caguirofie

哲学いろいろ

#1

――ポール・ヴァレリの方法への序説――
もくじ→2006-07-07 - caguirofie060707

α

穏やかな屋根に 鳩が幾羽か
遊ぶ 真昼 樹々の間の
墓石の間の
かげろうの海が
また
寄せては返す この
ひととき 古えの
神々の沈黙に
じっと
耳を傾けてきたのだ


Ce toit tranquille, où marchent des colombes,
Entre les pins palpitent, entre les tombes;
Midi le juste y compose de feux
La mer, la mer, toujurs recommencée !
O récompense après une pensée
Qu'un long regard sur le calme des dieux.
[詩]ポール・ヴァレリ《海辺の墓地》etc. - caguirofie040925

または

鳩の群が歩いてゐる この静かな屋根は、
松の樹の間、墓石の列ぶ間に、脈搏ってゐる。
「午(まひる)」の極は、ここに今、火焔で海を構成する。
絶えず繰り返して打寄せる 海を。
神々の静寂の上に、長く視線を投げて、
おお 思索の後の心地よい この返禮(むくい)。
              (鈴木信太郎訳)

と最初の一節の始まる《海辺の墓地( Le Cimetière marin )》の詩編に 作者ポール・ヴァレリは ピンダロス(518-ca.438BC)《巫女祝勝歌Ⅲ》から次のような一節を引いて そのエピグラフとして添えている。

愛する魂よ 不滅の生を望まず
力の及ぶところを究めよ

と。これは たとえばテレンティウス(195-159BC)にも

汝の欲するもの起こり得ぬゆえに
汝の能うものを欲せよ

という詩句があるように 一般に ぼくたちに馴染みの深い主題の一つである。――それは 冒頭に引用した一節を受けて ヴァレリが この二四節一四四行から成る詩編を次のような最終の二節によって締めくくっていることに通じているとおりである。すなわち

そして
いま 起つのだ 相つぐ
季節の中に
メタモルフォセスの時間
私は胸に
風の誕生を受けて
海の匂いを かぐ
塩っ気というちから!

・・・

そよ吹くちから
が 活字を飛ばして
岩しぶきが あがる
歓びの波が はねる
三角帆のついばんでいた
この穏やかな屋根に

または

いな、いな・・・立ち上れ。繼起する時代の中に。
わが肉體よ、嚥み干せ、風の誕生を。
芿新の大氣は、海から、湧きあがり、
わが魂を俺に返還する・・・おお 鹹(しほから)い風の力よ。
さあ 水に驅けこんで 生生として躍り出そう。

・・・

風 吹き起る・・・生きねばならぬ。一面に
吹き立つ息吹は 本を開き また本を閉ぢ、
浪は 粉々になって 巖(いはほ)から迸り出る。
飛べ 飛べ 目の眩(くるめい)た本の頁(ページ)よ。
打ち碎け、浪よ。欣び躍る水で 打ち碎け、
三角の帆の群の漁(あさ)ってゐたこの静かな屋根を。
              (鈴木信太郎訳)           

というようにである。――ぼくたちは ここで もちろん翻訳の問題を論じようというのではない。また この主題じたいについてでも必ずしもなく ぼくたちはいま このような主題が生まれ来る時について考えようとしている。そしてもちろん このような《時間》にあっては いまあげた主題とはちがった方向を持つ別の主題が生まれていいたぐいのものである。おそらくそれは――ヴァレリの例ではないが―― ぼくたちのいわゆる出発の時点にあたるときであろうし またこのような出発のとき自体の方向は それぞれ ぼくたちのその後の進路を 陽に陰に やはり大きく色彩るものと思われるからである。


たとえば さらに

あてどない夢の過剰が、ひとつの愛から夢をうばった。・・・
あてどない夢の過剰に、ぼくは愛から夢をなくした。
大岡信:青春)


最初、わたしの青空のなかに、あなたは白く浮かびあがった塔だった。あなたは初夏の光の中でおおきく笑った。わたしはその日、河原におりて笹舟をながし、溢れる夢を絵具のように水に溶いた。・・・
大岡信:青空)          

と述べるとき その作者・大岡信は この最初にあげた《海辺の墓地》の主題の中に入る。あるいはつまり 《不滅の生を望まず / 力の及ぶところを究めよ》というピンダロスの主題と相即的である。――さらに例を挙げておくならば 大岡信のばあい これらの数節は 初期の作品に属するものであったが かれの比較的後期のものから任意に引用するとしても同じようなことが言える。

・・・
ランプは夢の中でのみ 輝く
鉄もまた
波も
世界を見るとはいかなることか
生きるとき鉄は輝かず痛く重い
世界は限定される
〔しかし触角は別の眼ではないのか
この暗闇の旅にあって〕


信仰は与えられない
〔泉こそ つねに信仰のシンボルであろう
それは内から湧いて一つの方向をもつ
私には横たわった姿勢しかない
解剖台の上でもついに姿勢は変らない
しかし その時 ほのかな明るみがあるだろう〕
・・・
大岡信:告知。〔 〕をつけたのは引用者)

ここには 当然のことながら(?) 初期の頃と同一の方向・同一の主題がうたわれてある。

  • ただ その中で 〔 〕を付した箇所・特に《しかし触角は別の眼ではないのか / この暗闇の旅にあって》という叙述の意味するものは 後にふたたび注目してみたいと思っているかれの色彩の一つである。今は触れない。

そしておそらく――おそらく―― このような方向・主題の意味するところは おおきく ぼくたちのいづれもが その同じ認識・同じ経験のうちにあるか・もしくはあったであろうと思われる事柄に属す。ぼくたちは この《時間的なるもの》と題したことがらを思索する上で まずはこのような点から入っていきたいと思う。それは 特に明示すれば 日本人としてのぼくたちの《時間的なるもの》について論及するという目的のうちにある。


ぼくたちはここで 必ずしも西欧の人びとの《時間》を取り上げない。ただ そこから生まれるかれらのさまざまな主題については おそらくぼくたちにとっても重なる部分があるとは思われる。そしてここではとりあえず 広い意味で文学にたずさわるいくらかの人びとについてそれを取り上げるつもりである。それは主な人びととして先にあげておくならば 江藤淳 吉本隆明 大岡信 加藤周一 さらに水田洋 平田清明らである。
繰り返し述べるならば ぼくたちのここで行なおうとしていることは 作家論や作品論ではない。あるいは思想それ自体の中に入って論じることでもない。ぼくたちつまり日本に生まれた者として ぼくたちに固有の出発の時間およびその方向としていくつかの主題があるとすればそれらを これらの文学者の文章について望み見ようとすることである。
(つづく→2006-06-25 - caguirofie060625)


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  • わたくしの所謂 処女作です。しかも 信仰の自覚が生じる前に書いたものです。アウグスティヌスは読み始めていました。
  • けっきょくは 社会思想をある程度において一通り学んだと思ったとき その覚え書きを取ったというかたちのものです。これを続けるとは必ずしも思っていなかった。そうこうするうちに 信仰の自覚も生まれて この道を進むはめに。
  • (覚え書きといえば 要約するのが一般的ですが そんなことにはおかまいなく 自分の関心のある主題に集中して それだけを追いかけようとしたもののようです。)