caguirofie

哲学いろいろ

#24

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§3 バルカン放浪 ** ――または 家族論―― (24)

テオドリックの家族論において 時間過程が 焦点である。
ここで 違った角度から われわれの存在=孤独の関係の 時間化について 触れておくのがよいと思う。アウグスティヌスが 次のような観察を残している。
それは 《〈時間的なものにおける理性的精神の職務〉(知識)と 〈観想すべき永遠なるものに専念し 認識によってのみ仕上げられる同じ精神のより優れた職務〉(知恵)との区別をなす》ために 論じられたもので 具体的には かれに従えば 神の被造物としてのわれわれ人間すなわち 男と女との特に 性の関係について 聖書の一節を 註解している部分である。このアウグスティヌスの議論は 従って 思うに 両性の関係 殊に女性という性 によって 時間が われわれに得られると語っているようであるが それは われわれの議論との関連でいえば 《愛欲》をとおした孤独関係であり家族関係であると思われるが このように愛欲の時間化の視点を われわれが持つ《労働》による時間化の視点との関連を見るうえで 重要であると考える。少々ながいものであるが まず引用してかかげる。

男が神の似像(にすがた)であり 栄光であるから 頭に蔽いをかぶってはならない。しかし 女は 男の栄光である。(コリント人への手紙第1 (ティンデル聖書注解) 2:7)

・・・男は神の似像であり したがって 女には被るように勧めるその蔽いを 頭から 取り去るように〔使徒パウロは〕語っている・・・。

  • 神の議論は ここでは しないが まずこの点は 現実と超現実との相克の問題にからんでいると思われる。(引用者。以下同じように。)

精神は 永遠なものを志向すればするだけ 神の似像(これが 超現実 の問題であるように思われる――引用者)によって形成されるのであるから 自己を節制し 抑制するように引きとめられるべきではない。したがって 男は 頭に蔽い(これが 従って 現実 の世界 もしくは その現実にかぶせられる蔽いのことになる)を被ってはならないのである。
しかし 物体的・時間的な事物に巻き込まれるあの理性的な行為にとって より低いものへ余りに突き進むのは 危険である。だから それは 頭の上に抑制されるべきものを意味表示する蔽いを示す権能を 持たなければならない。
・・・神は 時間によって 見たまうのではない。また 或るものが 時間的・暫定的に生じるとき 動物や人間の内的な感覚(これは 魂である) また天使たち(これは 霊つまり精神の 純粋思想的な形態であるように思われる)の天的な感覚さえも 影響されるのであるが そのように神の直視と知(われわれの孤独の 現実的な 過程成立)においては 新しいものが 生起するのではない。
・・・
それでは 信仰篤い婦人は 身体の性を失ったのであろうか。

  • 女性も――男の栄光であるゆえに むしろ蔽いを被るように勧められる女性も―― むろん 男と同じように 現実的でありうる そのとき かのじょは 身体の性(これは 経験的な論法で言って つまり 肉のことである)を 失なったというべきであるのだろうか。

そうではない。かれらは 神の似像――そこには性は存在しない――によって新しくされたゆえに 神の似像――そこには性は存在しない――によって 言い換えるとその精神の霊において人間が造られたのである。
それでは 男は神の似像であり栄光であるゆえに なぜ 頭に蔽いを被ってはならないのであろうか。またなぜ 女はあたかも創造主の似像にしたがって神の知識へと新しくされる その精神の霊によって新しくされないかのように 男の栄光であるゆえに頭に蔽いを被らなければならないのであろうか。
女は身体の性によって男と異なっているから その身体の蔽いによって宗教的な典礼で 時間的なものを管理するため下に向けられる理性の――理性の――あの部分を象徴し得たのである。そのため 人間の精神が その部分から永遠の理性に固着し それを直視し それに訊ねることをしないなら 神の似像は 留まらない。この精神は 男のみならず 女も持つことは 明らかである。
アウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論12・7)

これだけでは 孤独の内的な基軸である《愛欲》と 同じく外的な展開である《労働》ないし《事業》とは 直接 むすびつくと見るのは 難しいが 取りあえず 図式的に解して述べてしまうならば 《愛欲》の基本的な形式 十全な形成態である《家族》が 《事業》(事業関係)の同じく基本的に十全な基地であることによって われわれの彷徨の空位期間は 当然のことながら 時間化される契機を持つと言っておいて よいように思われる。結論としては はじめの議論と同じことを述べたのであるが あたりまえのことだから そうだとも言えるし また 観想としては もう少し奥行きの深いものを われわれは この議論をとおして見うるというようにも思われた。
すなわち 

女は身体の性によって男と異なっているから その身体の蔽いによって宗教的な典礼で 時間的なものを管理するため下に向けられる理性の――理性のである――あの部分を象徴し得たのである

これによって 《愛欲の時間化の視点》を明らかにしていると考えられる。《愛欲をとおした孤独関係であり家族関係》であり そこに《労働による時間(=生活)化》との関連を見てよいように思う。
じっさいには――実際には―― はたらく人の 現実と超現実(だからこれは むしろここでは そうではないであろうのに 現実の成立を阻むもの)との相克というのは このような――依然として――観想の領域が だから その意味で 形而上学的な議論が まず有効であるように 思われる。常識としてでもであり 事業論として人が 外へ向かうのは このような愛欲論の実際の展開としての家族論を 離れてではないであろう。このように説くことは 現実の中の階級現実(つまり むさぼるというあたかも超現実)に 目をおおってしまうことになるであろうか。
議論の順序が こうであって――もちろん これを一たん捨象していることは ありうるが―― その逆ではないであろう。つまり 順序は 少なくとも同時であるだろう。つまり われわれは 形而上学的で たしかにあるわけだが これで 事業論としても 議論しているつもりなのである。孤独→愛欲(意志)→事業論の順序である。
問題は 社会科学の議論が残るということであり これは しかし むしろ 資本論の精緻な議論であるよりは 実践(政策)の問題であるように考える。そして 実践は この形而上学というなら形而上学の観想成果を 離れては ありえない。少なくとも 後々の議論のために この家族論をもう少し すすめてみたいと思う。つまり 資本論の 歴史科学的な・政治経済学的な 理論は この家族論に 仕えて資すものであると考えたい。
すなわちさらに 横着な議論をひとつ付け加えるとするなら この家族論という社会現実をもとにして これのために 社会科学の理論(殊にその政策・行政)は 一方で アダム・スミス流の自由放任策をとることもあれば 他方で ケインズ流の積極的な介入策をとることもあると 考えるべきなのである。これは 科学以前の常識である。

(つづく→2006-05-30 - caguirofie060530)