caguirofie

哲学いろいろ

#17

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§2 バルカン放浪 * ――または 孤独―― (17)

ここで 孤独という主題のもとに論じるべきその内実のいま一つは 自己の一生の《事業》―― 一般的に言って 社会的な活動のそれぞれ一分節――という事柄である。事業には限界があるということも見ようとしている。
これまでの論に従って言うならば 孤独の外的な展開にほかならない。そして この或る孤独(孤独なる存在)の外的な展開としての事業(あるいはさらに《企業》)は さらには二つの視点に分けてながめることができる。
すなわち 或る情況=社会の中の 企業関係を 総体的にながめる視点と それぞれの一分節を担う個々の側から ながめる視点とである。
そしていま 企業関係の総体的な視点を措いて考えるならば かつ 一つの類型化がゆるされるならば 個人的な視点による外なる企業関係は 孤独という基点を境にして 内なる愛欲の流れ(あるいは所有欲など)の一般的に不法を除外しないで言って 複岸性・重複性とみっせつに関連しているにちがいない。このことが 前節の終わりまでに述べようとしていた事柄である。いまの焦点――つまり 次の展開への一接点――は これである。
単純に言いかえれば 企業ないし おのれの孤独(なぜなら 独立主体というほどの意)の外なる展開としての事業も 内的な地下水の複岸性――または この複岸性を規定して 超えうる・しかも 構造的な過程としての一岸性――に根ざして たとえて見れば 可能性として いくつもの支流をもつといったかたちで 推移していく。支流というのは 生活または経済活動などの 個々のことがら(信頼関係や取引関係などの)のことであり 自己が あるいは 他者が 支流だと言う意味ではない。必然的に不可避のことがら(支流)としては 事業という外的な行為にも 複岸性が起こりうる――つまり 外からそれが 入って来うる――ということである。
事業の複岸性とは なにか。
じつは 愛欲論で その複岸性も 結局は――あの第二の局面にあって 大きくは基本的に―― 個人個人に一岸性であると結論づけたのであったが 孤独の外的な展開にも 一応 複岸性をとりあげること そこまで まず降りてみることは必要なのではあるまいか。ここから 入り進むことにしたい。
事業の複岸性は ここでなお 個人の視点にのっとっているなら まず意識の流れの複岸性であろうかと思われる。
(つづく→2006-05-23 - caguirofie060523)