって 第一の意識は 人間と自然との対立 第二の意識は 人間と人間(または社会)との対立 第三の意識は 社会と社会の対立に もとづくといってもいいであろう。
(水田洋:社会思想小史 (Minerva21世紀ライブラリー)

これまでのヴァレリないし大岡の 意識もしくは情感――つまり ともに ぼくたちが 精神と呼んだものだが――の視点は ここでは いわば第一および第二の意識の一体となった〔それを 実存と言ってもよいが の〕個別的な視点である。そして同時に その視点からの出発に重きを置いて見るなら 第二ないし第三の社会的な対立ないし矛盾にも根ざすものということができよう。さらにそして この意識もしくは情感に特に《時間》を見出させるところのものは それぞれの個体において おのおのに固有の曰く言い難い方向もしくは色彩が それを担うというふうに述べていた。
ここで 水田の意識は おのおのの個体に生まれる時間とともに ある意味で かれが生きる社会じたいに固有の・つまり歴史的に一回きりの《現代》という時間を見ることによって さらに別の第四の意識というものをたてる。これは 言うまでもなく 特に 資本主義体制という歴史的な社会においてのそれである。水田自身の表現によれば――少し長くなるが――

〔資本主義社会が それまでの諸社会から区別される〕重要な差異とは 第一に 資本主義社会が それまでの社会のように 政治的・軍事的な力によってうごかされるのではなく 経済法則によって運動することであり 第二に これまでの社会は わりに静止的・統一的で 各個人は 社会におけるじぶんの位置 じぶんの存在理由を たとえば《生まれつきの身分》というようなかたちで かなり容易にしることができたが 資本主義社会では それがかんたんにはわからなくなった。
資本主義社会では すべての人間が商品の生産者・販売者として自由競争をおこない その商品が売れたときはじめて じぶんが社会に存在する理由があることを しるのである。まとめていえば 資本主義社会は そのなかにくらしている個々の人間の意志と直接にかかわりのない 客観的な秩序なのである。
ここにおいて 人間はおおきな自由をえたのではあるが 同時に孤独になる。やがてかれにとって 自由が恐怖すべきものとなるときに権威への従属がはじまる。
一方では 社会と個人との距離は これまでとくらべものにならないほど とおくなり そのいみで 社会を理解することが ますます必要になるとともに 困難にもなるが 他方では それが支配者の意志をはなれた固有の法則をもつことによって 理解が容易になる。
このような事情のもとに成立する社会認識が 社会科学とよばれるものであり それは前述の三段階の発展として 人間の意識の第四段階とみることができるであろう。
社会思想小史 (Minerva21世紀ライブラリー)

というようである。
それでは このように ぼくたちの《個々の意志とは直接にかかわりのない〔社会の〕客観的な秩序》・法則に関して 目に見えては及んでいないこれまでの意識もしくは情感によるぼくたちの出発として見た時間は 十全なものではなかったのだろうか。
それに対しては資本主義という社会に そのさらに微視的に見た発展ないし変貌の段階にちがいがあることは別にしても もし仮りに 逆に社会にも それぞれにその固有の方向・色彩があるとするなら その意味では 個体の実存といった点から出発したこれまでのぼくたちの文学者(または社会思想者)も 直観的になどの面から あるいはこの第四段階の意識をも包含していないとは言えないであろうと まず言うことができる。
要するに このときの問題点は 水田が――そして一般にもその見解は支持されないわけではない が―― 現代において見られるべきと言う・そして社会科学という第四の意識について ぼくたちは どのようにそれを それぞれ個別的に・主体的に自らの時間の中に摂り入れることができるだろうか という点にあることになるだろう。この点にかんする水田の認識は とりあえず次のようである。引用に継ぐ引用であるが

社会科学が 人間の意識の第四段階だとすると 第二 第三の段階ともいうべき 社会思想は 社会科学のなかに吸収されてしまうのだろうか。そうではない。
第一に 社会科学は 社会の機構を 全体としてとらえなければならないが 社会思想は そういう社会はあくが可能でないときにも なりたちうる。
これと みっせつにかんれんして 第二に 社会科学が 社会の機構を客観的に分析するのにたいし 社会思想は 社会のなかでの人間の主体的ないきかたから 出発する。客観的 体系的 理論的にたいして 主体的 断片的 直観的であるといえよう。
たとえば いわゆる空想的社会主義 あるいは もっといっぱん化して 先駆的社会主義は 資本主義社会の客観的理論的はあくという点では 古典学派の経済学に はるかにおよばないが 資本主義社会の主体的直観的批判という点では それにまさる。また すぐれた文学作品は ほとんどつねに そのままで 社会思想としてもすぐれたものであるが それは そのままでは すぐれた社会科学的分析とはいえない。
社会思想小史 (Minerva21世紀ライブラリー)

ここでは それまでに行なったぼくたちの認識が 直截にまた簡潔に整理されて述べられているのを見ると言ってよい。
その点では ここでふたたび これまで述べてきたぼくたちの出発の時間であったもののほう――水田の言葉で 社会思想の側面――に傾いて その視点から いまの問題にさらに触れていくのもいいだろう。たとえば ヴァレリについてみるとき これまでの視点が 擁護されないわけではない。
つまりヴァレリのばあいにおいては――社会科学の立ち場に逆らってでも―― 次に述べるようなかれに固有の個別的な時間の方向および色彩を持つことにおいて そしてさらに その次に述べるようなかれの時間に関する観点から言って いまぼくたちの問題点となっている第四の意識からもちろん無縁でありえず またそれについてそれなりの思惟のあと――跡ではあるが――を残しているとさえ思われる。すなわち
まずヴァレリの固有の色彩と方向とは 次に引用する一文に端的に内包されていると推測される。たとえばかれは その死の三ヶ月前に 次のように書いた。

人間に何ができる? 私は五十年以上まえに この問題をたてたのだ。
(カイエ)

と。この《人間に何ができる?》との問いは 意識という点で後に述べるようにさまざまな要素を含んでいると思われる。が ここでは さしずめ あの最初のピンダロスの主題を思い浮かべるとともに いまここでの《資本主義社会の客観的な法則》を分析した上でのその認識をも 十全に 自らの主体的時間の中に摂り入れて統合することの或る意味で不可能を かれとしては直観していたのかも知れない。そう推測できなくはない。
ただしそれは かれの文学〔という時間〕の色彩が 特に 次に引用する文章に述べられるようであるとき あたらない推測であって ヴァレリは 結局において資本主義社会とその方向を同じくしていたとしても・つまり 消極的なかたちで そこには 主体的な意欲としても客観的な分析の視点としても 第四の意識から離れない時間を当然持っていたと考えられもするのである。つまり

私にとって文学とは 愛と嫉妬とのこの想像〔――青年時代の恋人であったMme Rov... に対しての――〕が もたらす毒に対抗する手段である。文学は というよりは むしろ およそスピリチュエルな一切は つねに私の反生命( anti-vie )であり 私の反美学( anti-esthétique )だった。だが一方で これらの感覚は 強力な知的刺激剤になる。病毒が治療薬を強化する。
(カイエ)

ここで 《文学》を第一ないし第三の意識の領域であるとすれば ヴァレリは・・・
(つづく→2006-06-27 - caguirofie060627)