caguirofie

哲学いろいろ

#19

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§2 バルカン放浪 * ――または 孤独―― (19)

さらに続いて論じたい。
次章では ふたたび内面へ戻って 愛欲の現実的な形態(形成態)としての 《家族》をとりあげるつもりである。この家族と そして事業との関係を見てみようと思う。
これの橋渡しと そして なおこの章の論述への補足として いくらかの考察をしておきたい。別の角度から 次のように。
ここに 愛欲の複岸性(不法)ないしその一元性(法)とは おそらく《文明》の問題であろうと考えられる。この角度から。――
われわれの第一章からの論述に沿うならば 文明は キリスト教思想すなわち 具体的に言えば キリスト・イエスの出現の普遍現実の信仰を一つの根拠として 愛欲も資本も 孤独の過程として 展開されたそれだと仮定していた。
一つの類(人類)としてのわれわれの文明というのは この限りで キリスト教化の完成ないし未完成の問題であると見ることは 大いにありうる。つまり いわゆる宗教を信じるか否かの問題ではないこととして それは 単純に もとより たとえば重婚の禁止という法(またやがて法律制度)としての文明 の問題である。その他 この法律のもとでの 愛欲関係の・資本関係の展開過程におけるお互いの さまざまな付き合いの形式・様式のことを言っている。
市民化される( civiliser )という文明 市民化された孤独どうしのつきあい( civilisation )という文明は 世界史的に言っても キリスト教思想と 深くかかわっている。宗教の問題とは 別である。

  • 一般に 信仰――愛欲からの解放 あるいは それの宗教的な(幻想としての)解決からの解放――とは 別でないと思われる。

そこで ここに問題としたいのは 一般に 愛欲の複岸性は 不法(不倫)と見做されている――もしくは そういう意味での愛欲じたいが 貶められている――とき これの内的な基軸としての《性関係》――もっと有り体に言えば 地下水としての蠢き――と 文明との関係いかんである。
すでに述べた結論と関連して言いかえれば 文明の外的な展開過程は 資本の《一元論》であると見られるとするとき この外的な資本一元論が 愛欲論ないしその基軸としての性関係を どう規定するか。つまり これの答えは 上に一般的な見解として出したように 性関係も一元論として 規定されているということである。
逆に言いかえると 文明――内的・外的を合わせた全体的――は これで よいのかと問うことになるはずである。この点を 補論として。
しかし われわれの結論は 考えてみれば もう分かっていた。問題解決の展開過程という場は その形式が 法が法であるという自治すなわち第二の局面にあると見ることにあった。したがって なお問題があるとするなら 資本一元論にもとづく法は 文明として 正当なものか 言いかえると この法は 無理なく法でありうるか これである。
この意味で わたしたちは むしろ先に結論づけるなら ここでは――この論点に限るなら―― 反・文明の立ち場に立つはずなのである。ここでは 愛欲の複岸性 ないし 地下水としての不法 これは 全面的に 擁護されなければならないのではないか。なぜなら――ここに 誤解があってはならないが――基本的に言えば すでに 第二の局面では 複岸性・多元論が ありえても あるいは ありうることを通しても 大きな構造的なその一元論は 大前提なのであったから。
つまり 《法》は この意味で 《法》なのであって なぜ 外的な資本一元論にもとづいた法律が 内的な愛欲の一元論を 説き 人に強制しなければならないのか。これは 文明ではない。もしくは この文明は なお――第一の局面をふたたび引き出してきたところの――規矩・規範としてのそれである。
法律としての取り決め これによる共同自治――つまり そこに 強制を含むであろう――は 必要である。それは 愛欲の複岸性が あるからだ。つまり それが 解放されるのは 強制によってではなく 問題解決の展開過程をとおしてであるから この場に 何らかの取り決めとして 法律は 必要であり その限りで 有効である。しかし これを 資本一元論にもとづく国家――やはり国家の視点――によって 強制することは 文明の問題ではありえない。大きな歴史の流れとして そして 第二の局面の本質的な問題として――だから 未来的にではなく いまただちの現在的に―― 愛欲論および資本論は 《文明》の展開過程としての事柄を 物語っていると見なくてはなるまい。そして これは 基軸としての 性関係の問題である。
これは 補論として必要であると思われた。このように言うことは 超越規範的に見えるかも知れないが 《場》は 動態過程であるゆえ 規範ではありえないのである。このように議論することによって 規範ではありえないのであって そうでなければ 資本一元論のもとに すでに一元論の規範は 成り立っているし これを最高・最後の文明だと言っていることになる。このことは 性関係の場に よくあらわれて 問題となっていると思われる。
この点にかんしては すでに二十世紀の前半において ひとりのイギリス人の作家が指摘するところでもあった。われわれは その意見に全面的に賛成するものであるが それは たとえば次のようである。ここでは むしろ原意を曲げるのを恐れて 原文から拾って引用してみる。

  • ただし先にことわっておくならば 二十世紀の前半の頃と現代とのあいだには 表面的な現象としては 一見 明らかな食い違いがあるように思われるかも知れない。ここでは その底流にある思潮としては それほど へだたりはないと考える限りで。

It is a pity that “sex" is such an ugly word...
Science has a mysterious hatred of "beauty", because it doesn't fit in the cause-and-effect chain. And society has a mysterious hatred of sex, because it perpetually interferes with the nice money-making schemes of social man. So the two hatreds made a combine, and sex and beauty are mere propagation appetite.


Now sex and beauty are one thing, like flame and fire...

Sex and beauty are inseparable, like life and consciousness. And the intelligence which goes with sex and beauty, and arises out of sex and beauty, is intuition. The great disaster of our civilization is the morbid hatred of sex. What, for example, could show a more poisoned hatred of sex than Freudian psycho-analysis ? - which carries with it a morbid fear of beauty, 'alive' beauty, and which causes the atrophy of our intuitive faculty and our intuitive self.


The deep psychic disease of modern men and women is the diseased, atrophied condition of the intuitive faculties. There is a world of life that we might know and enjoy by intuition, and by intuition alone. This is denied us, because we deny sex and beauty, the source of the intuitive life and of the insouciance which is so lovely in free animals and in plants.

(D.H. Lawrence: sex versus loveliness 1928 in Selected Essays pp.14-15 )

一点だけ ここで 訂正しておくならば われわれの異見は フロイトの論述じたいには 必ずしもわれわれの言う愛欲への嫌悪が うかがわれるとは思わないことである。その読まれ方が 問題であり ローレンスは この外的な一元論( the nice money-making schemes of social man )によるところのやはり文明が そう読ませようとしていることを批判している。
この中では われわれのこれまでの議論からいけば 

  • sex and beauty
  • intuition
  • intuitive faculty and our intuitive self

などの語句が 《愛欲 / 内的な一基軸としての性関係 / あるいは特に 孤独関係の内的な複岸性=錯綜性》にあたるものと思われ さらにそして まさしく 

などの語句が われわれの《文明》という言葉を そうでないものをも容れて 担っていると考えられる。ローレンスにしたがえば この文明は 一方で まさに愛欲の複岸性を押さえ込み そうして それは とりもなおさず 愛欲ないし生きものとしての孤独を 萎えさせ 病いの淵にも陥れているという。この意味での《反文明》――つまりむしろ《文明》のことである――が 主張されなければならないということは――そうであるとしたなら―― 先の《資本論》の一元化への抵抗とともに 声を大にして 今なお叫ばれるべきであると考える。
言いかえれば 植物の自然の成長ないし自由な動物性と同じ地下水を 現代人としてのわれわれも あのテオドリックの時代と同じように まず当然 持ち合わせているのであり むしろ 大きくは先に見たような意味で キリスト教に代表される文明によって それらが 法あるいは筋道(ないし条理)として おおむね一般に認容されうる一本の水路へ 孤独の内面における外側の展開として導かれるべきでこそあっても その地下水はあくまで地下水として けっして否定――外面の外的に 否定――されたり 蔑まれたり すべきではないと 主張できる。
これは ややこしい議論である。この点は ややこしい議論である。そして 愛欲の複岸性の根本的に重要な 局面展開にかかわっている。
(つづく→2006-05-25 - caguirofie060525)