caguirofie

哲学いろいろ

#2

――ポール・ヴァレリの方法への序説――
もくじ→2006-07-07 - caguirofie060707

β

最初に明らかにしておきたいことは このような《時間》についての やはり西欧人とぼくたちとの方向ないし色彩のちがいに関してである。
いまその輪郭を 先にあげたヴァレリと大岡とによって見てみよう。おそらくそのちがいの第一は 次のような点に存在すると考えられるのではないか。すなわちそれは――よく言われることでもあるが―― 一言で言って かれらは《時間》をその意識において捉えようとするのに対して ぼくたちは一般に 情感においてそうするという点である。
情感においてぼくたちは時間をとらえるということは どういうことか。
たとえばそれは 大岡が 上の短い引用部分の中でも 一般に性〔関係〕においての〔一つの挫折という〕出発をうたっていることに 代表されて現われているだろう。かれは 《過剰なるゆえの夢の喪失》を体験した。性関係とは いわゆる対(つい)なる幻想に属するものであり または広くとれば 〔その外延は〕両性の対幻想を一つの基体とした一般にぼくたちの互いの関係・つきあいの様式である。
そこで《夢の喪失》とは 性関係におけるまさに《時間》の現前であり もしくは逆に言って 一般の風俗・習慣という幻想の中への参入というほどのこととなる。大岡の詩のばあいは それを かれの《夢の過剰なるゆえに》受容したというのであるが いまその点を別にすれば ぼくたちは 多かれ少なかれ この情感の世界において何らかのかたちで 自身が あるとき欺かれるという経験をもつことによって おのおの《時間》への出発をなすというものであろうと考えられるのである。
そこで先のヴァレリの例は このぼくたちのばあいと きわだった対照をなして迫る。つまり かれが同じ《海辺の墓地》の中で かれらのその意識のことを たとえば次のようにうたうからである。

自己への愛か。おそらくは。いや
あるいは 自己嫌悪か。その蛆虫の
秘められた歯は あまりにも私の身近に迫り
友でも敵でも どんな呼び名もそれにふさわしい。
それにしても 奴は 見る 欲する 夢見る 触れる。
私の肉は奴に好ましく ベッドの上でも
私はこの生物に連なって生きている。

と。つまりかれらの出発は この《蛆虫》と何らかの関係がありそうなのである。
もちろん かれらのあいだにも それぞれ その出発のときの色彩のちがいはある。よく言われるように たとえばA.カミュはその《異邦人 (新潮文庫)》ムルソウについて かれが 銃の発射もしくは五発の銃声そのものによって この《蛆虫》〔と他者のそれとの関係〕の流れにおけるその均衡を打ち破り かれ自身の出発をなすところを描いている。

・・・私は理解した。そこで私が幸福を味わっていた陽光の均衡と砂漠のたぐいまれな沈黙とを破ってしまったのだ ということを。・・・

と。それに対して ヴァレリは その詩の中できわめて内面的に 《そよ吹くちから / が 活字を飛ばして・・・〔 Le vent se lève. Il faut tenter de vivre. 〕》というように ただ《風の起こる》ことによって《生きることを試み》ようとする。ヴァレリのばあいは 一見《真昼》あるいは《かげろうの海》の均衡であるとか秩序であるとかを打ち破ることはしていないように見える。しかし すでにかかげた部分的な引用にも見られるように いわば内側から・内側において 《風の起こる》につれて かれは かれのそれまでの《穏やかな屋根=真昼の均衡》を打ち破る瞬間をうたっていないとは言えない。もっとも ムルソウの場合は 真昼の《陽光の均衡》は ある意味で そこで決定的に破壊されてしまうのだが。・・・
ただし そのような色彩の相違のもとにも かれらのあいだでは 一般に――ぼくたちとの対比からいけば―― 意識〔それは ある意味で複数である。もしくは複数の意識の関係・体系〕の意識によるあざむきに対して 同じくその意識の内側から ともにそれぞれ固有の時間・固有の出発を持とうとするのが見られる。――ムルソウの例のような 殺人もしくは自己の抹殺が 正当化されるものであるか否かという問題は――同じく重大ではあるが―― ここでの問題とは微妙にその視点はちがう。すなわち いま述べようとしている点は ある意味であくまで言葉の上の世界に属する事柄であり――従って現実に立脚していると言わねばならないのだが・従って行動ともつながりを持つのだが―― そこにおいてぼくたちが 洋の東西を問わず 出発をなすときにおいて 重くある意味で決定的にのしかかる問題という点に限定していいように思う。――ここで
さらにふたたび 大岡の詩作の場合を例にとって いくらかその後を追ってみるならば

死者よ この乾ききった岩石に棲み そして遥かな樹根に棲め
たとえば色なら しののめの色 溢れる 泪の真珠色の光沢(つや)となれ
死者よ 二つの凍った極を持つこの遊星の 千の頂きに 同時に棲め
たとえば足なら ハイエナ 駝鳥 襲うコブラのつむじ風となれ
死者よ 光のとどく限りの涯の 暗黒の淵に去って棲み
たとえば手なら 海に湧く大渦巻(メエルシュトレエム) 糸を刺す乙女の指のすばやさとなれ
死者よ 足跡を消し 清浄な空の道をたどり 黄金の波に横たわって棲め
たとえば歌なら はてしない軍旅の歌 恋の歌 永遠の地虫の歌の涼しさとなれ
死者よ 日光(ひかげ)もささぬ沼に棲むわれらを見捨て 舌にひびく果実となって再臨せよ
再臨せよ


死者よ
大岡信:咒)

これは 《咒(じゅ)》の全部である。ここには ヴァレリとの対比の上で いくつか指摘すべき事柄がある。いやむしろ 同じく《海辺の墓地》の中から 同じように《死者》に向かって投げかけられた次の一節を対比させるならば 指摘するというよりは いまぼくたちは 両者の互いの《時間》の座標が ある意味で重なったかの感を持つ。それはヴァレリが たとえば

深い地底の父祖たちよ 何も住まわない脳裡よ
何杯もの土を盛られその重みの下で
大地と化し 私たちの歩行をもわかたない人びとよ
真にむしばむ者 異論の余地のない蛆虫は
墓碑の下に眠るあなたたちとは無縁である。
この蛆虫は生によって生き 私を離れることがない。

つまり意識のことなのであるが このように言い放って 自己がはっきりと《時間》の側にいることを明示するくだりを対比するばあいである。
もっとも ここですぐに感じ取られることは 意識を――あるいは むしろ社会を言うべきかも知れないが この蛆虫を――出発点に持つということを 片や むしろそのものとして明確に表示するのに対して 他方では 情感の中にそれをうたうことをやめない。
いや ここで さらにひるがえって これら《死者への呼びかけ》の両者をさらにじっくりと対比させてみるならば 明らかにそこには―― 一たん重なりあったと思われた両座標軸が 旋回して互いに乖離するかのように―― 両者の方向のへだたりが生じているのを見ることが出来る。その点をいまいくらか述べよう。がそれについて ここでいくらかまず概念的な整理をしておくならば。――
まずはじめに 意識が 社会的な意識の体系〔それを むしろ 階級という意識の対立とその体制と言ってもよいが〕の中において 互いに対立する別個の意識を発見する もしくは そこでおのれの意識において おのれがあざむかれるのを発見するとき そのような断層を伴なったしかも意識の流れは 概念的にいうならば いわゆるぼくたちの精神である。
このことは 同じように ぼくたちに馴染み深い言葉で表現するならば――それはちょうど大岡の《青春》や《青空》の中で表現されていたように そしてすでに少し触れていたように―― ぼくたちの日常のつきあいの中で このような共同の情感と思っていたものによって おのれの情感があるときあざむかれることを経験するのであるが このような同じく屈折を伴なったしかも情感の流れ もしくはその共同性 これが今度は やはりぼくたちの精神にあたるものであろう。これまで述べてきた 意識と情感との差異は それらが互いに通底していながら 簡単にいえば 以上のような点にあると言うことができよう。
そこでもしそうだとするなら 先ほどのヴァレリと大岡との両座標軸の乖離というのは 次に述べるような点に見出されるであろう。まず初めにそれぞれの作品からさらに引用することにする。それらはともに すでに引用したものよりさらに後の作品からである。まず大岡は たとえば次のような情感(その共同性)をその後の軌跡として描いている。

・・・大洋に貝殻骨を張る帆船・・・
・・・
ほとけをくらった魚(うを)をほどいて血に濡れるとき
船乗りは忘れる 家のたをやめ
けれど女のしなやかな繊維は
海図のえがく図形をしのぐ歓び


いづれはほどけて露にかへる地の船乗り
歴史の運河の遺構のしたに
つかのまゆゑに涸れることない
歓びのみなもとをたぐるのだ


髪は夜空にさかまいて
渦型の星のさまに調律され
悉達(シッタ)らも
ジャンジャックらも
砂地にひそむ種子のやうに
たたまれて息づいてゐる
冬の日
宇宙鏡(かがみ)のなか
大岡信:四季の木霊――冬日――。太字は引用者)

一言 触れておくならば ここには 情感(その共同性)が 横に平面へとその視点を寝かせて そしてその視点じたいも うたわれているのを見る。それに対して ヴァレリは 軌跡としてはそれほど変遷をとげたとも思われないが たとえばやはり長編の詩《若いパルク( La Jeune Parque )》の冒頭を次のように始めている。

星を散りばめたこんな時間に 孤りして
そこで
もし風の音でないとすれば 泣いて
いるのは 誰かしら
今にも泣こうとしているわたしのこんなにそばで
いったい 誰が 泣いているの?


何か心の深い意図に対して憑かれたかのように わたしは わたしのこの手は そっと 目鼻をかすめて わたしの中から 多分それは わたしの弱さの中から 一滴のしづくがこぼれるのに 触れたように思っている。
〔わたしは〕わたしの運命をおもむろに超えて 《もっとも純粋なるもの》が 静寂のかなたから この傷ついた心を照らし出してくれることを待っている。
〔大波は〕大波のうねりは わたしの耳に〔は〕咎めのうねりを囁いている。――
岩礁の喉の方へと 欺かれた藻くずを ものを苦々しくも呑むことになったような 心を締めつける嘆きをざわめかせ 送りやっている。
そして
髪を逆立て 凍ったような手をかざして おまえは 何をしているの?
あらわな胸の谷間を抜ける こんなに執拗な 風に吹かれた落ち葉が ざわめきつづけるのは
何故なの?
この未知の天空につながれて
わたしは きらめいている。
災厄を求めているわたしの渇きに 限りない天体は
輝いている。
・・・
わたしは ここまで
わたしを噛むあの蛇を追ってきてしまったのかしら。
・・・
(ポール・ヴァレリ:若いパルク 引用者私訳・太字も引用者)(→[詩]ポール・ヴァレリ《若いパルク》 - caguirofie040928) 

  • すでに気づかれたように 訳は 単語および形式において 自由なままに為している。了解あれ。またこの《若いパルク》は 女性であるパルクの自称による語りとして 上記のようになした。

ここでは 《意識》において出発したヴァレリは 端的に言って その意識の純粋な地点――もしくは 精神という地点〔《パルク》は もちろん運命の女神(そのうちの一人)である〕さらにもしくは 精神が精神するという働きとしては 知性という地点――そのものを 見つめている。ないし描いている。
それは 先ほどの大岡のばあいが 情感の平面化(平面的な普遍化。ただし 平面的な視点のしての純粋化は とうぜん含まれるであろう)であったとするなら このばあいは いわば意識の上昇・垂直化というように指摘することができよう。同じくそこに 《髪のさかまく》もしくは《髪を逆立て》る光景がそれぞれ述べられるが その状態は 片や一方では 《調律され》 他方では そのままである もしくは 自問するのみである といったように。そのような両座標の乖離である。――
以上 あらためて振り返れば 両者ともそれぞれの様式において ともに言葉の世界で 最初の出発のときからの主題を展開していると言うことができる。もっともこのことは ある意味で当然のことだが そこで重要なことは――やはり当然のことだが―― その主題の展開が 《言葉によって為される》ということ そして《その進路は それぞれに固有の方向のうちにある》ということである。
つまり ここで特に 次へのぼくたちの展開にとって大事となる点を取り出すとすれば それは 第一に 主題の展開すなわちぼくたちの《時間》というものには 《言葉による》とともに 他方 《行動による》という領域が同時に考えられるとすれば このような《時間》の・便宜的には分けうるところの二つの領域が 互いの関係として どのように省みられるべきかという点 
および第二に すでに触れてもいるように 特に日本という社会においての出発が 西欧のそれに比べて ぼくたちに固有の方向としてあるとするなら それはどういうことか 
そしてさらに そのぼくたちに固有の方向においても さらに具体的にその中にいくつかのきわだったしかも相い異なる色彩が おのおの存在すると考えられるが それは それぞれどのようであるか こういった点である。
またこの第二の点(その特に後者)は 当然 《時間》を一応 言葉によると行動によると二つに分けて考えるときそれらの領域は互いにどのような関係にあるかを問うといった第一の点と関係してくるであろうと思われる。
ヴァレリと大岡との対比から そのまま一気に次の課題へと移ることになったかたちだが この課題もおそらくは この章で取り上げた 意識と情感との対立が 微妙に《時間》においてその方向および色彩のちがいを生むであろうといった点に関連して考察されるものではあろう。いづれにしても ここでは 情感およびその平面化 そして意識およびその垂直化を見ておいて 章を改めることにする。


(註)
先ほどの《若いパルク》は 自由訳であるので 次の翻訳にもあたっておかれるよう掲げることとする。

泣くは誰(たれ) 彼處(かしこ)に、一陣の風にはあらで、この黎明(あさまだき)
ただひとり、窮極の金剛石と共に在る時・・・ さはれ泣くは誰か、
かくもわが身の間近くに、われの泣かむとする時に。
わが顔に将(まさ)に触れむと夢みるか、何かは知らぬ、
深刻なる心の意圖に 茫然と従ふこの手は
わが弱さより 一滴の涙の流れ出づるを待ち、
わが宿命の心身より 徐(しづ)かに分離せられゆく
最も純粋なるものが、この傷心を 沈黙の中に解明するを待つ。
  大波のうねりは 或は咎むるが如き氣色(けはひ)をわれに囁き、
或は彼處の 岩礁の狭間の喉に、
欺かれ苦々しくも呑まれたる事物のごとく、
欺きと心を締めつくるざわめきの音を叫ぶ・・・
髪逆立てて、凍りたるその手を擧げて、何事を汝は爲すか。
また風に吹き散らさるる落葉の恐るるごとき顫動は
全裸の胸に盛上がる島と島との間(あはひ)に、なほ執拗にも續くか。
燦々とわれは煌(きらめ)く、この未知の天空に身を結ばれて・・・
災(わざはひ)を求むるわが渇きに対し、星辰の無限の葡萄の房は輝く。


・・・
ここに われは われを噛みたる一匹の夢中の蛇を追ひゐたり。
鈴木信太郎訳)
Qui pleure là, sinon le vent simple, à cette heure
Seule, avec diamants extrêmes?... Mais qui pleure,
Si proche de moi-même au moment de pleurer?

Cette main, sur mes traits qu'elle rêve effleurer,
Distraitement docile à quelque fin profonde,
Attend de ma faiblesse une larme qui fonde,
Et que de mes destins lentement divisé,
Le plus pur en silence éclaire un coeur brisé.
La houle me murmure une ombre de reproche,
Ou retire ici-bas, dans ses gorges de roche,
Comme chose déçue et bue amèrement,
Une rumeur de plainte et de resserrement...
Que fais-tu, hérissée, et cette main glacée,
Et quel frémissement d'une feuille effacé
Persiste parmi vous, îles de mon sein nu?...
Je scintille, liée à ce ciel inconnu...
L'immense grappe brille à ma soif de désastres.

......

J'y suivais un serpent qui venait de me mordre.

(つづく→2006-06-26 - caguirofie060626)