caguirofie

哲学いろいろ

しるし・ことば・記号

きょうも引用。そういえば わたしは以前 自らを引用魔と譬えたことがあり。

われわれが語っている場合 記号を作っている( signa faciens )のであり そこから指し示す( significare )という言葉が派生している・・・
(《教師――息子アデオダトゥスとの対話――》4 記号は記号によって指示されるか)

=初期哲学論集(2)


つまり 語る場合に わたしは言葉によって言葉を指し示し また言葉以外の他の記号を指示しているように思われるのだ。
たとえば わたしが“身振り”とか“文字”とか言う場合がそうだ。というのは これら二つの言葉によって指し示されるものもまたさらに〔別のものの〕記号だからだ。
あるいはまた 語る場合 記号でない他のものを指し示しているように思われる。たとえば“石”という言葉は何かあるもの(石)を指し示しているのだからそれは記号であるが “石”ということばによって指し示される石そのものは記号ではないわけだから。
したがって この種の記号 つまり 記号でないものを指示する言葉はわれわれがここで論じようとしている種類の記号には属さないことになる。われわれは 記号が記号によって教示される種類の記号について考察しようとしているのだから。
そしてこの場合 この種の記号の中に二つの区分がみとめられる――すなわち記号によって同じ記号が教えられ想起される場合と 〔その記号とは別の〕他の記号が教えられ想起される場合とがみとめられるのだが・・・。
(ibid )

  • 記号によって同じ記号が教えられ想起される場合》というのは 次の引用文によれば 《記号系の再帰的うごき(recursive move)》というらしい。《〔その記号とは別の〕他の記号が教えられ想起される場合》は 《<外への指示・外延指示>(denotation)》だと知られる。少々荒っぽく言えば 学者は千六百年ものあいだ いったい何をしていたのだろう。( bragelone ) 

しかしながら、グッドマンが――そもそもパースその人も!――明らかにしたように、記号機能とは、記号系の再帰的うごき(recursive move)に他ならない。すなわち<外>(=<外への指示>(denotation))は記号機能が遂行された後にはじめて設けられるカテゴリーなのである。
(id:namdoog060625

  • つづき。

アウグスティヌス(Aug):さあ それでは これから別の側面を つまり 記号が記号によって指し示される場合ではなく われわれが《指し示されうるもの( significabilia )》と呼ぶところのものについて考えてみようではないか。
それで まず第一に 人間は人間であるかどうか わたしに言いたまえ。
アデオダトゥス(Ad ):今 あなたは冗談を言っておられるのかどうか わたしにはわかりかねますが。
Aug:どうしてそのような?
Ad:なぜなら あなたは 人間が人間以外の何かであるかどうか わたしに聞くことが必要だと考えておられるからです。
Aug:そう もし わたしが 

この名詞( homo )の最初の音節が “ ho "以外のものであるかどうか また 第二の音節が“ mo ”以外のものであるかどうか

を尋ねているのであれば 〔なるほど〕きみはからかわれていると考えるだろうとわたしは思うがね。
Ad:たしかにそうだと思います。
Aug:ところで これら二つの音節が結合されると “ homo ”(人間)となる。このことをきみは否定するだろうか。
Ad:だれが否定しましょう。
Aug:ではきみに尋ねよう。きみはこれら二つの音節をあわせたものであるかどうか。
・・・
アウグスティヌス:教師 8 指し示されたもの(実在)に注意を向ける必然性)

Ad:《人間は人間であるか》とあなたが問う場合に あなたがわたしに問うているのは これら二つの音節〔 ho-mo 〕についてなのか それとも それらの音節が指し示しているもの(実在)それ自身についてなのかを わたしがまず初めにあなたから聞かない限りは わたしが何を考えているかはあなたに言わないことにします。
Aug(さらに したたか・頑固?――引用者):それよりもむしろ わたしの質問をきみがどんな意味で受け止めたか 答えてみなさい。・・・
(《教師》§8)

上の引用箇所のやりとりを指して言ったのですが 《上回る》とか《怪物》という表現は 少々行き過ぎたかも知れません。
ちなみに 次のような発言も見られます。ところどころ(たとえば〓)疑問を呈することができるように思いますが 〓の内容は――神の語を用いた発言にはなっているものの―― なかなか意味深いとわたくしは考えています。

Aug.:これまでの話し合いから何がわかったか 思い出してほしいと思う。
Ad.:できる限りそうしましょう。
まず第一に どういう理由からわれわれは語るのか その理由の探求にわれわれはかなりの長い時間をかけました。そして〔その結果〕われわれが語るのは 教えるため ないしは想い起こさせるためであるということを発見しました。
Aug. 問いかける場合でさえも その質問を受ける人にわれわれが聞きたいとねがっている事柄を知らしめるため以外の目的で問うわけではないわけです。
Ad. また 歌を歌うときも〔それがわたしたちに与える〕喜びのために歌うのだと思いますが その喜びの原因となると思われるものは 〔メロディーから生まれるのであって〕適切な言葉からではありません。
Aug. 神に祈る場合も 神は教えられたり想起させられたりする必要があると考えることはできないのですから わたしたちが語るのはわたしたちがわたしたち自身を想起するため あるいは わたしたちによって他の人が警告を与えられるか教えられるかするために語るのです。
(《教師》7 要約)

その〓ですが 実際には その内容は当たり前のことのようなのですが・・・。つまりわたくしが注目した点は 我れと神との〔垂直の〕関係が 我れと他の人との〔水平の〕関係と同じ内容の場になっているといったことです。