ダ・ヴィンチ・コード
『ダ・ヴィンチ・コード』 (4) - 死海文書とマグダラのマリア : 世に倦む日日より引用します。ダヴィンチ・コードの評論の中で論じられたものです。
- 『民族の世界史(8)ヨーロッパの原型』、この本の中の谷泰の『キリスト教とヨーロッパ精神−とりわけ女性的性をめぐって』より引用された箇所です。
ところでこのようなキリスト教正統派成立期に、ひとしくイエスについて語ったある文書のうちに、次のようなものがあるということを知るとき、われわれはひとつの驚きを禁じえない。
シモン・ペテロが彼ら(イエスの弟子たち)にいった。「マリハム(マグダラのマリア)は私どものところから去った方がよい。女は命に値しないのだから」。イエスがいった。「見よ、私は彼女を連れてゆく。私が彼女を男性にするために。彼女もまたお前たち男性と同じ霊になるために。なぜなら、どの女も、自分を男性にするならば、天国に入るのだから」(『トマスによる福音書』語録番号114)
もちろんこれは、聖書の正典のなかに含まれているものではなく、いわゆる聖典の外典、非正統なものとして除外されている『トマスによる福音書』のイエスの語録の一文である。この福音書は、三世紀の教父たち(中略)によってその存在が語られつつも、その具体的内容が、二十世紀中葉まで明らかにならなかったのだが、エジプトのナグ・ハマディで発見されたいわゆるコプト語のグノーシス文書のなかに、この『トマスによる福音書』も含まれていたために、陽の目をみることになったものである。(中略)
ところで同じくナグ・ハマディ文書のなかには、他の外典福音書といえる『ピリポによる福音書』というものがある。(中略)しかも『ピリポによる福音書』のイエスの言行について語った他の部分には、およそ正典の福音書では想像できない、イエスの行状が語られている。
三人(の婦人)がいつも主(イエス)とともに歩いていた。彼の母マリアと彼女の姉妹と人びとが彼の伴侶と呼ぶマグダラ(のマリア)である。なぜなら(マグダラの)マリアは、彼の姉妹で彼の母で彼の伴侶だからである。
(『ピリポによる福音書』福音32)また他につぎのような言文もある。
「そして(救い主の)伴侶はマグダラのマリアである。主は彼女をどの弟子たちより愛した。他の弟子たちが彼女のところに来て、彼女を非難した。彼らは彼にいった。「なぜあなたはわたしたちすべてよりも彼女を愛するのですか」(中略)
(同上)二つの引用文で共通なこととして、マグダラのマリアが、イエスの伴侶(コイノーノス)として規定されている。そしてイエスは彼女を、他の弟子たちよりもよりよく愛した、というのである。彼は彼女の口にしばしば接吻した。弟子たちがそれに対し不満をもってなぜ自分らよりも愛するのか、といっても、自分は彼女をより愛するのだからと答えた、という。(中略)弟子がマグダラのマリアを排除すべきというのに対し、イエスは「私は彼女を連れてゆく」といっていた。(中略)男性としての弟子たちよりも、女性であるマグダラのマリアを伴侶(コイノーノス)として連れ歩き、彼女にしばしば接吻したイエス像が浮かび上がってくる。
(谷泰:キリスト教とヨーロッパ精神――とりわけ女性的性をめぐって――:in 大林太良編:民族の世界史 (8) ヨーロッパ文明の原型〈ヨーロッパ文明の原型〉 P.279-286)
- もともと イエスについては 《大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ》(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書11:19) と言われている。
- この事実で なあんだと言わない人びとに向かっては 説明を続けなければならないだろうか。
- また『ダ・ヴィンチ・コード』 (5) - イエスの復権と男女平等主義 : 世に倦む日日のように イエスは男女平等を言ったが 弟子たちが ユダヤ教以来の男性優位の思想で その後――教会組織を通じて 中世の長い期間にわたって―― いわゆる女性原理を抑えつけてきたのだという議論をしている。(ちなみに 《ダヴィンチ・コード》にもその議論が展開されているそうな。)
- 道徳と生活慣習としてのキリスト教というのは そんなに影響が大きいのか。
- 影響はされても 左右はされないと思っているのが わたしではある。
- だから 影響が そこから抜け出すべからざるほど大きいという人は その負の影響をむしろ喜んでいるのではないかと疑いたくなるのが まず第一のわたしの反応である。
- 追って議論しなくてよいことを望むのだけれど・・・。