caguirofie

哲学いろいろ

ものとしるし

引用になるけれど・・・。

ところでその用法がすべて指示するはたらきに属するようなある種のしるしが存在する。たとえば言葉がそれである。人がすべて言葉を用いるのは なにかあるものを指示するためだからである。
以上のことからわれわれがなにをしるしという語でもって 呼ぼうとしているかがよく分かる。つまりしるしとは他のなにかあるものを指示するために用いられるもののことである
だからすべてのしるしはある種のものである。でもすべてのものがかならずしもしるしであるとは限らない。
アウグスティヌスアウグスティヌス著作集 (第6巻) キリスト教の教え 1・2)

すなわちしるしとはそれが諸感覚にもちこむ像の外に なにかそれとことなるものを それ自身によって思惟の中へともたらすものである。
たとえば足跡を見れば その足跡の主である動物が通ったと思うし 煙を見ればその下に火があることが知られる。
さて しるしのうち あるものは無意志的なものであるが あるものは意志的なものである。指示しようとする意志や願望をもたずに それ自身から それ以外のなにものかを知らせようとするしるしは 無意志的なものである。
火があることを示す煙がこれにあたる。煙は指し示そうと願って指示するのではない。・・・
(同上 2・1)

この《無意志的なしるし》は この程度触れておけばよいだろうと 次に《意志的なしるし》を取り上げる。

ところで意志的なしるしとは すべて生命をもったものが 感覚したことにせよ 理解したことにせよ 心の動きをできる限り表現するために たがいに与えあうもののことである。われわれにとって意思表示する つまりしるしを与えるとは しるしを発信する人が心に抱いていることをとり出して 他者の心の中に移し入れることに他ならない。だからこの種のしるしを それが人にかかわりをもつ範囲でのみ考察し論述することにきめた。・・・
(承前=2・2)

そのほか 覚え書きのごとく。

そこでわれわれが理解しようとつとめている表現が文字通りであるか それとも寓喩的な表現かをなによりもまずよく検討すべきである。
(3・24)


その表現が比喩的であることが明らかになったとき その表現に含まれる語はそれと類似した事物からとられたか なんらかの近接性によってとられたかのどちらかである。
(3・25)


同様にあるものはただ一つの意味しかもたないのではない。いやそのそれぞれは たんに二つのある異なった意味をもつばかりでなく それが置かれている文の位置次第で 多くの意味をもつのである。
(3・25)


ところで文法学者がギリシャ語でトゥロポス(転義)と呼ぶ表現法・・・
いくつかの tropos にあたる名称・・・

  • alegoria ; enigma ; parabola...
  • ironia ; antiphrasis( 語意反用 )

(3・29)


《種と類について》
種は部分 類は全体をさし 全体の一部分を種と名づけようと意図している・・・。
(3・34)


書物の場合 よくわかると読者をなにかしらとらえてはなさないこともあるが 理解できない時には 読者をいらいらさせて読む気を起こさせないような文体で書かれた書物もある。
あるいは だれかとの会話の場合には われわれ自身がすでに認識した真実を理解させるようにしむけるというこの義務を怠ってはならない。たとえ理解するのにどんなに困難をきわめようと 議論がいかに骨折れても 聴き手や話相手が学ぼうとする意欲をもち どんな風に伝えられても受け取ろうとする精神の能力に欠けるところがないならば この義務を怠ってはならないのである。
教える者はどのような雄弁で教えるべきかでなく どのような明晰さで教えるかに心を配るべきである。
(4・9)